ドラクエ的な人生

宮崎駿アニメ監督! 風の谷のナウシカの続編をつくればいいのに。

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宮崎駿アニメ監督にもの申す。宮崎ジブリ世代のアニメ聖地巡礼

ウチの妻イロハさんは「JALカードと行った思い出の旅コンテスト」(第四回)に風景部門で入賞しています。「本当にあった! あのアニメの世界!」というタイトルでギリシアのザキントス島のシップレックビーチ(ナバギオ・ビーチ)を崖の上から撮った写真が入賞して、沖縄オクマビーチのホテル宿泊券をいただきました。

『紅の豚』のロケ地。ギリシア・ザキントス島のシップレックビーチ(ナヴァイオ海岸)

見ての通り、ここは宮崎駿アニメ監督の『紅の豚』の主人公ポルコが休暇中に隠れ住んだ場所のモデルだとされている場所でした。まさにいま流行りの「アニメ聖地巡礼」でした。イロハの写真が上手だったというのもあると思いますが、やはり写真が入賞できたのは宮崎監督の『紅の豚』というアニメ映画があったからこそだと思います。お世話になりました。ありがとうございます! 私はモロに宮崎ジブリ世代。基本的には宮崎駿監督が大好きです。

紅の豚『悪いが俺は休暇だ』

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『君たちはどう生きるか』。それじゃねえだろ! 宮崎さん!

その宮崎監督はもうご高齢で、とっくに激務のアニメ監督を引退されているのですが、なんとまた復活し(大仁田厚ぐらい引退から復活しますね)、このほど新作を劇場公開するというのです。その作品の名は『君たちはどう生きるか』。

ええ~!! ガッカリ!! それじゃねえだろ、宮崎さん!

私は宮崎さんが毛虫の作品(『毛虫のボロ』)を制作すると語っていた頃から常にこう言い続けてきました。

「いや。それじゃねえだろ、宮崎さん! ナウシカの続編つくれや!」と。

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「風の谷のナウシカ」の都市伝説。当初劇場版ではノーパンだった

私はモロに宮崎ジブリ世代なので『風の谷のナウシカ』は劇場で見ています。テレビでしか見たことがない、という世代ではありません。銀座の映画館でクラスメートと『風の谷のナウシカ』を見たのですが、映画を見終わった後のクラスメートの最初の感想は「ナウシカってノーパンだよな」でした。はっきりいって私にもそう見えました。架空の世界での物語ですから「この世界ではパンツ履かない設定なんだな」と思ったことを今でもはっきりと覚えています。

でもその後、テレビやDVDでいくら見てもナウシカがノーパンには見えません。映画館であれほどはっきりとノーパンだと思ったのに、なんでテレビではノーパンに見えないのでしょうか?

私はコンプライアンスのために後から塗りなおしたのではないか、とひそかに思っています。

知っていますか? ミケランジェロの『最後の審判』の登場人物たちは当初は全員全裸だったということを。イエス・キリストも全裸でした。羞恥心をあおるという苦情があって、後から腰巻を書き加えたのです。考えてみれば人間裸で生まれてくるのです。あの世とやらがあるのなら裸で過ごしているのが道理だという気がしますよね。

ゴヤの『我が子を食らうサトゥルヌス』では、当初の絵では勃起した男根が描かれていたそうです。これもコンプライアンスのために後からペニスの部分を上から黒く塗ってしまったそうです。そのように見ると黒くぼかされた部分がちょうどペニスのように見えますよね。巨根だなあ、うらやましい(笑)。

『風の谷のナウシカ』もこのパターンではないかと私はひそかに思っています。当初の劇場版ではノーパンだったナウシカを、コンプライアンスのために後からタイツを履かせたんじゃないかなあ。そうでなければ、劇場でこの目で見て感じたことと、友だちとの会話との辻褄があいません。

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『風の谷のナウシカ』の続編を希望!

この『風の谷のナウシカ』には宮崎駿著の漫画版の原作があります。壮大な物語でした。映画で描かれたのは原作の前半部分に過ぎません。

私は昔から「ナウシカの続編をつくればいいのに」とずっと思ってきました。「ハウルもいいけどナウシカだろ?」「ポニョも見てみたいけど、その前にやるべき作品があるんじゃないの?」「風立ちぬってバカじゃないの? それじゃねえだろ!」

もちろん自分が見たいということがありますが、興行的にもほぼ成功するであろうことは確実だからです。原作漫画を知っている人は、私の言っている意味がわかりますよね?

原作では映画をこえた凄い世界が展開されます。ユパさまって最期は剣で串刺しにされて死んでしまうんですよ。知っていましたか?

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老害? 『君たちはどう生きるか』老人のダイレクトな説教、人生訓、主義主張の臭いがプンプンするんだが

それがまたしても……せっかく引退から復活したというのに、新作のタイトルは『君たちはどう生きるか』だそうです。何それ? コペル君が出てくる例のベストセラーのアニメ化?

タイトルに著作権はないので、吉野源三郎さんの作品とは「タイトルだけ同じで中身はまったく別の作品」かもしれませんが、そんなことはどうでもよろしい。見たいのは「ナウシカの続編」だということに変わりはないからです。

吉野源三郎原作にせよ、そうでないにせよ、タイトルをそうするぐらいですから、いずれにしても「君たちはどう生きるか」的な作品であることは間違いありません。見たいのは、そういうのじゃないんですよ、宮崎さん!

2023年7月14日に劇場公開だそうです。このコラムを書いている時点(7月12日)ではまだ内容がぜんぜんわかっていないのですが、そんなことは問題じゃありません。どうせ劇場に見に行くつもりもありません。ナウシカの続編だったら絶対に見に行きますけどね。「コンテンツを見もしないで何で批判するのか」という容易に推察される批判に対してはこう答えておきましょう。

私はもういい大人です。宮崎老人に「君たち」なんて十把ひとからげに呼びかけられるだけで不快です。引退したジジイが何を言うか! おまえは何様だ? そして老人に「どう生きるか?」と生き方を教えてもらわなければならないとも思っていません。人生を旅と見たてて、走り続ける生き方を自分の決断ですでに選んでいます。

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※雑誌『ランナーズ』の元ライターである本ブログの筆者の書籍『市民ランナーという走り方』(サブスリー・グランドスラム養成講座)。Amazon電子書籍版、ペーパーバック版(紙書籍)発売中。

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「君たちはどう生きるか」というタイトルだけで衒学的です。老人の人生訓、説教の匂いがプンプンします。見たいのはそういうのじゃないんだけどなあ。わからないかな、宮崎さん。

老いると創作力が衰えると世間ではよく言います。典型的なのは作品が直接的な説教になってしまうというものです。沢田研二さんがコンサート会場で歌そっちのけで政治家のスピーチみたいなことをえんえんと語って「おれの主張を聞きたくないなら帰れ」と言い放って顰蹙を買ったというニュースを見たことがあります。これが老害の典型的なパターン。みんなは歌を求めているのに、本人はダイレクトな説教・主義主張をしてしまうのです。

見てもいないのに宮崎監督の『君たちはどう生きるか』がダイレクトな説教、主義主張だとまではいいませんが、タイトルからしてその雰囲気は濃厚ですよね。現実社会でも通用するような老人の人生訓だとすれば、つまりは私のようなすでに全力で走っている熟年世代が見に行く価値はないのです。そもそも「君たちはどう生きるか」というタイトルを作品につけた時点で、これは宮崎老人の遺言であり、語りかける相手は十代ぐらいの若者をターゲットにしているのでしょう。宮崎さんも私のような熟年に見てもらいたいとは思っていないでしょう。興行的には成功したいでしょうが。

おそらく実際に映画を見たとしても、作品中に人生ではじめて聞いたような新しいことは何もなくて、どこかで聞いたようなありきたりの人生訓を聞かされるだけだと思います。私はかなりの読書家ですし、世界的な大文豪の作品を読んでもそう思うぐらいですからね。知っていますか? ナウシカというのはホメロスのオデュッセイアの登場人物の名前なんですよ。

写本による淘汰。『イリアス』と『オデュッセイア』のあいだ。テレゴノス・コンプレックス

夏目漱石なんて年下の若造だと思っています。宮崎駿が手塚治虫をそう思っているように、ね。

偉そうに? どうして無名の一般市民が世界史に残る文豪・偉人を上から目線で批評・批判できるのか?

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なぜ「風の谷のナウシカの続編」を映画にしないのか?

なぜ「ナウシカの続編」を映画にしないのか? 作家としては気持ちはわかります。原作漫画を描き終わった時点で『風の谷のナウシカ』は作家としてはもう過去の終わった作品になってしまっているのでしょう。新作を描きたいというのは、作家としては気持ちはわかります。クリエーターとしては古いものに固執するよりも、新しいものに目が向くものなのです。

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主人公ツバサは小劇団の役者です。

「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」

恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。

「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな

アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。

「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」

ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。

「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」

惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。

「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ

劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。

「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も

ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。

「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」

ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。

「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」

「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」

尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自信が狂っていなければ、の話しですが……。

妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ

そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。

「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」

そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。

「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」

そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。

「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」

「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って

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でもアニメーション作家としては、『君たちはどう生きるか』がたとえどのような作品だったとしても、やはり『風の谷のナウシカ』の続編をつくるべきだったんじゃないかなあ。やっぱり読者・観客が何を求めているかっていうのは重要ですよ。親父の小言よりも。

自分が主張したい内容、現実にも通じているような役に立つノウハウというのは、どうしても親父の小言みたいに説教くさくなります。現実には挫折や妥協がつきものです。それを呑み込むのが人生ですが、なにもそんなの映画館で見なくてもいいじゃん。現実社会でいくらでも実体験できるんだからさ。

書籍『市民ランナーという走り方(グランドスラム養成講座)』あとがき

それよりも腐海を救う少女の物語の方が見たいなあ。その創作世界の中では宮崎さんは神さまなのでどんなことだってオールマイティーです。だからおもしろいのです。

というわけで、宮崎さんには『君たちはどう生きるか』という作品ではなくて(まだ見ちゃいないが期待もしていません)、『風の谷のナウシカ』の続編をつくっていただきたかった、という積年の思いを書き綴ってみました。

まあ最悪、宮崎さんが死去した後でもナウシカの続編はつくれるだろうと思います。原作(要するに絵コンテ)がしっかりしていますからね。

スタジオジブリさん。興行的に成功したいならぜったい『風の谷のナウシカ』の続編ですよ。三部作ぐらいにして原作をアニメ化してください。

いつまでも待っていますよ!

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