林芙美子『放浪記』の書評・魅力・あらすじ・解説・考察
先日、公開したブログで、私は作品は「もっとも売れた実績のある稿」を出版すべきだと書きました。
作品は、いちばん売れたバージョンこそ残すべきだ。老境の改作は改悪。
林芙美子『放浪記』の解説を読むと、二度の大きな改稿がされたそうです。爆発的ヒットをした初版はオノマトペが多く、改行も多かったそうです。
初稿は未熟心が爆発したような「そのまんま」の文章が多く、年老いた林芙美子がそれを恥じて改稿したそうです。そして、そのせいで「躍動感がなくなった、精彩、迫力を失った」と解説に書いてあるのです。
だったら初版を出版したらいいじゃないの。なんでわざわざ躍動感がなくなった後年の改稿版を出版するのよ? 「改稿によって初版のもっていた魅力は薄れた」と解説者が解説しているのは、暗に「老境の最終稿」ではなくて「若い頃の売れた版」を出版しろと言っているのです。
私も同意します。
老境の悟りというのは「諦観」だったりします。若い頃の「不満」と「爆発」が魅力だったのに、そこが根こそぎ落ち着いた文章に改稿されてしまっていたら、そんな改稿は改悪にすぎません。
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このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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「読みたかったバージョン」ではなく「読みたくなかったバージョン」を読むしかなかった。
上のように大批判したわけですが、私が読んだのは岩波文庫の不手際により改稿後の「読みたかった方」ではなく「読みたくなかった方」バージョンになります。残念です。
黄色が林芙美子の本文から。赤色がわたしの感想です。
わたしは宿命的に放浪者である。故郷をもたない。故郷にいれられなかった両親を持つ私は、したがって旅が故郷であった。
一軒家ではなく、木賃宿という安宿を転々と暮らしていたようです。バックパッカーのような暮らしを幼いころからしていたということですね。
人生に暴風が吹きつけてきた。
道を歩いているときが、わたしは一番楽しい。この道を歩いているときだけ楽しいと思ったことない?
私は放浪のバックパッカーですが、放浪中、何をしているのかといえば「ひたすら歩いています」。歩くことが旅することだと感じています。
なぜ? なぜ? わたしたちはいつまでもこんなバカな生き方をしなければならないのだろうか。こつこつ無限に長い時間と青春と健康を搾取されている。
地球よパンパンとまっぷたつに割れてしまえ。
わたしはゆっくり眠りたいのだ。
何もかもあくびばかりの世の中である。この小心者の詩人をケイベツしてやりましょう。
林芙美子は文筆業で身を立てたいのですが、手っ取り早くお金が手に入るのは女給というホステスのような仕事でした。やりたくない仕事をしても、お金はたまらず、食べたいものを我慢する生活で、未来が見えませんでした。その境遇の不満が女性目線で描かれているのが「放浪記」です。
おまえのブラブラ主義には不賛成です。
ああこんなにも生きることは難しいものなのか。わたしは身も心も困憊しきっている。からっぽの女はわたしでございます。生きていく才もなければ、富もなければ、美しさもない。
女学生の頃の写真を見ると、かわいいと思うけどなあ。文士になってからは運動不足で太りましたけどね。
放浪者をあらわす言葉たち。ヴァガボンド、エグザイル、ワンダラー、エクスプローラー、フーテン……
あっちをむいても、こっちをむいても、旅の空なり。おまえもわたしもヴァガボンド。
ヴァガボンド、エグザイルとか、ワンダラーとか、エクスプローラーとか、放浪者をあらわす言葉はたくさんあります。でも林芙美子の時代から使われていたことにちょっと驚きました。
まるでわたしのようにへらへら風に膨らんでいる。カフェーに勤めるようになると、男に抱いていたイリュージョンが夢のように消えてしまって、みな一山いくらに品が下がってみえる。ああ、でもかわいそうなあの人よ。
壊れた自動車のようにわたしは突っ立っている。どこをどう探したって買ってくれる人もないし、もう死んでもいいと思った。
何だって最初のベーゼをそんな浮世のボウフラのような男にくれてしまったのだろう。
ひもじい。金が欲しい。呪文のようにそう繰り返す作品。
どんなに私の思想のいれられないカクメイが来ようとも、千万人の人が私に矢を向けようとも、わたしは母の思想に生きるのです。
カフェーの女給。またカフェーに逆戻り。めちゃくちゃに狂いたい気持ちだった。めちゃくちゃに人が恋しい……。ああ私は何もかもなくなってしまった酔いどれ女でございます。叩きつけてふみたくってください。誰かがめちゃくちゃに酔っぱらった私の唇を盗んでいきました。声を立てて泣いているわたし。
平林たい子。飯田にいじめられていると山本のいいところが浮かんでくるの。山本のところへ行くと山本がものたりなくなってくるのよ。私は飯田を愛しています。
わたしは男への反感がむらむらと燃えた。
炬燵がなくても二人で布団に入っていると平和な気持ちになってくる。
いいものを書きましょう。努力しましょう。
わたしは消えてなくなりたくなる。死んだって生きていたって不必要な人間なんだと考えだしてくると一切合切がグラグラしてきて困ってしまう。どこにも向きたくないのなら、まっすぐ向こうを向いて飢えればいいのだ。
まず朝鮮までわたってそれから一日に三里ずつ歩けば何日目には巴里に着くだろう。その間、飲まず食わずではいられないから、わたしは働きながら行かなければならない。
いくらソロバンをはじいたところで金が出てくるものでもない。私はろくろ首の女だ。どこへでも首が伸びて自由自在。油もなめに行く。男もなめにゆく。
履歴書よりも、その男は私の軀が必要なのかもしれない。
出版年(改稿年)はともかく、放浪記は大正時代に書かれた日記をもとにした作品です。偏見かもしれませんが、大正時代の女性が今と変わらない性価値観をもっていることに驚きました。
……そういうことがわかることも含めて作品は時代の子だと私は主張しているのです。改稿は改悪だというのはそういう意味です。
マノンレスコオと、浴衣と、下駄と買いたく候。
これでもまだ私は生きているのだからね。あんまりいじめないでください。本当は男なんかどうでもいいのよ。お金が欲しくてたまらないのよ。
私と寝たいのならさっさと這入っていらっしゃい。
下宿住まいというのは、人間を官吏型にしてしまう。ビクビクと四囲をうかがう。大した人間にはなれない。布団を干して為替をとりにいく。たったそれだけで下宿の月日は過ぎていく。ただ自分を見失っていく訓練を受けるだけ。
誰も好きだといってくれなければ、私はその男の人の前で裸で泣いてみようかと思う。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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イズムで文学があるものか。私は私という人間から煙を噴いているのです。
私の詩がダダイズムの詩であってたまるものか。私は私という人間から煙を噴いているのです。イズムで文学があるものか! ただ、人間の煙を噴く。私は煙を頭のてっぺんから噴いているのだ。
何もできないくせに思うことだけは狂人のようだ。口の中から蚕の糸のようなものを際限もなく吐き出してみたくなる。悲しくもないのに涙があふれる。
何もまともなものは書けもしないくせに文字が頭の芯にいつも点滅している。よくもこんなに神様はわたしというとるにたらぬ女をおいじめになるものだ。あなたは戦慄ということを感じたことはないのだろう。
落ちぶれた姿の自分。荷車にひかれた昆布のような気持ちなり。
奴隷根性。びくびくして、いつもぺこぺこ。何とかしてもらうつもりもないのに笑顔をつくってへりくだってみせる。いちいち謝って返事をしている。
読み終えて「ああ、女性が書いた作品だなあ」と感じました。どういう意味かわかります。
それが日記文学だといわれればそれまでですが、なんというか……感情の羅列です。
自分のいる状況を説明するのが男性作品とすれば、自分の気持ちを吐き出すだけの小説です。決して悪い意味ではありません。
だからどこから読んでも面白いということができます。感情の炸裂の羅列なので、どこからでも読めます。
そして作品にはオチはありません。ひたすら生活は続いていきます。ひたすら感情は続いていきます。成長したり、何かにたどり着いたりしません。
物語としてカタルシスがあるわけではありません。
いや、決して批判しているわけじゃありません。だって人生ってそういうものだと思うから。
それを激しく吐露することが文学になるんだなあ、ということを林芙美子『放浪記』は教えてくれます。
読者は「知性」とか「現状分析」とか「解決策」ばかりを求めているわけじゃないのです。
現状の感情、それを共有したかった。今、生きている人の生々しい言葉で。
だから本作は売れたのだと思います。
そしてその感情は普遍的なものだからこそ、時代を超えることができたのでしょう。
人は革命の書をつくり、私はあははと笑う。
大正時代の女性と会話するような楽しさがあります。
老境の悟りというのは「諦観」だったりします。若い頃の「不満」と「爆発」が魅力だったのに、そこが根こそぎ落ち着いた文章に改稿されてしまっていたら、そんな改稿は改悪にすぎません。
現代風に言うと、感性に定評のある日記系ブロガーの日記を読むような感じでしょうか。
『放浪記』は時代を経るほどに作品の価値が上がっていくだろうと思いました。