武器よさらば。アーネスト・ヘミングウェイ
こいつはやばい本である。面白くないのだ。高名なわりには。
私のブログでは書物のあらすじを容赦なく紹介していくが、それは名作文学の命は「あらすじ」にはないと確信しているからである。
『武器よさらば』も同じことがいえる。あらすじだけ紹介したら、文学ですらない。
第一次世界大戦のイタリア軍に参戦しているアメリカ兵が負傷して、戦争に嫌気がさし、逃亡し、恋に落ちた看護婦が自分の子を産むことになるが、死産で、産褥で妻も死ぬ。無常をかみしめて逃亡兵は病室をあとにし、雨の中を歩いてホテルへ帰っていった。
それだけの話である。こんなあらすじに意味はない。神は細部に宿る。文学は細部にあるはずだ。
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このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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若者の書物離れを助長しているのは世界名作文学である
世界的に著名なアーネスト・ヘミングウェイの著名な作品だから、面白いはずだと誰もが期待する。面白くないとしても、せめて何か学ぶべきところがあるはずだ。
ところが、どうだろうか。血沸き肉躍る戦闘シーンがあるわけでもなく、銃後のたいして深みもない雑談が続く。そして突然、ケガをする。
もちろん現実はそのようなものだろう。伏線があってケガをしたり、人が死んだりするはずがない。ヘミングウェイは実際に従軍し、実際にけがをしている。その体験をもとに『武器よさらば』を執筆しているのだ。そりゃあ現実は唐突だろう。でも小説でそれをやるのはどうかと思う。
「死亡フラグが立ったああ。この人は死ぬな、と誰もが理解する。
死すべき人がどんな思いをこの世に残して、何をして死ぬか、それを神の目線で眺めつつ盛り上がるのが現代作品である。死ぬ前提を知りつつ、最高の見せ場の中で見事に死ぬからドラマになるのだ。
ところが『武器よさらば』のように、リアルな現実さながらに、何の前触れもなく戦友が死んだってそりゃあ盛り上がりに欠けるってものよ。おれのリアルな友だち・戦友じゃないから、唐突すぎて、感情移入している暇もない。死んでも悲しくないのだ。
もっと暇があって、ゆっくり物語細部に浸る事ができれば違うのかもしれない。しかしそれをやるには現代人は忙しすぎる。私はスピードを上げて読んだ。そしてスピードを上げて読むとちっとも面白くないのだ。そういう種類の本が世界名作文学にはとても多い。この『武器よさらば』もそんな中の一つだ。
若者の活字離れ、本離れ、小説離れが叫ばれて久しいが、私は若者の活字離れの最大の元凶は「世界名作文学」にあると思っている。
世界の名作と聞いたら真っ先に読まなきゃいけないような気になる。だから最初に「世界名作文学」から読書体験が始まる。すると面白くないんだよなあ。本なんてつまらない、という原体験ができてしまう。
最初の読書体験はエンターテイメントがいい。面白い本から入った方が読書は続く。私の場合は江戸川乱歩の少年探偵団シリーズだった。だから今でも読書を信じているのだ。
「武器よさらば」のテーマは「人生のむなしさ」。それだけのテーマのために、これほど長い小説が必要だろうか。忙しい現代人が読む本ではない。もっと即効性のあるものを現代人は求めている。テーマもはっきり言って、それほど深みのあるものとは思えない。ノーベル文学賞に騙されてはいけない。
ヘミングウェイの文体は感情をそぎ落とした短文で、ハードボイルドだと言われている。要するにかっこいい文章だというのだが、それは日本語では味わえない。英語で読まねばわからないことだ。小気味いい文章のリズム感が翻訳だと失われてしまうのだ。たとえば韻を踏んだりしていても、翻訳では消えてしまう。原文を読まないとよさがわからないのだ。
しかしそれは文体のよさであり、文学のよさではない。翻訳しても文学的深みは消えることはないはずだ。そういう意味で「武器よさらば」は「俺的、別に読まなくてもいい本」に入る。
古今東西の人間は、どう生きて、どう死んでいったのか。生に何を掴み、死に何を感じたのか?
それは言葉にして言えば、こういうことである。
古今東西の人類は、おれたちの先輩たちは、どう生きて、どう死んでいったのか。生きているあいだに何を掴み、何を感じて死んでいったのか?
それを知りたい。それを教えてくれるのは、きっと世界名作文学しかないはずだ。
楽しく生きようとか、幸せになろうとか、そう思って生きるのは間違っているのかもしれない。それはすくなくとも旅人向きの考え方ではない。
たとえ楽園が見つからなくても、探し求める旅の中に生きるのが旅人である。やるだけやった満足と一緒に死にたいのだ。それがおれの死に対するスタンスだ。
感情の抜け落ちたヘミングウェイの文章が、それを感じさせてくれたら共感できたのだが。残念ながらそういう文章ではなかった。
戦争を去り、愛する人はこの世を去った。主人公はむなしさをかみしめて無言である。それが「武器よさらば」である。感情ベタベタの時代に、この手法が斬新でもてはやされた時代があったのかもしれない。
それは正岡子規と与謝野晶子のようなものだ。心を塗らない正岡子規に対して、女の情念ドロドロの与謝野晶子。みなさんどっちが好きだろう。この二人の勝負は正岡子規が勝ったようだから、世の人の大半は子規・ヘミングウェイ派なのかもしれない。だが残念ながらおれは与謝野晶子派なのである。写実主義より浪漫主義なのだ。
やっぱりおまえはエンターテイメント本を読めって? ははは。しかしそれでも世界名作文学なのである。
古今の名作を読み終えてから死にたいものだ
歴史に残るような文学は向いてないのかしら、おれには。
しかし死ぬまでに何冊本を読めるかわからないが、どうせ読むなら世界名作文学がいい。死ぬ前に音楽を聴くならばモーツァルトやビートルズがいい。死ぬ前に聞きたいのはエグザイルとか安室奈美恵ではない。
世界中に何億という死者がいる。その死者たちが読んだものと同じものを読んで死にたいのだ。だから世界名作文学なのである。つまらなくても、世界名作文学なのである。幼い頃、古今の名作を読み終えてから死にたいものだとおれは思った。そいつを今から始めようと思う。
文学的に無力なマラソンランナーが、世界名作文学を走ってみる。読書マラソン世界一周、そいつにお付き合いください。
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このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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