ドラクエ的な人生

わたしが投票に行かない理由。国民に主権なんてない。あるのは選挙権だけ

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国民に主権なんてない。国民にあるのは選挙権だけだ

先日、YouTube動画を見ていたら、「国民に主権なんてない。国民にあるのは選挙権だけだ」という人がいました。「選挙の後、主権を行使するのは国会議員。それが代議制民主主義」という主張です。なるほどなと思いました。たしかにいくら「税金を安くしろ」と国民が思ったとしてもそういう風にはなりませんよね。あるのは選挙権だけです。

ある気持ちを持っているなら、ある気持ちを持っている人に投票する、というのが選挙権の使い方です。そうすることで間接的に自分の望む政策を実現させることができるはずだろうというエクスキューズ(ガス抜き装置)がついています。

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星新一のエッセイ「私には投票しないでください」という懇願は賄賂にはあたらないだろう

わたしは二十歳の頃、一度だけ国政選挙の投票をしたことがあります。しかしそれ以来、一度も投票をしたことがありません。生涯に一度しか選挙したことがない人間です。

ショートショート小説家の星新一のエッセイでこんなのを読んだことがあります。

星新一さんはしっかりと候補者を調べていつも投票に行っていたそうです。ところがどうしたわけか自分が投票する人はいつも落選したそうです。だから「どうか自分には投票しないでください」と候補者がお金を持ってきたら受け取ろうと思っている、という内容でした。「投票してください」とお金を渡すのが賄賂です。でも「私には投票しないでください」という要請は賄賂の定義にはあたらないだろうというオチつきのエッセーでした。

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私の一票ぐらい投票してもしなくても結果は変わらないという無力感

ところでわたしは、なぜ投票しないのか?

それははじめて投票した人が落選したから……ということがあります。しかも大差で。私はヒッピー的な思想、発想をする人間です。残念ながら似たような傾向の立候補者が当選するのを見たことがありません。しかしおそらくはじめて投票した人が当選していたとしても、わたしはどのみち投票しない人になっていただろうと思います。

選挙で代議士を選ぶといっても、わたしがダイレクトに選ぶわけじゃありません。多数決で選ばれるわけですが、あまりにも多数の人たちの中で、わたしが行使できる力はあまりにも小さすぎます。私の一票ぐらい投票してもしなくても結果は左右されません。その無力感から投票に行かないというのが理由のひとつです。

ただ、これは対外的にわかりやすい理屈をつけただけであって、本当の理由はもっと別のところにあります。

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投票しないのは、運命に対してどう向き合うかという哲学、運命観の問題

なぜ私は投票しないのか? それは運命に対してどう向き合うか、という人生哲学に関係があります。

もしわたしが選んだ人が当選して代議士になったとしても、代議士にやれることには限界があります。彼はほとんど何もできないでしょう。私の運命は彼が当選したことで何も変わらないでしょう。

政治的状況は個人の思いではどうにもならないものです。たとえば私が韓国との友好をのぞんでいたとしても、韓国が戦争を吹っかけてきたら、わたしにも、私が選んだ代議士にもどうしようもありません。現在、コロナ禍の感染症の時代が続いていますが、こんな時代になることは選挙のときには予想もできませんでした。

コロナ感染症の時代は四年で終わる。2024年4月に終息し日常生活が取り戻せる

結局、自分の身に降りかかる運命というやつは、選挙などではどうしようもないという諦観のようなものをわたしは持っています。運命観というやつです。

選挙の候補者のマニュフェストなんか読んでいるヒマがあったら、自分自身のたった一度きりの人生とどう向き合うか考えた方がいいというのがわたしの生きるスタンスなのです。選挙に行って、代議士に状況の変化をお願いすることが、私の生き方ではありません。いくらいい人を選んだところで、不況の波は来るし、感染症の時代は来ます。それが運命というものです。

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運命にどう対処するか覚悟を決める。運命の中での自分の選択を考える

図書館の充実よりも道路工事に予算を振り向けることとか、税率の引き上げとか……そういうものを「投票によって変えることができた運命」と思って一喜一憂するのがいやなのです。

むしろそういうものは「どうしようもなく身に降りかかる運命」だと思って、運命にどう対処するか覚悟を決める方に時間を費やした方がいいと思っています。

かつては戦争の時代がありました。あの時代にいくらわたし一人が「戦争反対」と叫んだところで時代のうねりは変えられなかったでしょう。ちいさな一票に何ができたでしょうか。それだったらむしろ政治的な状況はおのれの運命だととらえて、運命の中での自分の選択を考える方が、生きたかいがあります。

そのような絶体絶命の状況の中で自分が何を選択するかで人生が決まります。世間の常識やあたりまえのレールに乗るのか、全世界を敵に回してもやりたい道を進むのか? それが実存主義というものです。

今この場所この瞬間を旅先のように生きる。集団よりも個を優先する生き方【トウガラシ実存主義】

変えられる希望のない運命ならば、むなしい期待などいだかない方がマシというものです。むしろその状況の中でどう生きるか考える方が建設的です。

わたしという人間はそういう考え方をする人間なのです。だからわたしは投票に行かないのです。

運命に導かれる生き方をしよう。失意の場所で、今まで以上の幸せを探すことが運命を生きること

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