このページでは登山における遭難の定義は何か? について追及しています。とくに「道迷い」は「遭難」ではないのか? について書いています。
ページ全体を台湾・玉山の登山写真で飾っていますが、本文とは関係ありません。
ニイタカヤマノボレ。台湾最高峰・玉山登山。標高3,952m。謝謝台湾。世界一の親日国。Thank you,taiwan
登山とマラソン、どっちが好き?
みなさん、山登ってますかー!
わたしは「山ヤのランナー」です。登山とマラソン、両方やっています。
どっちが好きなの? どっちが楽しいの? とよく聞かれます。
いつもこう答えることにしています。
「お手軽で快楽なのはランニング。でも死ぬ前に思い出すのはランニングではなく山上の絶景」
脳内モルヒネ。快楽のランニング中毒。世界が美しく見える魔法
問題の「道迷い遭難」の動画はこちら
そんな「山ヤのランナー」であるわたしが、車中泊の途中でたまたま登った山で、道に迷い、車に戻れなくなってしまいました。舐め切って登った楽勝の登山のはずが、焦りまくっています。
そちらをYouTubeにアップした動画がこちらです。
なぜ道に迷ったのかは、道に迷った本人にはわからない
こちらの動画は、ピストン登山のはずが、なぜか車中泊していた車に戻れず、焦りまくっている動画です。
なぜ道に迷ったのか? ですが、いくら考えても道に迷った本人にはわかりません。
それは「落とし物をした人にどこで落としたのか聞く」ようなものです。どこで落とし物をしたのか、落とし物をした本人にはわかりません。だってそれがわかったら、そこに戻って拾えばいいじゃないですか。どこで落としたのかわからないから、警察に遺失物届を出すのです。
道に迷った人も、自分でもわからないうちにいつの間にか迷っていたのであって、なんで道に迷ったのかは、いまだに本人にはわかりません。
「道迷い」は「遭難」ではないのか?
この動画のタイトルを「登山・遭難記録」としたために、コメント欄でちょっとした議論になっています。
そのまま引用させてもらうと、
コメント『お疲れ様です。拝見したところ登山しているとよくある「道迷い」のようですが「遭難」を連呼するのでなんか違和感あるなぁ、って思って、消防団で何回もそっち系の仕事で山に入っている知り合いに見せたら「救助した人って、道迷い=遭難って言ってる人多いよ。道に迷った途端パニくって遭難に直結させるんだろうね」って言ってました。言われてみれば自分も初心者の頃に思い当たる節があり自戒するいい機会になりました。』
キミの動画は遭難じゃなくて、道迷いなんじゃないの? という問題提起です。
この方の言いたいことはわかります。
たぶん遭難というからには、滑落死とか救助ヘリに吊り下げられたりとか、映画のような刺激的な動画が見たかったんだと思うのです。それがただ道に迷って困り果てているだけの動画なのでガッカリしたんだと思うんですよ。
このコメントに対するわたしの返事がこちら。
わたし『コメントありがとうございます。わたしは「正常に帰れない状態」=「遭難」という認識です。実際、北アルプスで救助を要請する人の多くは、道迷いで正常に帰れない状態の人たちではないでしょうか。 ただこのような動画の場合、当然ながら「滑落」とか「救助ヘリ出動」みたいな自分が体験できない(したくもない)センセーショナルな映像を期待する人が多いと思いますので、ガッカリさせてしまっているのだと認識しています。』
つまり遭難の定義が人ごとに違っているということですね。遭難って何だ?
登山における遭難の定義とは何か?
登山における遭難の定義はなにか? という問題提起です。
わたしは「正常に帰れない状態」=「遭難」だと認識しています。だから道に迷って正常に帰れない状態になっていたので遭難という言葉を使いました。
しかしコメントをくださった方(消防団の方も)は、道迷いは遭難ではない、という認識です。
「道に迷った途端パニくって遭難に直結させるんだろうね」というのは、ほんとうは道迷いは遭難ではない、という認識が背後にあります。
登山における遭難の定義は、人それぞれなのかもしれません。道迷いは遭難ではないと考える人は「自力で帰ってこれる可能性がじゅうぶんにあるかどうか」が遭難とそうでないとの分水嶺になっているのかもしれません。
滑落して脚の骨が折れたら、自力で帰ってくることはまったく不可能です。このように客観的に自力で生還の可能性がゼロの状態を「遭難」と定義しているのでしょう。
それに対してわたしは、登山者本人が「助けてくれ」と言ったら、それはもう遭難だろうという考えです。
たとえ登山ルート上で道に迷っていなくても、体力が尽きたなどの理由であっても、次の山小屋までたどり着けなければ、夜になって命に危険が及ぶのですから、それは「遭難」だという認識です。
冬山などでは登山道の上にいても、次の山小屋までたどり着けずに、ビバークして低体温症で亡くなったりしています。
主観的遭難と客観的遭難は違う
トレーニング用語に「主観的強度」「客観的強度」という言葉があります。たとえば
最大心拍数の80%の強度でトレーニングをする、というのが客観的強度です。
しかし同じ最大心拍数の80%トレーニングをしても、それを「キツイ」と感じる人と「軽い」と感じる人がいます。
それでは不公平なので、もうひとつ別のトレーニング方法があります。
あなたが限界だと思う力の80%でトレーニングをしてください、というものです。これが主観的強度です。
今回の遭難の議論は、この主観的強度、客観的強度の話しとよく似ています。
客観的に自力で生還の可能性がゼロの状態を「遭難」と定義している人たちは、客観的強度の話しをしています。この状態を客観的遭難と命名します。
それに対して、登山者本人が「助けてくれ」と言ったら、それはもう遭難だろうと定義している人たちは、主観的強度の話しをしています。この状態を主観的遭難と命名します。
主観的遭難と客観的遭難は違うのです。
道迷い遭難。気象遭難。滑落遭難。雪崩遭難
道迷いが遭難かどうか、議論がわかれるところですが、山岳遭難のなかで最も多いのが「道迷い遭難」だと言われています。そういう言葉がある以上、「道迷い」は「遭難」ということになっています。
豪雪、カミナリ、ホワイトアウトなどで帰れなくなる気象遭難。加藤文太郎さんがこのパターンです。
岸壁や雪庇、崖などから落ちる滑落遭難。森田勝さんがこのパターンです。
雪崩に巻き込まれる雪崩遭難。長谷川恒男さんがこのパターンです。
このように、●●遭難という言葉がある以上、一般的に「道迷い」は「遭難」ということでいいのではないでしょうか。
「道迷い」のYouTube動画に「遭難」という言葉を使うかどうかはまた別の問題です。
わたしがあたりまえのように使った言葉が、動画のアクセス数集めのためわざと使った言葉だと勘ぐられたりもしました。
「道迷い」は「遭難」である
言葉がある以上、定義があります。「道迷い遭難」という言葉がある以上、「道迷い」は「遭難」なのです。客観的遭難ではなく、主観的遭難が、世間では採用されているということです。
当然だと思います。よく考えてみてください。だって「助けて!」と山岳救助隊に連絡が入ったら「あんた、それは道に迷っているだけで遭難じゃないから自力で戻ってきなさいよ。うちらは遭難じゃないと出動しないんだ」とは言えないじゃないですか。それでもし登山者が死んだら、山岳救助隊の存在意義を問われます。
というわけで登山者本人が「正常に帰れない。ヤバい。誰か助けて」と感じたのなら、その「道迷い」は「遭難」と呼んでいいだろうと思います。