キリスト教や仏教は「いいこと」を言っている宗教。神道は別に「いいこと」を言っていない宗教
キリスト教や仏教は「いいこと」を言っているので世界宗教になったと思っている人がいないでしょうか。
同じ宗教である日本の「神道」にくらべると、たしかにキリスト教や仏教は「いいこと」を言っていることがわかります。
神道の聖典は「古事記」になりますが、その中で「人間は平等」だとか「一日一善」だとか「苦悩を去る方法」だとか、そういう「いいこと」はべつに何も言っていません。哲学的なこと、倫理学的なこと、「いいこと」をとくに言っていないのです。
ヤマタノオロチ伝説は製鉄の技術を大和朝廷が手に入れたことの寓話だという説があります。ローカル政府のなりたちとか歴史的な意味は解きあがしているかもしれませんが、人間はどういうものだ、とか、人はどう生きるべきだとかいった「いいこと」はあまり言っていないといえます。
それに比べるとキリスト教や仏教はとても「いいこと」を言っています。たとえばキリスト教は「なんじの敵を愛せ」「神の愛の前に人は平等」というようなことを聖書の中で説いています。ひじょうに「いいこと」を言っていますよね。
仏教は「諸行は無常」「我執することから解脱せよ」と哲学的なことを説いています。じつに「いいこと」を言っていますよね。
でもわたしたちはローカル政府の歴史しか伝えていないから神道は地方宗教で、キリスト教は「いいこと」をたくさん言っているから世界宗教になったのだ、と勘違いしてはいけません。
たしかに「いいこと」言うと信者を増やす効果はあります。「いいこと」が政治に利用できればなおさら普及するのがはやくなります。
しかしキリスト教の本質は「いいこと」ではありません。死んでも今の肉体のまま復活できるという希望こそがキリスト教の本質です。そこを私たちは間違えてはいけません。死者復活、永遠の命こそがキリスト教の本質なのです。
「いいこと」が正しいからといって、「死者復活」までもが正しいとは限りません。
「この肉体、この意識」のまま復活するというのが、耶蘇教(クリスト教)の本質
信者になれるかどうかは、「この肉体、この意識」のまま復活する奇蹟を受け入れることができるかどうかにかかっています。
聖書を読む修道女。欲まみれの世界から遁世して修身したい気持ちもあるでしょう。聖書には対人関係のコツも書いてあります。でも究極的には「死者が復活する」というところが、聖書のもっとも重要な部分です。
キリストの磔刑。このときは悲しかっただろうな。源義経、真田幸村など惜しまれて死んだ人は「実は生きている」説が流れることが古今東西あるようです。死別の悲しみのあまり「死者復活」の福音は瞬く間に人々のあいだに広まりました。
キリスト教の大聖堂やイコンを眺めると、死を想起させるものが多いことがわかります。恐がらせて、そして希望を見せるという構成になっているのだと思います。
大聖堂の中が神聖で、身がひきしまる思いがするのは、そこに死のニオイが立ち込めているからではないでしょうか。
かなりリアルでグロテスクな出血。
見ての通り人は死にます。そして死者はどうしたら復活できるのか、聖書に書いてあると聞いて、聖書を読むのです。
銀の皿はバプテスマのヨハネ(ヨカナーン)。グロテスクに死にます。
聖遺骸の奪い合い。腐らない遺体、生きているような死体
聖遺骸の奪い合いというグロいこともやります。それも死者復活するためです。
絵の肉体がまるで生きているよう(腐っていない)のも、死者復活を象徴するからでしょう。
足元に寝姿なのは遺体でしょう。やっぱり。これが私のいう「死を連想」させるものという意味です。
骸骨は死のイメージ。
死。でも死者復活できるからね。そうだといいね。
死者が復活するって本当ですか? 聖書を読んでみよう!!
い、痛そう……。そして近い……。
死。でも死者復活できるからね。
裸体を弓矢で射られているのは、セバスティアヌス(サン・セバスチャン)。ハリネズミにされても死ななかったと伝えられている。
マザー泣かないで。死者復活できるから。
お疲れさまでした。という感じ。でも死者復活できるからね。それが救世主教。
ダンテ『神曲』ではイエス以前の人物は天国にいけない設定になっている
死。ゴリアテは異教徒だし、イエス以前だから、復活できないかも。
ダンテ『神曲』ではイエス以前の人物は天国にいけない設定になっています。
谷口江里也・ギュスターヴ・ドレ。ダンテの『神曲』の素晴らしさ
天国と地獄。日本のダンテ『神曲』と言えば源信の『往生要集』。日本人の地獄観を決めた作品
だからさ……どうしてここまで死を強調する必要があるのかって話ですよ。
それはキリスト教が死者復活の宗教だからです。
ロンギヌスの槍跡を確かめる使徒トマス。「この指を脇腹の傷跡に入れて見なければ決して信じない」
このとおり、死者復活しました。
聖書は冒険小説としても歴史小説としても対人関係や心理学の教養本としても読める
聖書は冒険小説としても歴史小説としても対人関係や心理学の教養本としても読むことができます。
でももっとも大切なことは「死者復活」というところです。この肉体、この意識のまま死者復活することができる。そして永遠の命を得ることができる。それがこの宗教の本質です。
そこを間違ってはなりません。
たとえばサマセット・モームの『人間の絆』で主人公フィリップは、キリスト教教義(死者復活)は信じないが、キリスト教倫理(父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです)は受け入れています。いいこと言っているのを認めたからといって、信者になったわけではありません。
この肉体が死者復活するなんて信じないけれど、人類の思想史に大きな影響を与えた偉大な本として聖書を愛読するというのもアリだと思うのです。