文学の文章と実用文の違いは「ぼかし」。多彩な意味にとってもらえるぼやけた輪郭にこそ真髄がある

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『ドラクエ的な人生』とは?

心の放浪者アリクラハルトの人生を走り抜けるためのオピニオン系ブログ。

書籍『市民ランナーという走り方(マラソン・サブスリー。グランドスラム養成講座)』。『通勤自転車からはじめるロードバイク生活』。『バックパッカー・スタイル』『海の向こうから吹いてくる風』。『帰国子女が語る第二の故郷 愛憎の韓国ソウル』『読書家が選ぶ死ぬまでに読むべき名作文学 私的世界十大小説』Amazonキンドル書籍にて発売中です。

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大学受検の時、小論文を選ばなかったのは、正しく評価されないと思ったから

普段から酒は飲まないのだが、ひさしぶりに日本酒を飲んだ。しこたま酔っぱらって昔の夢や受験のことを思い出した。そのことを書いてみよう。

昔から、ものを書くことには自信があった。他の人に書けないことが書けるという自信があった。このブログは、そのような人に書けないことで成り立っているはずである。

私は大学受験のときに、小論文を選択しなかった。なぜかというと、人の書かないような文章はきちんと評価されないだろうと思ったからだ。採点者は「多くの人が書かないこと」をちゃんと評価するであろうか? むしろ「多くの人が考えるまともなこと」を論旨明快に書くことを評価するだろう。小論文では、うまい文章よりも、堅実な文章が評価されるであろう。むしろ論拠の不足を指摘する減点法で評価されるであろう。

しかし本当の文学の文章とは「ブレ」なのである。曰く言い難し、といったぼやけた輪郭にこそ真髄がある。読者に多彩の意味にとってもらえるような表現こそが最良のものだ。

そんな私の文章を、採点者が評価できるであろうか? それを疑っていた。おそらく他人に絶大な自信のあるものを評価されたくなかったのであろう。

今ならば、むしろ小論文で挑戦すべきだっただろうと思うけど、当時はそうは思えなかったのだ。むしろちゃんと正解があって点数が出る教科で受験したほうがいいと思っていた。

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エンターテイメントは、時間の奪い合い。媒体によって強弱がある

小論文で点数つけられるのを避けて、文学部以外に進んだ私だが、けっきょく、将来は作家になろうと思って文学部へと移籍することになった。

その後、小説を書いて出版もしているが、どうやら作家として生計を立てるのは無理らしいとだいぶ昔に気づいていた。

小説というものがもう時代じゃないということもあるし、自分の力の限界も知った。売れるというのは、人に受け入れてもらう作業である。小論文の評価を避けるようなスピリッツではやっていけないものだ。

私に限らず、他の作家志望者にとっても、この時代、ノンフィクションならまだしも、フィクションで、超有名作家以外が飯を食っていくことは難しいだろう。

エンターテイメントというのは、時間の奪い合いだ。いや、世界のすべての事象は、時間の奪い合いだといってもいいだろう。SNS発信や、映画、ゲームや、お買い物、デートや、お風呂などを差し置いて、無名の作家のフィクション小説に、誰かの時間をつかってもらうことは難しいといわざるを得ない。

そもそも小説という媒体に弱さがある。たとえばマンガと較べた場合、マンガなら絵で外国人にも説得力を持たせられるが、小説には無理だ。

人間にとって「喋る」とか「聞く」とかは天性のものだ。しかし活字を読むのは後天的な能力だと言われている。その証拠に、子供はすぐに言葉を聞いて喋れるようになるが、読めたり書けたりするようになるにはもっと時間がかかる。だから大人でもディスレクシア(読字障害)という人がいるのだ。トム・クルーズやスピルバーグもディスレクシアである。

書物という媒体が、YouTubeというプラットフォームに勝てないのは、人間の本性からいっても当然なのだ。昔は動画媒体がなく、娯楽がなく仕方がないから小説が流行したのだ。

フィクションにも弱みがある。有名でもない作り話に、誰が時間をくれるだろう。

たとえば私には『戦乱の時代に、努力を積み重ねて、友と力を合わせて英雄になって……』という物語はとてもじゃないが書けない。たとえばナポレオンや、イーロンマスクが主人公のような小説は書けないのだ。なぜかって? フィクションで、それを書くのは、中二病すぎる。いくら何でも……と恥じらいがそういう小説を書かせない。しかしノンフィクションならそういう素材がいくらでもある。

まだノンフィクションのほうが、フィクションよりは読ませられるであろう。無名の作家がフィクションを読んでもらうことは、よほど難しいと考えなければならない。

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(本文より)

カプチーノを淹れよう。きみが待っているから。
カプチーノを淹れよう。明るい陽差しの中、きみが微笑むから。
ぼくの人生のスケッチは、まだ未完成だけど。
裏の畑の麦の穂は、まだまだ蒼いままだけど。
大地に立っているこの存在を、実感していたいんだ。
カプチーノを淹れよう。きみとぼくのために。
カプチーノを淹れよう。きみの巻き毛の黒髪が四月の風に揺れるから。

「条件は変えられるけど、人は変えられない。また再び誰かを好きになるかも知れないけれど、同じ人ではないわけだよね。
前の人の短所を次の人の長所で埋めたって、前の人の長所を次の人はきっと持ちあわせてはいない。結局は違う場所に歪みがでてきて食い違う。だから人はかけがえがないんだ」

金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。
夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。
夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。

あの北の寒い漁港で、彼はいつも思っていた。この不幸な家族に立脚して人生を切り開いてゆくのではなくて、自分という素材としてのベストな幸福を掴もう、と――だけど、そういうものから切り離された自分なんてものはありえないのだ。そのことが痛いほどよくわかった。

あの人がいたからおれがいたのだ。それを否定することはできない。

人はそんなに違っているわけじゃない。誰もが似たりよったりだ。それなのに人はかけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。

むしろ、こういうべきだった。

その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と。

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作家になれなくても、作家になるための心構えが、人生を導く。無駄にはなっていない

しかし作家を目指したことは無駄にはなっていないと思っている。

私は作家になるためには、「経験が大事」だと思って生きてきた。作家業のための心構えがあればこそ、今の私がある。

たとえば、私はこれから世界一周を目指そうとしているが、退職した人がみんな世界一周を目指すわけではない。むしろそういう人は少数派だろう。「経験が大事」だと思って生きてきた作家になるための心構えが、私の人生を導いているのだ。

だから作家になろうと目指したことは、無駄にはなっていないと思うのだ。

自分の小説も出版することができた。けっして世間で大評判になっているとはいえないが、それでもよい。私は満足している。

やるだけやった、という爽快感だけが今はただ残っている。

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