ドラクエ的な人生

ヒッピー・バイク映画の最高傑作『イージー・ライダー』ワイルドにトリップする映画

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映画というのは公開時期を考えないと、真の価値がわからない

チャーリー・チャップリンの映画『独裁者』はドイツのヒトラーをコケにした映画ですが、公開時(1940年)、まだヒトラーは存命どころか全盛期でした。それどころかアウシュビッツ強制収容所の件が明るみになるのは1945年のことです。チャップリンはヒトラーに暗殺部隊を差し向けられて殺されてもおかしくはありませんでした。

このように映画というのは公開時期を考えないと、真の価値がわからないことがあります。

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このブログの著者が執筆した純文学小説です。

「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」

「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」

本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。

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ボーン・トゥ・ビー・ワイルド。腕時計を投げ捨てるキャプテン・アメリカ

『イージー・ライダー』1969年公開のアメリカ映画です。ヒッピーとバイクの映画ですね。ニューシネマともいわれます。

キャプテンアメリカ(マーベルコミックのヒーローじゃありません。ピーター・フォンダの役名ワイアットのあだ名です)のクールさと改造ハーレーダビットソンがカッコいいのでみんなピーター・フォンダのファンになってしまいますが、監督をしているのはビリーのデニス・ホッパーの方です。アヒルチャーン。

日本のドラマ『ビーチボーイズ』の冒頭で竹野内豊腕時計を投げ捨ててエリートサラリーマン生活と決別する象徴的なシーンがありましたが、キャプテンアメリカも冒頭で腕時計を投げ捨てています。

腕時計をしているということは頻繁に時間を見る=時間に縛られて行動するということなので、自由な人間は腕時計をしないということなのかもしれません。

カッコいいぜ。キャプテンアメリカ!

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あらすじ。ヒッピーがスクエアに撃ち殺される話し

あらすじを一言で言うと「ヒッピーがバイクで野宿旅をして最後にはスクエアに撃ち殺されてしまうというだけの映画」ですが、いくつか謎があります。

私が疑問に思った謎について、以下に解説します。

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彼らはどうして急に「お金持ちだ」ってことになったのか?

ルイジアナのニューオーリンズの謝肉祭の後でビリーが急に「ついにやった。金持ちになった」とよろこぶから、誤解しました。彼らは何か仕事しにニューオーリンズまで行ったのかと。ドラッグを運んだのかと誤解しました。

しかし実際には、彼らは「仕事」をしにニューオーリンズに行ったわけではありません。

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何をしにルイジアナ州ニューオーリンズまで行ったのか?

ニューオーリンズ・マルティグラ(謝肉祭)というのはリオのカーニバルと並び称されるほど盛大なカーニバルだそうです。

彼らはアメリカのマザーロードであるルート66を通って、大陸横断ツーリングしてみたかっただけでしょう。オートバイを駆って自由を満喫することがやってみたかっただけなのでしょう。

麻薬の運び屋をやっていたわけではありません。

問題は彼らのルートです。

ロサンゼルスからニューオーリンズまでの旅は、ラブ&ピース。ヒッピー。ビートフリークの地域から、スクエアレッドネックの地域への楽園(肯定)から地獄(否定)への旅だったということです。

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金で動くものは自由にはなれない

映画の冒頭で彼らは麻薬の密売をしています。メキシコの麻薬をロスアンゼルスで売り払ってお金持ちになったのでした。

違法なドラッグ密売で儲けた大金で派手なハーレーダビッドソン(チョッパー)を購入しています。その時点で彼らは金持ちなのでした。

「カネで動くものは自由になれない」と、ヒッピー弁護士が語りますが、語った相手は違法なドラッグ密売人でした。

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ヒッピーとはカウンターカルチャー。コンサバティブとラディカルの対決

ドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』の書評で「オチがキリスト教への救い」ってのが世界的名作って本当に言えるの? と私は批判しました。

いまだにキリスト教? 中世か? ルネッサンスから何百年たってると思ってるの? というわけですが、1969年のアメリカ南部ではしっかりとまだキリスト教でした(泣)。

ヒッピーというのは、基本的には反体制で、仏教やメディテーションなどに傾倒する人たちであってキリシタンではありません。映画途中のヒッピー村で太極拳をやっている人がいましたが、あれは東洋思想へのあこがれを象徴しています。フリーセックスもヒッピーの特徴。カトリックは中絶禁止です。映画前半の農夫が子だくさんなのは中絶禁止だからです。

スクエアとヒッピーの対決というのは、キリスト教聖霊信仰アニミズムの対決です。資本主義・物質主義社会主義・ミニマリストの対決です。家父長制男根主義フリーセックスフェミニズムの対決です。体制と自由の対決です。定住者・農耕民族と放浪者旅人・狩猟民族の対決です。伝統・権威とアナーキズム・ドラッグ&ロックンロールの対決です。民主党と共和党の対決といってもいいかもしれません。

アメリカという国の地域差ともいえるし、本質的な対立だともいえるでしょう。

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キャプテンアメリカはなぜ「おれたちは失敗した」と言ったのか?

作品のラスト近くに、この映画でもっとも重要なシーンが登場します。

ビリーが「ついにやった。お金持ちになった。フロリダあたりで引退しよう。金もあるし、自由の身だ」と成功したことを喜びますが、キャプテンアメリカは「いいや。わかるか。おれたちは失敗した」と呟きます。

このセリフは「おれたち」という複数形なところに注目してください。二人のことを指しているのみではなく、ヒッピー文化が敗北したことを言っているのだろう、と私は直感しました。

そこで冒頭に示した「映画というのは公開時期を考えないと、真の価値がわからない」が登場します。

『イージー・ライダー』の映画公開時期は、1969年7月です。伝説のヒッピーの祭典「ウッドストック・フェスティバル」が同年8月に開催されています。

現在の私たちはアメリカのヒッピー文化・フラワームーブメントが一定の痕跡を残しつつも失敗したことを知っていますが、当時のデニス・ホッパーやピーター・フォンダはそんなことは知らなかったはずです。

それどころかこれからウッドストックですから、ますますヒッピー文化は盛り上がっていく時期にあったのです。「おれたちはいつか社会を変えるぞ」「銃のかわりに花という時代がいつかくる」という映画にしたってよかったはずなのです。その時期に「おれたちは失敗した」と言い切ってしまえたところが、『イージー・ライダー』のすごいところなのです

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タイトル「イージーライダー」の命名由来は「簡単に乗っける人」

ちなみにイージーライダーというのは「簡単にバイクに乗せてくれそうな乗り手」という意味です。そこから、簡単に男を乗っける尻軽女、節操なし男というような蔑称になってしまいました。お金さえ払えば誰でも乗っけるタクシーから「イエローキャブ」というのも貞操なし、売春婦の蔑称ですが、名前の付け方のセンスが似ていますね。

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なぜヒッピーは猟銃で撃たれたのか?

ジャック・ニコルソンがデニス・ホッパーに語ったセリフがすべてでしょう。

「君が象徴しているそのものさ。君に自由を見るんだ。自由を説くことと、自由であることは別だ。アメリカ人は自由を証明するためなら殺人も平気でする。個人の自由についてはいくらでも喋るが、自由なやつを見るのは怖いんだ」

まさにビリーに「おそるべき自由」を見た南部の貧しい農夫は、ミドルフィンガーを突き立てられて激怒しました。そして凶行に及びます。

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作品は何を言いたかったの? 映画の主題の解説。

もちろん「ヒッピーはぶっ殺せ」という映画ではありません。しかしヒッピームーブメントの終焉を予見していた映画だといえるでしょう。

ヒッピーという種族はベトナム戦争のある時期に突如現れて、去っていきました。自由や精神主義、アニミズム、社会主義、フェミニズム、フリーセックス、ドラッグ、放浪、無政府主義などの影響を私たちに残して。

しかしヒッピーは世界のすべてを変えられませんでした。負けて去っていきます。

スクエアの価値観。資本主義。物質主義。旧教主義。家父長制。男根主義。政治支配体制。伝統。権威。そういうものはそう簡単に滅びないという畏怖・恐怖がラストの銃弾には込められています。世代間の対立、地域間の対立があり、人間は人それぞれで、なかなかわかりあえないということも。

それらを象徴するのがラストの銃弾だったのです。LOVE&PEACE!

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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。

「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」

「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」

※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。

アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。

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