ドラクエ的な人生

『限りなく透明に近いブルー』登場人物が読んでいる『パルムの僧院』の意味

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『限りなく透明に近いブルー』登場人物が読んでいる『パルムの僧院』の意味をさぐれ

私は物書きのはしくれです。自分の文体に影響をあたえた書物のひとつに村上龍の『限りなく透明に近いブルー』という作品があります。

文体に影響をあたえたというぐらいですから、読んだのは一度や二度ではありません。内容が頭に入ってからはまるで詩でも読むかのように開いたページを読んでいました。

とくにメスカリンドライブのシーンと、大きな鳥の幻想を見るラストシーンは、暗唱できるぐらい読んでいました。

その『限りなく透明に近いブルー』の中にスタンダール『パルムの僧院』が登場しています。ドラッグでラリッている登場人物がなぜか『パルムの僧院』を読んでいるのです。

なんで『パルムの僧院』だったんだろう。他の作品じゃいけなかったのかな。『限りなく透明に近いブルー』に関係のある内容なんだろうか?

若いころから、それがずっと気になっていました。というわけで、やっと読みました。ここでは『パルムの僧院』を書評しています。

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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。

「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」

「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」

※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。

アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。

Bitly

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『パルムの僧院』あらすじ

フランス人作家スタンダールが、イタリア人版ジュリアン・ソレルであるファブリスのことを書いた作品です。

作品冒頭に出てくるコモ湖というのはラスベガスのカジノホテルで有名なベラッジオのあるところです。

やはり赤(軍人)と黒(僧侶)が身過ぎ世過ぎとして登場しますが、『赤と黒』ほど本題には直結しません。

スタンダール自身も作中折に触れて「フランス人の読者はこう考えるだろうが、イタリア人というのはこういうものなのである」と注釈を加えています。あくまでもイタリア人の話しとして作者は書いています。

美少年ファブリスは、血縁者である叔母さんに愛されて、出世から下半身の不始末まで人生まるごと面倒を見てもらうことになります。この叔母さんの甥っ子に対する意味不明な愛情が作品を面白くしているのですが、小説だから不老不死の美女ヘレナのように読めますが、実際には悪女の深情けというか、いいかげんにしろこのBBAという感じではないかと思います。

ジーナ叔母さんはそれはとても美しい、という設定でパルム(現代のパルマ。中田英寿がサッカーしてたところ)の首相に恋をされます。そしてファブリスの出世と引き換えに恋人関係を承諾します。

しかし当のファブリスは別の女との恋愛のもつれから殺人事件を起こして投獄されてしまいます。そこで獄長(将軍)の娘クレリアと恋に落ちます。叔母さんは脱獄をすすめますが、ファブリスは獄長の娘との恋が優先でした。しかし獄舎内で毒殺されそうになってようやく叔母の脱獄計画に乗るのでした。叔母とクレリアは協力してファブリスを脱獄させます。叔母はさほど好きでもなかったモスカ首相とファブリスのために結婚し、騙した大公をファブリスのため毒殺し(最高権力者を毒殺ってww)、身をまかせて新大公を味方につけます。なんちゅう熟女や……

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恋の情熱のためならば、道徳なんて踏み破る、戒律なんてくそくらえ

モテモテのBBAジーナ(笑)。何度も貴族と結婚するし、結婚したあともセックスを大公との取引材料して使い続けるし、何かが決定的に欠けています。これでいいのか? 夫は何のために存在しているのだろう。結婚っていったい何だろう?

そんなことを考えさせられます。

いっそ子供は社会全体で育てることにして、結婚なんて制度は意味ないからやめてしまったらどうよ? と提言したくなるようなパルマ貴族の乱脈ぶりでした。

※結婚に関する私の著作です。ぜひお読みください。

クレリアは監獄の責任者である父を脱獄の手助けをすることで裏切ったという罪の意識から「永遠にファブリスを見ない」という謎の誓いを聖母に立てます。そしてファブリス以外の男と結婚します。しかしファブリスを恋しているので、再会するとファブリスを見ない状態で暗闇セックスをしてファブリスの子供を産みます。

いやだから! あんた別の男と結婚したでしょ? 何のために結婚したのよ。結婚した意味あるの? 夫の立場を一度でも考えたことあるの?

親や周囲に言われたから結婚した……というアドルフ・アイヒマン的な回答をクレリアはするんでしょうが。

【アイヒマン実験と実存主義】出世のための命令を拒否できる人は少ない。中間サラリーマン問題

恋の情熱のためならば、道徳なんて踏み破る、戒律なんてくそくらえ、というのが文学のもつ本当の力なのかもしれません。スタンダールよ、それが書きたかったのかい?

おれもそう思うぜ!

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結婚の本質は「子供をつくること」群れが認めた男女だけが子供をつくることができる。

結婚の本質な意味は「子どもをつくること」にあることは、どう考えても疑いようがありません。

セックスの本質は子供をつくることです。性行為に快楽を感じられるのは「人間が子孫を残したくなるご褒美」のようなものです。子どもをつくるためのインセンティブですね。

ところが人間のような大型動物が相手かまわず場所時間を問わず生殖行為をすると、大繁殖して、大量の食糧が必要になって、食料が足りなくなって群れ全体が飢饉におちいってしまうから、群れとして認めた男女のあいだにしか子供をつくるのを許さなかった、これが結婚である、という説があります。

人間の三大欲求といわれているのに、食欲や睡眠欲は自由に発揮していいのに、性欲だけは自由に発揮できないのは、古来のこの縛りが理由だというのです。

なるほど一理ありますね。

ずっとこういう文化をつづけていると、その文化にもっとも適応した人が子孫を残しますので、適者生存の法則で、だんだん「人間ってこういうもの」と思えるほどの傾向が見られるようになった、というわけです。多くの人が一夫一婦制を普通だと思うのは適者生存の結果だというわけですね。

逆に、乱脈な男女関係は古来の流儀だということもできます。

昔の貴族というのは「貴族でなければ人じゃない」ぐらいの特別な人たちですから、たぶんに文化的である古来の縛りというものとは関係ないところで、人間本来の古来の流儀にしたがっていたのかもしれません。

飢餓問題からもっとも遠いところにいるのが貴族たちだったからです。

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「パルムの僧院」の象徴的な意味。日本語でいうと「諸行無常」「いろはにほへとちりぬるを」

当時のヨーロッパ貴族では結婚というのは「金」と「家柄」のためにする取引のようなものだったのかもしれません。

まあ聖母マリアに「セックスしない」とは約束していませんからね。誓ったのは「顔は見ない」ということだけです。誓いのとおり「顔は見てません!」。

新約聖書には「夫以外と不義貫通するな」と書いてありますが、そこは完全無視されています。それでも敬虔なキリスト教徒あつかいなのが笑える。

キリスト教信者でない者が聖書を精読してみた

実はファブリスとの不義の子ですが、表立って会うことができないので、子どもが失踪したと見せかけるつもりが、失踪計画に失敗し、なんと子どもを死なせてしまいます。ショックからクレリアは死(神罰と思い、おそらく自殺)に、ファブリスは僧院に引退しました。隠遁場所が「パルムの僧院」です。ラストシーンにしかパルムの僧院は登場しません。

パルムの僧院とは、日本語でいうと「諸行無常」「いろはにほへとちりぬるを」というような象徴的な意味かもしれません。

クレリアとの恋愛関係は悲恋ながらもいちおうの決着がつくのですが、悪女の深情けジーナ叔母さんとの恋愛関係はまさしく母と子の愛情のごとく一方的で、子から母へな何のお返しもありません。叔母さんは何のお返しもありません。ただの片方通行の愛情でした。スタンダールはそういう無償の愛情を描きたかったのかな?

ちなみに僧院というタイトルから「キリスト教修道士」の話しかと思ったら、ぜんぜん違いました。いちおう家柄からファブリスはえらい司教になるのですが、とくだん修行生活をするわけでもなく、本題と僧院生活とは何の関係もありません。

ドストエフスキー評のところでも書きましたが、この時代(江戸時代末期)にもこれほどまでにキリスト教が影響しているのか……という感じがします。ルネッサンス(中世の終焉)からもう200年ぐらいたっているんですが。

カラマーゾフの兄弟『大審問官』。神は存在するのか? 前提を疑え! 

夫以外の者と不義貫通しておきならが「顔を見ない誓い」だけは守るという奇妙なキリスト教徒(笑)。

『パルムの僧院』は、ひたすら女に守られて、女に人生を影響されるモテ男くんのお話しでした。

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『限りなく透明に近いブルー』との関係は?

さて、『限りなく透明に近いブルー』のなかでドラッグにラリっている人物が『パルムの僧院』を読んでいる意味ですが、正直、まったくないと思います。たまたま、ではないでしょうか。「ザ・文学」であれば何でもよかったような気がします。

あえてこじつけるなら「牢獄」ということかもしれません。

『限りなく透明に近いブルー』では、ラリッている登場人物たちは、アメリカにレイプされているといってもいいような状態に陥っています。社会的な規範に押しつぶされそうになっているといってもいいかもしれません。それはまるで牢獄の中で暮らしているかのように、世間というものに取り囲まれて息がつまりそうです。

「リリー、あれが鳥さ、よく見ろよ、あの町が鳥なんだ、あれは町なんかじゃないぞ、あの町に人なんか住んでいないよ、あれは鳥さ、わからないのか? 本当にわからないのか? 砂漠でミサイルに爆発しろって叫んだ男は、鳥を殺そうとしたんだ。鳥は殺さなきゃだめなんだ、鳥を殺さなきゃ俺は俺のことがわからなくなるんだ、鳥は邪魔しているよ、俺が見ようとする物を俺から隠しているんだ。俺は鳥を殺すよ、リリー、鳥を殺さなきゃ俺が殺されるよ。リリー、どこにるんだ、一緒に鳥を殺してくれ、リリー、何も見えないよリリー、何も見えないんだ……」

ミサイルを爆発させ、鳥を殺そうとした主人公リュウは、牢獄を抜け出そうとしているのです。アメリカという甘美な魅力をもった牢獄を。まるで獄中で恋したファブリスのように。

本当の自分になるために。偏光グラスを捨てて、自分が見たいものを心のままに見るために。

『サド侯爵夫人』三島由紀夫の最高傑作

人は誰でも牢獄の中にいるのです。

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