どうもハルトです。みなさん今日も楽しい旅を続けていますか?
三連休だったのですが、こうも暑いと車中泊も無理なので、家でビデオを見ていました。テレビドラマ&映画の『昼顔』というドラマです。
そもそもこの作品をどうして見ようと思ったかというと、映画のロケ地であるベンチにたまたま座ったことがきっかけでした。
当時、『行ってはいけない世界遺産』という本がブームとなっていました。その本の中に「世界で一番美しい海岸線」といわれるイタリアのアマルフィ海岸が「熱海にそっくりだ」と書いてあったので、せめて熱海に行ってみようということになったのでした。
過去、何度か熱海に行ったことがありますが、世界一と呼ばれるアマルフィ海岸にそっくりだと思うほど感動したことは一度もありません。おそらくどこから見るかが重要なのだろうと思いました。地図を眺めて検討した結果「真鶴半島から熱海を見ればアマルフィに見えるのではないか」と、私は真鶴岬に向かったのです。
岬の突端に三ツ石海岸(ケープ真鶴)という観光地があったので、そこに車をとめてしばらく休憩をとることにしました。そこには「ここに座ってください」と言わんばかりのベンチがあり、誘われるように座ってみると、映画『昼顔』のロケ地だというラミネートされた写真と、上戸彩さん斎藤工さんのサインがありました。
不倫を肯定しては、興行的に成功しない
『昼顔』は、最初にテレビドラマがあり、その後日譚という形で映画になっています。くだんのベンチは不倫の果てに社会の側から強制的に別れさせられた二人が再開する重要な場所として登場していました。
私はかつて脚本家連盟でシナリオライターの勉強をしたこともあるので、どうしてもストーリー展開を「読んでしまうクセ」があります。
「あれ? 今、死亡フラグ立ったよね?」
そう思ったのは、妻と別れる予定の不倫男(斎藤工)が、結婚指輪を百葉箱に隠してしまったところでした。ポケットに隠しておいてサプライズプレゼントしたっていいのに、どうして百葉箱にしまう必要があるのでしょうか。どうも不自然です。
そもそも古今東西の不倫ドラマでハッピーエンドの大団円はほとんどありません。映画なども作品である以上、社会の中での興行的成功を狙わないわけにはいかず、不倫ドラマを真正面から肯定するような作品は、社会の側から受け入れられないのです。
それは主婦に嫌われたタレントがテレビに出られなくなるのと同じことです。石田純一さんが「不倫は文化」と言って仕事を失ったことからも明らかでしょう。
しかし一方で芸術の端くれでもある映画は「人間の心」や「愛」を否定するわけにはいきません。すでに両者が結婚しているとしても(不倫)、愛し合っているのだから、求めあっているのだから、その心を頭ごなしに否定するようなことは芸術の仕事ではありません。
法律や慣習や道徳など社会の側から圧殺されようとする人の「思い」。巨大な敵を前に「思いあう気持ち」が潰えるか、それとも貫き通すか、が不倫ドラマの主軸です。誰も祝福してくれない否定されるばかりの白眼視の中で、愛がどこまで通用するのか、というのが不倫ドラマの定番の作劇術だと言えるでしょう。
ドラマ『昼顔』でもこの作劇術は踏襲されていました。それでは、王道のストーリーはどう展開していくでしょうか?
ハッピーエンドにはできないが、愛は負けない
不倫は昭和22までは姦通罪という立派な犯罪でした。現在では不貞行為などと呼ばれています。江戸時代では不義密通と呼ばれ、死罪が適用されることもあったとか。
それほどまでに社会に受け入れられない行為をした二人を、いかにフィクションとはいえハッピーエンドにすることはできません。
それはあたかも「麻薬王が大成功して超ハッピーのまま死ぬ」映画みたいなものです。そんな映画が社会に受け入れられるはずがありません。
しかし一方で、愛が負けるわけにはいかない。愛が負けたら興ざめです。愛が負けたら映画になりません。みんな愛が勝つところが見たいのです。
ハッピーエンドにはできないが、愛は負けない。。。
となると、作家はどうやって物語を終わらせたらいいのでしょう。
死亡フラグという一種の作劇術
真っ先に古典的なあの手でストーリーを終わらせることが思い浮かびます。
心中です。
心中ならば、依然として社会の側からは認められないままのアンハッピーエンドだけれど、愛だけは貫いています。
心中ならば、法や道徳の勝利でもあり、愛の勝利でもある。両者の顔を立てることができます。
私は『昼顔』を見ながら「この二人は心中するのかなあ」と漠然と思っていました。ところが斎藤工演じる学校の先生は心中を選ぶようなキャラクターではありません。
ところが百葉箱(斎藤工)に結婚指輪を隠すシーンを見て「あれ? 今、死亡フラグ立ったよね?」と私は思いました。ポケットにしまえばいいものを、わざわざ百葉箱だなんてどうも不自然です。「これは死後に上戸彩が見つけて泣くためだな」と思いました。「これは死ぬな。交通事故か?」
その後はあれよあれよというまに予想通りの結果に。。。
死亡フラグというのは、ドラマなどでその行動や発言をした人物はたいてい死ぬ、という一種の作劇術(を茶化した言い方)のことです。
戦争映画で、戦争後に結婚を考えている兵士は100%の確率で死にます。
「ああ。言っちゃったよ」
結婚発言をした瞬間、死亡フラグが立ったと言います。死神の契約書にサインしたようなものです。
作家としては、ストーリー展開を読者に読まれてしまっているのですが、なあに心配はいりません。人は王道の展開に泣くのです。涙腺の緩ませ方には鉄板の法則があります。
あとは「死なせ方」が、作家の腕の見せ所です。
別の価値観をもってきて物語をひっくり返してしまう
もうひとつ別の手があります。
ドラマ『昼顔』はエンディングにもうひとつ典型的な作劇法を持ってこようとしました。終わらない議論を決着させるため、別の価値観をぶつけるという方法です。
たとえば「妊娠」。
不倫そのものは社会の側としては認められないが、だからといって子供ができた以上、別れろとは言えない。だって別れたら子供は誰が育てればいいでしょう。社会にとっては、子供は宝です。未来の担い手ですからね。
中絶(堕胎)は国によっては殺人罪に問われます。不貞行為よりも罪が重いのです。
むしろ子供のいない配偶者とはきっぱりと別れて、子供のために不倫の二人はやりなおす(一緒になる)べきだ、とすら世論が一変したっておかしくはありません。
こいつは物語をひっくり返すことができるスペシウム光線です。
命という圧倒的な価値観のもと、不倫の二人が肯定されてもおかしくはありません。それが社会の側の世論というものでしょう。
妊娠すると、愛とか倫理の問題が、命の重さの問題にすり替わります。要するに議論のすり替えなのですが、人間は感情の動物ですから、ドラマの視聴者はそんなこと疑問に思わずに、不倫のハッピーエンドが腑に落ちることと思います。『昼顔』もこの手を使おうと思えば使うことができました。
不倫の是非なんて、命の重みの前には沈黙してしまうのです。
「子供ができちゃったんじゃしょうがないな」
というのが、視聴者の一般的な感じ方なのではないでしょうか。
ドラマ『昼顔』の作家さんは、この手は使いませんでしたが、使おうか迷った痕跡が最後に出てきます。
新しい命が生まれる、という不倫とは別の価値観を持ち出してドラマを終局に導くというのはひとつの作劇術です。「戦争」なんかもこの一種です。一人殺せば殺人者、百万人殺せば英雄です。
盗人・石川五右衛門が「(豊臣秀吉に)貴様こそ天下を盗んだ大泥棒ではないか」と啖呵を切ったというのも、別の価値観を持ってきて物語をひっくり返してしまうという意味では共通のエピソードです。
ドラマ『昼顔』。作劇術の教科書のような作品でした。ほら、見てみたくなったでしょう?
できればテレビドラマから連続してみることをおススメします。楽しい時間を過ごさせていただきました。