日本人の和の肌感覚とは合わない『罪と罰』

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波間に浮かぶボトルの手紙を、インターネットの海に流しました。

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受け取ってくれて、ありがとう。

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このページでは世界的な名作とされるドストエフスキー『罪と罰』が、果たして日本人にとってもそれほど名作なのか? ということを問いかけます。

ドストエフスキーは細かい筆で微妙な心のひだを描いた描写力が評価されています。

「好きな気持ちが一瞬で嫌いに変わる」というような瞬間瞬間の心の変化を微に入り細を穿って描写したことで評価されているのです。

「好きな気持ちが一瞬で嫌いに変わる」って女子高生か?

私たち日本人は、そういうことわざを知っています。

「女心と秋の空」

文学って「女心と秋の空」を描くことなんですか?

感情には大きな感情と小さな感情がありますが、文字に書いてしまえば等価値になってしまいます。

母への思慕という「大きな感情」の中でふと「うるさいなあ」と思う。それは現実にはあることだろうと思います。でも文字にして書いてしまうと大きな感情と小さな感情が同じ価値を持って読者に迫ってくるのです。

だからキャラクターが分裂病病者のように見えてしまう。

「裸の王様の感覚」がドストエフスキー評にも必要なのではないでしょうか。

Jポップの旋律の方が、洋楽よりも、すんなりと受け入れやすい感覚のことです。

「女心と秋の空」しかして「色即是空」。こう書いてくれた方が日本人には深みが感じられたのに、と思うのです。

短いほど深いと感じる日本人の感覚からすると、世界の文壇の評価に迎合して、ドストエフスキーに「いいね!」を無理してつけなくてもいいのではないか、と私は感じるのです。

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【この記事を書いている人】

瞑想ランニング(地球二周目)をしながら心に浮かんできたコラムをブログに書き綴っているランナー・ブロガーのサンダルマン・ハルトと申します。ランニング系・登山系の雑誌に記事を書いてきたプロのライターでもあります。日本脚本家連盟修了生。その筆力は…本コラムを最後までお読みいただければわかります。あなたの心をどれだけ揺さぶることができたか。それがわたしの実力です。

初マラソンのホノルル4時間12分から防府読売2時間58分(グロス)まで、知恵と工夫で1時間15分もタイム短縮した頭脳派のランナー。市民ランナーのグランドスラムの達成者(マラソン・サブスリー。100kmサブ10。富士登山競争登頂)。ちばアクアラインマラソン招待選手。ボストンマラソン正式選手。地方大会での入賞多数。海外マラソンも完走多数(ボストン、ニューヨークシティ、バンクーバー、ユングフラウ、ロトルアニュージーランド、ニューカレドニアヌメア、ホノルル)。月間走行距離MAX600km。ランニング雑誌『ランナーズ』の元ライター。『言葉の力で肉体を動かす(市民ランナーという生き方)』(グランドスラム養成講座)を展開しています。言葉の力で、あなたの走り方を劇的に変えてみせます。

また、現在、バーチャルランニング『地球一周走り旅』を展開中。ご近所を走りながら、走行距離だけは地球を一周しようという仮想ランニング企画です。

そしてロードバイク乗り。朝飯前でウサイン・ボルトよりも速く走れます。江戸川左岸の撃墜王(自称)。スピードが目的、スピードがすべて。ロードバイクって凄いぜ!!

山ヤとしての実績は以下のとおり。スイス・ブライトホルン登頂。マレーシア・キナバル山登頂。台湾・玉山(ニイタカヤマ)登頂。南アルプス全山縦走。後立山連峰全山縦走。槍・穂・西穂縦走。富士登山競争完走。日本山岳耐久レース(ハセツネ)完走。などなど。『山と渓谷』ピープル・オブ・ザ・イヤー選出歴あり。

その後、山ヤのスタイルのまま海外バックパック放浪に旅立ちました。訪問国はモロッコ。エジプト。ヨルダン。トルコ。イギリス。フランス。スペイン。ポルトガル。イタリア。バチカン。ギリシア。スイス。アメリカ。メキシコ。カナダ。タイ。ベトナム。カンボジア。マレーシア。シンガポール。インドネシア。ニュージーランド。ネパール。インド。中国。台湾。韓国。そして日本の28ケ国。パリとニューカレドニア、ホノルルとラスベガスを別に数えていいなら訪問都市は100都市をこえています。(大西洋上をのぞいて)世界一周しています。ソウル日本人学校出身の元帰国子女。国内では青春18きっぷ・車中泊で日本一周しています。

登山も、海外バックパック旅行も、車中泊も、すべてに共通するのは必要最低限の装備で生き抜こうという心構えだと思っています。バックパックひとつ。その放浪の魂を伝えていきます。

千葉県在住。夢の移住先はもう決まっています!!

※この稿の内容は以下のとおりです。

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【書評】ドストエフスキー『罪と罰』について

物語のあらすじを述べることについての私の考えはこちら。

物語のあらすじを紹介することについて
あらすじは地図のようなものです。読書のだいご味はディテイルにあります。文学にはあなたが感じたけれどうまく表現できなかった思いが表現されているはずです。あらすじを手に、原著に当たってください

大学生の若者ラスコーリニコフは、貧困の中、没落しようとしていた。知性も、事業計画も、滅びようとしていた。誰も助けてくれない。

ラスコーリニコフだけではなく、彼の時代、彼の国では、誰もが似たような状況だった。貧しく、未来が見えず、将来結婚しても、妻子ともどもの貧困が来るのが確実な未来のない若者たち。エスタブリッシュメントの地位は揺らぐことなく、貧しさから脱出できない。

家族の幸せが、性病病院の治療に代わろうとしていた。

金貸しのババアの遺産さえ若者の未来のために使えれば、どれほど社会が救われるだろうか。

一つの小さな犯罪は、その後の善行であがなえないだろうか。

たったひとつの命で、何千という命が腐敗や堕落から救われるのだ。

人類の指導者たとえばナポレオンのような英雄は、とりわけ恐ろしい流血者だった。

これまでと新しいことをすれば、犯罪人たらざるをえない。変革は犯罪である。

英雄とは軛をふみこえるもの。

そしてラスコーリニコフは、金貸しババアを殺して、金品を奪う。

しかし結局、ラスコーリニコフは、周囲の人間たちとの関係性の中で、とりわけ娼婦ソーニャの愛によって、犯行を自供し、シベリア流刑の罪に服す。

しかし、ソーニャの愛(女の愛というよりはキリストの愛。ソーニャはキリスト教徒)によって、贖罪、再生への希望が示される。

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モダンアートはわからない。ドストエフスキーもわからない

ドストエフスキーは細かい筆で微妙な心のひだを描いたことが評価されている。

しかし、私はそこが気にかかるのだ。

たとえば収監前に最後に母親に会うシーンがある。

「愛しています。おかあさん」

ラスコーリニコフ、母と二人きりでいられたのがうれしくてならなかった。

母への愛情にあふれる。

しかしここで、これが今生の別れであることを、何となく察している母が、息子にしがみついて絶望のまなざしをすると、

「たくさんです、お母さん」

ラスコーリニコフは、母に会いに来たことを心から後悔するのだった。

……いや、おれにだってわかるんだよ、そんな顔しないでくれよ、とちょっと嫌な気持ちになるよね。

せっかくカッコよく決めようとしているのに、そんな態度とられたら台なしじゃん。

決めるべきところが決まらないじゃん、シッシッシッ!!

と手で追い払いたくなるんでしょ。わかるよ。その一瞬「いやだな」と思う感情がよぎるのはわかるんだよ。

でもね、それを描写すること、必要ですか?

しかしそれを全部、書いてしまうのがドストエフスキー流の描写なのだ。

そしてこれが高く評価されている。

「心理学の大家」だとか「そこまで描写しつくした人は過去にはいなかった」とか、「いいね!」がつきまくるのだ。

しかし私はここがどうも気になる。

ラスコーリニコフが、痛い人物というか、分裂病(統合失調症)の人物に見えてしまうのだ。つくられたロボットのように見えてしまう。

それは作品の欠点ではないのか?

たしかにラスコーリニコフは老婆殺しの罪の意識にさいなまれて、気を失ったり、完全に心を病んでいる人物なのだが、せめて母親との最後の別れぐらいは普通の人物として場面に登場しているはずである。

それが分裂病の人に見えてしまうのは、後で詳しく述べるが、感情には大きな感情と小さな感情があるはずなのに、それがまるで等価値であるかのように並列に提示されているからだ。

小さな感情ならばいっそ省略してしまった方がよかったんじゃないのか。沈黙して読者に考えさせる、とか。

全部書いてしまうから、キチガイにしか見えないのだ。

ラスコリニフは右足を出して、次に左足を出して、また右足を出して歩きだした、と描写しているようなものだ。

登場人物が毎朝、トイレで排便していることを秒刻みで描写しているようなものだ。

そこまで書く必要ありますか?

かつて絵画は「瞬間を永遠に」「見たものを残す」今でいう写真のような役割を担っていた。

しかし写真が発明されたときに、一度、絵画の役割は終わったかのように思われた時代があったそうだ。

しかし「絵が表現できるものは写実的なものばかりではない」という試行錯誤の中から、モダンアートが生まれたという。

ドストエフスキーもそのようなモダインアートだったのではないだろうか。

小説にできることは、これまでのゲーテとかダンテとか以上のことができるはずだ、というような。

たしかにゲーテやダンテの登場人物は、精神分裂症のような感情を吐露しなかった。

ダンテの『神曲』は原著よりも、谷口ドレ版を読むべき
「ありえることを、なしえることを、もとめうることを、あなたとともに」光降る。 歌声響き光降る。 智は光。 愛は光。 光は全て! 私は愛…… 私は光……

ダンテは地獄で終始一貫おびえていた。しかし瞬間瞬間にはホッとしたり、クスッとわらったりしたはずだ。

しかし地獄変でクスッと笑うことは作品世界が崩壊することなので、そういう心のひだはあえて描写しなかったはずである。

しかしドストエフスキーはそれらを全部描写して、世界文学史上でもっとも偉大な心理学者と評価されたりしているのだ。

……省くのも美学、省くのも知性だと思うのは私だけ?

せめて高評価なのは「最初にやった」人物だけにしてほしい。

モダンアートの評価も最初のひとりが評価されるのはいいだろう。

しかし後輩たちがみんなそれにつづくのはどうなのか?

みんなが似たようなモダンアートばかり書くのが、モダンアート展がつまらない原因なのだ。

子どもが描くような絵、バケツの絵の具をひっくりかえした絵、でもいいよ最初のひとりは。

たしかに絵はこう描かねばならないという固定観念を打ち破ったのだろう。

しかし作家がみんなドストエフスキー的描写をしていたら、世のキャラクターは分裂病で溢れ、誰も小説なんて読まなくなるだろうと思う。

つまらないから。

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感情には大きな感情と小さな感情があるが、書いてしまえば等価値になる

たしかに人間の感情は、一瞬一瞬で変わることもある。

その通りである。

しかし微に入り細を穿ってすべてを描くことが必要だろうか? ましてやそれが文学的高評価の条件だろうか?

私はそうは思わない。

リアリティを追求しすぎると面白いものには決してならない。

それが証拠に『罪と罰』は、これが無名作家の処女作だったら、大半の人は全部読み通せないだろうと思う。

世界的名作だとか、一生に一度は読んでおけ、と多くの人が言うから読み通せた人が大半だろう。

けっして面白くないわけじゃないのだが、私は「魂が病んだ人の物語」を切実に読みたくはない。

「普通の人間」の悩み、苦しみがテーマでないと、切実に読みたいとは思わない。

病んだ人の心象風景だったら、どんなに現実離れしてメチャクチャでも許される。だってそれが病んでいるってことだから。

そして問題は、主人公ラスコーリニコフは分裂病なのではない。

ドストエフスキーの心境描写のせいで分裂病に見えてしまっているだけなのだ。

心が病んでいるのは殺人犯としての罪の意識のせいだ。それは「普通の人間」の状態だとさえいえる。

感情には大きな感情と小さな感情がある。しかし文字として書いてしまえば等価値になるのだ。

母への思慕という大きな感情の中でふと「うるさいな」と思う。それは現実にはあることだろう。

でも文字にして書いてしまうと大きな感情と小さな感情が同じ価値を持って読者に迫ってくるのだ。

それがキャラクターをビョーキな人物だと感じてしまう原因だ。

いっそポイント(字の大きさ)を変えられたら、こんなことにはならなかったのに。

お母さん、お別れです。今までありがとう。

いやだなあ、最後の別れの時にそんなめめしい態度をとらないでくれ。最後ぐらいは男らしくいさぎよくしたいんだ。

ぐらい感情の大きさで字の大きさが変われば狂った人物には見えないのだが、ドストエフスキー流描写で、同じ字の大きさで同じ配分で描写されると「気持ちが悪いキチガイ」にしか見えないのだ。

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日本人の和の感覚とは合わないロシア文学

どうもキャラクターが分裂病の人物に思えてしまう。

それはドストエフスキーが大きな感情も小さな感情も全部、同じ様式で等配分に地の文で描いてしまっているからだ。

ラスコリニコフの心は病んでいるのだが、地の文の心境描写が唐突なのだ。まじでガイキチ。分裂病患者のようだ。

自分から話しをしに行っておきながら、僕に構わんでくれ、とか。

愛しているのに、憎んだりとか、感情線が、唐突なのだ。

譬えて言えば、こんな感じだ。

スネ夫「おーい、のび太。見ろよ、お父さんに買ってもらったぼくのラジコンを。フランス製だぜ」

のび太「わあ。いいなあ。スネ夫。僕にも貸して」

スネ夫「いやだよ。僕のだぞ。なんでおまえに貸さなきゃならないんだよ」

のび太「貸してくれないんだったら、わざわざ僕んちまで来ることないじゃないか。何しに来たんだよ」

スネ夫「僕はただ自慢してのび太がうらやましそうな顔をするのが見たかっただけだよ。人がうらやましそうに僕を見るのが、僕は何よりも好きなんだ。僕の趣味のために君のうちに寄ったのであって、君に貸すために寄ったんじゃないよ

……そんな感じの人物がじゃんじゃん出てきて、自分勝手な主張を繰り返すのである。

言っている意味がわかりますか?

そんならわざわざ訪問しなけりゃいいじゃん!! それが日本人の和の感覚です。

自分のために泣いてくれた人を、突然、憎悪したりする。

まだ読んでいない人は、こういう分裂症のような人物ばかりの病的な世界であることを知った上で読んでください。

ソーニャの母カチェリーナが狂死する。っていうか、登場人物がみんな狂った人みたいだけど、今さら狂う。

「ふいに」「急に」「突然」これまでの感情ラインになかった感情が湧いてきて、唐突に、叫ぶのだ。

それが「無意識」であり、ドストエフスキーの文学の深みだという人もいるが、だとしたら狂人はみんな天才なのだろうか?

そんな唐突な「無意識」をお互いにぶつけ合う。無意識の自由奔放な衝突。

ロシア文学は日本人の和の感覚とは合わないなあ、と思う。

地の文がいらないなあ。邪魔すぎる。

シェイクスピアの戯曲のように、いっそセリフだけだったらいいのに、と思った。

瞬間瞬間の変化した感情を描くから、地の文がちぐはぐなのだ。それは瞬間瞬間の心を「流れ」に脈絡なく書き込んでしまうからである。感情をリアルに表現しすぎて、気持ちが悪いのだ。

ウソでもここは感情をそぎ落として精製して純化していくべきではないのか?

私は思う。その作業を脚色というのだが。

ドストエフスキーは作品を、チェホフのように戯曲で書いた方がよかったのではないだろうか?

地の文の感情描写を省けば、小説はもっと短くなり、読みやすくなったはずだ。

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今更キリスト教。もう「神は死んだ」ってことでいいんじゃないか?

ラストシーンも、結局、キリスト教の愛が救いとなっている。

神不在だった男がキリスト教的な愛に目覚める、というエンディングをむかえる。

今さら?

いやいやいや。19世紀の作品ですぜ。

もう神は死んだってことでいいんじゃないか?

またもやキリスト教の話しである。

感染症の時代の生き方を歴史に学ぶ。カミュ『ペスト』
感染症がもたらすものは畢竟「死」と「別離」だけです。「死」と「別離」は感染症がなくなっても、この世から消えてなくなるものではありません。今はコロナウィルスで人と人とがソーシャルディスタンスで隔てられていますが、やがて人は触れ合うようになるのです。間違いなく。

もう神はいないってことでいいんじゃないか?

何世紀、この話題を続けるのだろうか?

西欧文学、それでいいのか? もうそのテーマはいいんじゃないか?

ほとんどキリスト教徒がいない日本人には、『罪と罰』はあまり向いていない作品なんじゃないかと思う理由のひとつである。

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女心と秋の空。それが文学か? 色即是空、短い一言の方が深い

文豪ドストエフスキーは、刻一刻と変化する心の流れ(意識)を描き切った作家であるという高評価がある。

「好きな気持ちが一瞬で嫌いに変わる」とか、女子高生か?

少女マンガのテーマかと思った。

「好意をもっていた人を、次の瞬間、嫌いになる」って、そりゃそういうのが人の心だと知っているけどさ、それをあれだけの長文で描かないとロシアの人たちには伝わらなかったのだろうか。

私たち日本人は、そういうことわざを知っている

「女心と秋の空」

女心と秋の空は安定しなくて、変わりやすいよね。いや、女心に限らず人の心は変わりやすいものだ。

もしもドストエフスキーが人の心は変わりやすい、瞬間瞬間で気持ちはころころ変わる、それをコントロールもできない、そういうことを描きたかったのだとすれば、

「女心は秋の空」

それで足りたのではないか? そして短い方が深い。

短い方が深いと感じるのは、俳句など日本文化の精髄にも通じるものだ。

短い箴言の中で、あらゆる物語を当てはめて言うことができるからだ。

女心は秋の空」それが文学か?

日本人が世界一の小説ぐらいにまでドストエフスキーを高評価するのは、本当に自分の判断からなのだろうか?

人間の非合理性、非論理性を描いているからキチガイに見えてしまうのだ、という見方もある。

たしかに人間は非合理的、非論理的だよ。

色即是空

ドストエフスキーはラストシーンをキリスト教の愛(自分の宗教)でまとめたけれど、日本人に合うように書くのだったら、ここはこう締めくくってくれた方が深みを感じられたのではないだろうか。

「女心と秋の空」しかして「色即是空」。

こう書いてくれた方が深みが感じられたのに、と思う。

やっぱり『罪と罰』はロシア文学なのである。

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日本人の和の精神にはあわない物語

ロシア文学、だといわれる。ドストエフスキーは。

逆にいえば、ロシアで高く評価されたからって、日本人がそこまで高く評価することはないのではないか? と思う。

世界最高の小説には、私には思えない。

洋楽の旋律なのかな? と思う。

大ヒットした洋楽でも「ン? これのどこがいいの?」と思うことありませんか?

Jポップの旋律の方が、洋楽よりも、すんなりと受け入れやすい感覚のことです。

あの「裸の王様の感覚」がドストエフスキー評にも必要なのではないだろうか?

気持ちを忖度して、調和するのが日本人的な感情である。

日本人の和の心から見ると、瞬間瞬間の小さな感情が併記されたドストエフスキー作品を見ると、キチガイにしか見えない。

日本人の和の心から見ると、無用な争いが多すぎる。争いのための争い、に見えてしまう。

でもロシア人ならこれが普通なのかもしれない。

世界的名作だ、と前評判を聞いていなかったら、無名の新人の処女作だったら、私は最後まで読み通せなかったと思う。

日本人の心から見ると、狂った人たち、ロボット的な人、つくられた性格の人に見えてしまう。

「これがリアルな人間だよね」とすなおに高評価できない。

「気持ち悪い。心が病んでいるんだな」としか読めないのだ。

病んだ人の心を理解したい人なら読む価値があるだろう。

しかし普通の人の心さえ理解できなずに悩む私たちが、病んだ人の心を理解していったい何になるだろうか?

その前にもっと知るべきことがあるはずだ。

「女心と秋の空」だけど「色即是空」。

こうして世界的な名作を、たった一行にまとめてみた。

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