ロシア・ウクライナ戦争は、日本人の誰もがウクライナからの視点で語る。
ロシアとウクライナが戦争をしています。「紅旗征戎、わがことにあらず」なんていいながら、この戦争から目が離せなくなっているわけですが、テレビを見ていて気付いたことがあります。
それは誰もがこの戦争をウクライナ側から語る、ということです。
ウクライナ戦争後の世界。ロシアの分割統治(案)。日本は樺太をもらえ
文化的には親ロシア。ロシア人はたくさん知ってるけど、ウクライナの有名人はセルゲイ・ブブカしか知らん
わたしはロシア文学(ロシア語で書かれた)をそれなりに読んでいますが、ウクライナ文学(ウクライナ語で書かれた)というものはまったく読んだことがありません。
ドストエフスキーは今日の日本人にとっても本当に名作といえるのか?
ロシア人はドストエフスキーやトルストイ、パステルナーク、レーニンやら、エカテリーナなどたくさんの人を知っています。
『ドクトル・ジバゴ』翻訳ロシア文学は人名を統一したら読みやすくなる提案
それに対してウクライナ人というものはほとんど知りません。出身がウクライナ地方だというゴーゴリはロシア文学者(範疇分けすればロシア枠)だし、ざっと鳥人セルゲイ・ブブカぐらいでしょうか。
このような人間がロシア側ではなくウクライナ側からものを見るというのはほとんど無理だと思うですが、実際にはテレビを見ていても識者が常にウクライナ側から語ることに何ら違和感を感じません。
文化的には親ロシアで、ウクライナなんて全くと言っていいほど知りません。ウクライナは不可知でした。それなのにこのブログでもロシア・ウクライナ戦争のことをウクライナ側から語っています。
考えてみればこれは一考に値することだと思います。なんでこんなことが起こるのでしょうか?
神さまの書いた文章なんて読んだことがない。言葉というものの宿命。文章には視点が必要
そもそも文章には視点・目線というものが必要なのです。誰の視点でもない文章なんてまずありえません。誰かの視点でもない文章なんて「ない」のです。神様が書いた文章なんて見たこともありません。聖書は人間が書いています。聖書は天国からファックスで送られてきたのではありません。
だからこのウクライナ・ロシア戦争を語るときにも、必ず目線というものが必要なのです。それが言葉というものの宿命だから。
ではその目線がなんで文化的に親しいロシア側ではなく、ほとんど知らないウクライナサイドになってしまうのか? みんなウクライナ側からの視点でものを語るのでしょうか。
女子大生と見るか、キャバクラ嬢と見るかで評価が変わる。
女子大生が夜キャバクラでバイトしていると聞くとふしだらに聞こえるけど、キャバクラ嬢が昼は大学で学んでいると聞くとまじめに聞こえる。
というような記事を発見しました。これなどは視点がどこにあるかで評価が変わるといういい見本です。ひじょうにおもしろいですね。
やってることはどっちも同じじゃありませんか? もしかしたら同じ子のことを評したのかもしれませんよ。同じ相手を女子大生視点で語るか、キャバクラ嬢の視点で語るかで評価が180度変わってしまうのです。
ものごとの価値というのは目線で変わって感じる。
わたしは市民ランナーです。マラソンを二時間台で走ることができます。
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※雑誌『ランナーズ』の元ライターである本ブログの筆者の書籍『市民ランナーという走り方』(サブスリー・グランドスラム養成講座)。Amazon電子書籍版、ペーパーバック版(紙書籍)発売中。
「コーチのひとことで私のランニングは劇的に進化しました」エリートランナーがこう言っているのを聞くことがあります。市民ランナーはこのような奇跡を体験することはできないのでしょうか?
いいえ。できます。そのために書かれた本が本書『市民ランナーという走り方』。ランニングフォームをつくるための脳内イメージワードによって速く走れるようになるという新メソッドを本書では提唱しています。「言葉の力によって速くなる」という本書の新理論によって、あなたのランニングを進化させ、現状を打破し、自己ベスト更新、そして市民ランナーの三冠・グランドスラム(マラソン・サブスリー。100km・サブテン。富士登山競争のサミッター)を達成するのをサポートします。
●言葉の力で速くなる「動的バランス走法」「ヘルメスの靴」「アトムのジェット走法」「かかと落としを効果的に決める走法」
●絶対にやってはいけない「スクワット走法」とはどんなフォーム?
●ピッチ走法よりもストライド走法! ハサミは両方に開かれる走法。
●スピードで遊ぶ。スピードを楽しむ。オオカミランニングのすすめ。
●腹圧をかける走法。呼吸の限界がスピードの限界。背の低い、太った人のように走る。
●マラソンの極意「複数のフォームを使い回せ」とは?
●究極の走り方「あなたの走り方は、あなたの肉体に聞け」
本書を読めば、言葉のもつイメージ喚起力で、フォームが効率化・最適化されて、同じトレーニング量でも速く走ることができるようになります。
あなたはどうして走るのですか? あなたよりも速く走る人はいくらでもいるというのに。市民ランナーがなぜ走るのか、本書では一つの答えを提示しています。
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どんなレースに出ても自分よりも速くて強いランナーがいます。それが市民ランナーの現実です。勝てないのになお走るのはなぜでしょうか? どうせいつか死んでしまうからといって、今すぐに生きることを諦めるわけにはいきません。未完成で勝負して、未完成で引退して、未完成のまま死んでいくのが人生ではありませんか? あなたはどうして走るのですか?
星月夜を舞台に、宇宙を翔けるように、街灯に輝く夜の街を駆け抜けましょう。あなたが走れば、夜の街はイルミネーションを灯したように輝くのです。そして生きるよろこびに満ち溢れたあなたの走りを見て、自分もそんな風に生きたいと、あなたから勇気をもらって、どこかの誰かがあなたの足跡を追いかけて走り出すのです。歓喜を魔法のようにまき散らしながら、この世界を走りましょう。それが市民ランナーという走り方です。
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42.195kmを三時間を切って走ることをサブスリー(ランナー)といいます。サブスリーは市民ランナーの勲章とされています。それほど難易度が高いということですね。
ではどれぐらい難易度が高いのかというと人類の上位1パーセントぐらいだとわたしは見積もりました。
「そこらへんの人100人がマラソンを走ったらトップでゴールできる人」ということです。
「100人がマラソンを走ったらトップでゴールできる人」と聞いたら凄い人だと聞こえませんか? 「すごいじゃん。そいつ。ちょっと名前覚えとこうか」ぐらいのインパクトはあるのではないでしょうか。小学校で学校(学年)で一番足の速かった子の名まえをあなたも覚えているのではないでしょうか。そのぐらいのレベルです。
でも「100人がマラソンを走ったらトップでゴールできる人」というのは裏を返せば「200人がマラソンを走ったら2位かもしれない人」という意味です。トップで走れるか、二位になるかは相手次第です。
上位1%というのは1万人走ったら100位です。三万五千人(東京マラソンの出走者数)走ったら350位だということです。350位の人をすごいと思いますか? ちょっと名前覚えとこうと思いますか? 思いませんよね。350位なんて箸にも棒にもかからないモブ(その他大勢)だと感じると思います。
これが視点の問題ということです。誰に目線を置くかでものごとは感じ方が変わります。
オリンピックアスリートの目線で見るか、走り始めたばかりの「わたし」目線で見るかで、ものごとの価値というのは目線で変わって感じるものなのです。
ウクライナ側から語ることにはメリットがある。正義の側から語ることができる。
ところで現在のロシア・ウクライナ戦争は、ロシアがウクライナに侵攻したという文脈が世界的に受け入れられています。つまり被害者はウクライナ、加害者がロシア。正義はウクライナ、ロシアは悪というレッテルが貼られています。
だからウクライナ側から語ることにはメリットがあるのです。正義の側から語ることができるからです。自分を悪の側においてそこから語りたくないんですよ。これが識者たち、テレビがウクライナ目線でこの戦争を語る理由です。
ロシアの軍事ブロガーって何者だ? なんでブログにそんなに影響力があるのか。
ウクライナ目線なのは明確なメリットがあるからです。正義の擁護者という顔をして発言できるからです。
本当は中立な立場で報道できればいちばんいいのでしょうが、言葉というものは視点が必要な宿命だからそれはできないのです。
せいぜいできるのは「ウクライナは××と主張した。それに対してロシアは〇〇と主張している」と両論併記することぐらいです。
誰かの視点<人類視点<地球視点
いや、小説などを読んでいると三人称で書かれた無色の文章がある。誰の視点でもない文章はありえる、という反論があるかもしれません。
でもそれは人間の視点です。作者の視点です。やっぱり誰かの視点なのです。人類の視点といってもいいかもしれません。ときどき犬の視点で小説を書く人もいますが。
ジャック・ロンドン『白い牙』なぜ作者はオオカミがイヌになる作品を描いたのか?
ジャンク・ロンドンも犬の視点に見えて、犬を通して人間を描いているから文学として評価が高いのです。やはり視点というものはあります。それは人類の視点といってもいいでしょう。本当の意味で犬の視点で書くことは人間にはできません。そもそも犬には言葉を使いこなして小説という構成芸術をつくりあげることはできないでしょう。
そろそろ地球視点でものを語ろうか。
現実におこなわれている戦争に対して、人類の視点で語ることは難しいことかもしれません。だってウクライナ人も、ロシア人も、どちらも同じ人類ですから。
だったら、いっそ地球視点でものを語ったらいかがでしょうか。
ウクライナの正義と、ロシアの強者の理論が意地を張れば、核ボタンで地球は終わります。
言葉というものは宿命的に視点が必要です。でもできるだけ自分を殺して語ろうとするならば、地球目線で語ることは可能です。
手塚治虫さんは『火の鳥』などの作品で、ときどき地球視点でものを語っていました。
地球が滅亡に瀕しているときに「何とか人類を生きのびさせて」という人に対して「人類が何だというんだ。何かのいのちが残れば人間じゃなくてもこのさい何でもいいじゃないか」と叫ぶのです。『ガラスの地球を救え』という著作もあります。
手塚治虫のような天才じゃなくても、地球目線で何かを語ることはわたしたちにもできます。
ウクライナ戦争も、西側のリーダーたちがウクライナ目線で考えたり語ったりすることをやめて、地球目線で考えたり語れば違った見方になるのになあ、と思わずにいられません。
それはこの戦争にとどまらず、わたしたちのなにげない日常においても同じことです。
そろそろ地球視点でものを語ろうか。