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【おそるべきZ世代】黒電話の使い方がわからない知り合いの娘

「ダイヤルを回す」という表現は死語となった

先日、知り合いからおそろしい話しを聞きました。昭和の家庭を再現したコーナーを眺めていた知り合い(父)が、娘が黒電話をまったく理解していないことに驚愕したというエピソードです。

昭和の黒電話を見て、

娘「パパ、なにこれ?」

父「電話だよ」

娘「ふうん。どうやって番号押すの?」

父「いやいや押さないよ。穴に指を突っ込んで回すんだよ」

ジーゴジーコとダイヤルの留め金まで穴に指を突っ込んで回すという行為を、娘さんはなかなか理解できなかったそうです。

いや、まいったね。

このブログの作者は昭和の生まれ。携帯電話以前の世界を知る者です。わたしは小説を書いているのですが、「ダイヤルを回す」という表現はもう小説では使えません。完全に死語になりましたね。なにせプッシュするだけで回さないのですから。いやもうプッシュさえしないか。画面をタップするだけですよね。いまなら小説上では「電話をかけた」という無難な表現を使うと思います。小説ではなるべく普遍的な表現を使うように心がけています。

小説で、携帯電話と書くかケータイと書くか悩んでいるうちにスマホの時代になってしまいました。でもスマホという言葉もいつまでもつんでしょうね? 二十年後にはスマホなんて黒電話なみに現役の言葉から消え去っているかもしれません。眼鏡タイプのいいものができたら、スマホなんて滅び去るんでしょうからね。

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(本文より)

カプチーノを淹れよう。きみが待っているから。
カプチーノを淹れよう。明るい陽差しの中、きみが微笑むから。
ぼくの人生のスケッチは、まだ未完成だけど。
裏の畑の麦の穂は、まだまだ蒼いままだけど。
大地に立っているこの存在を、実感していたいんだ。
カプチーノを淹れよう。きみとぼくのために。
カプチーノを淹れよう。きみの巻き毛の黒髪が四月の風に揺れるから。

「条件は変えられるけど、人は変えられない。また再び誰かを好きになるかも知れないけれど、同じ人ではないわけだよね。
前の人の短所を次の人の長所で埋めたって、前の人の長所を次の人はきっと持ちあわせてはいない。結局は違う場所に歪みがでてきて食い違う。だから人はかけがえがないんだ」

金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。
夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。
夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。

あの北の寒い漁港で、彼はいつも思っていた。この不幸な家族に立脚して人生を切り開いてゆくのではなくて、自分という素材としてのベストな幸福を掴もう、と――だけど、そういうものから切り離された自分なんてものはありえないのだ。そのことが痛いほどよくわかった。

あの人がいたからおれがいたのだ。それを否定することはできない。

人はそんなに違っているわけじゃない。誰もが似たりよったりだ。それなのに人はかけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。

むしろ、こういうべきだった。

その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と。

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雑誌の表紙を必死に指で拡大しようとしている幼子を見たことがある

かつて歯医者の待合室で雑誌の表紙を赤ちゃんが指でピンチアウトして必死に拡大しようとしていたのを見て愕然としたことがあります。これがZ世代というやつなんですね。。。あなおそろしや。

※Z世代=生まれた時点でインターネットがあった世代。

かつてコンビニで松田聖子の「青い珊瑚礁」がBGMに流れてきたとき、若いカップルが「何この曲?」「古っぽいけどいい曲だね」と言っていたのを聞いてショックを受けた体験をブログに書いたことがあります。「青い山脈」ならまだしも「青い珊瑚礁」ですよ!

あのときのショックの正体は「ああ。この世に永遠のものなんてないんだ……」というショックでした。

松田聖子『青い珊瑚礁』永遠のものなんてない

そして黒電話もまた滅び去りました。やがて私たちの世代も滅び去ることでしょう。何ひとつ残すこともなく。風の前の塵のように。それがこの世界なんですね。そういうことがこの齢になってやっと実感としてわかるようになりました。心の底から自分が挫折するまでは、そういうことはわからなかったのです。

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