このページでは小説の作法である「話主を誰にするか」という問題について考察しています。
一人称にするか、三人称にするか。
三人称にした場合、誰を話主にするべきか。どこまで心境の中に立ち入っていいか。
私たちは、人間が書いた文章は読んだことがあるが、神が書いた文章は読んだことがありません。
複数視座【神の視点】で小説を書くと、読者は「人間が書いた文章ではないもの」を読んでいる気がして、違和感を感じて気持ちが悪くなってしまうのです。
語り部を選ぶ際のコツは、魅力的な行動家は話主にしないことです。
ひらたくいうと、カッコいいヤツは話主にしない方がいいのです。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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クリエーターは自分の作品をつくっている瞬間が一番楽しい
ウチにはテレビが一台しかありません。
YouTubeなどの動画をパソコンのブラウザで見ることができますが、もっとも快適に動画を視聴するとなると、やはり大画面のテレビモニターで見るのが最高です。
※テレビはテレビだけでなく、amazon fire TVを差し込めば、YouTubeやプライムビデオなどのサブスク動画を見ることができます。
私はテレビのチャンネル権を基本的に妻に譲ろうと思っています。それが家庭円満の秘訣だろうと信じて。
同じ動画を一緒に視聴できれば最高なのですが、そういうわけにはいかないこともあります。やはり夫婦でも趣味が違いますので。
とくに妻が韓流スターに熱狂をはじめると、私はそそくさと部屋にひきこもります。何が面白いんだかさっぱりわかりません。
テレビのチャンネル権を譲ることに関しては泣く泣く譲っているつもりはありません。クリエーターは自分の作品をつくることの方が、他人の作品を鑑賞することよりも何倍も楽しいので、本質的に私はテレビを眺めているよりも、自分の作品をつくっている方が楽しいからです。
だから部屋で、自分の作品を一生懸命つくっています。
こうすることで妻もよろこび、夫もよろこぶ、最高の状況ができていると思っていました。
同じ場面でも、話主によって感想は変わる
しかし妻はそうは思っていなかったようです。
彼女にチャンネル権を譲ってもらった意識はまったくありませんでした。むしろダンナが部屋にこもってしまうから、退屈でやることがないのでしかたなくテレビを見ている感覚だったのです。
これは驚くべきことではないでしょうか。
このように同じ一つの場面でも、立場によって言いぶんはまるっきり変わります。
小説作法。話主を誰にするか、という問題
同じ一つの場面でも、立場によって言いぶんがまるっきり変わってしまうことが、小説上における話主を誰にするか、という問題に直接かかわってきます。
同じ一つの場面を描くのに、夫の側から描いた方が場面が盛り上がるのか、妻の側から描いた方がストーリー上得策なのか。
場面を盛り上げることができる話主はどちらなのか。三人称小説の場合、全体構成を考えて、作者はその章の話主を誰にするか決めます。
大きな感情の起伏がある方を話主にした方が、小説は盛り上がるに違いありません。
一人称小説の方が読みやすい、書きやすい
別のある日、妻が小説を読んでいました。彼女が本を読むのがあまりにもはやいので、
「地の文をすっ飛ばして会話のカギカッコ内だけ読んでるの?」
驚いて、私はそう聞きました。
ほんの数時間で一冊の本を読み終えてしまうなんて、私には考えられません。
「違うよ。一人称の軽い小説だからだよ」
彼女はそう答えました。
これは深い意味のある答えです。さすが読書家の妻はよくわかっているなあ、と思いました。
「私」「僕」を主人公にした一人称小説の場合、三人称の小説よりも、一般的には読みやすいのです。
話主のセンス、感想でストーリーが進むために、三人称の小説にくらべて読みこなしやすいのです。
同時に一人称小説は、作者にとっては「書きやすい」ということもできるでしょう。
作品の主人公は「個性」をもっているはずです。独特のセンスで世の中や人間関係を眺めています。
一人称小説の場合、そのセンスに慣れてしまえば、サラサラと読みこなすことが可能です。
語り部一人の感情しか出てこないため、感情の流れを追いかけることが簡単だからです。
前後の脈絡に関係のない感情が突然現れるはずがありません。
極論すれば、いちいち「××は思った」と描写することも不要です。
一人称の場合「思った」のは主人公の話主に決まっていますから、感想文を文章中にいきなり放り込むことが可能です。
【三人称小説】カッコいいヤツは話主にしないほうがいい
また別の日、妻がコーヒーポットの取っ手の部分を割ってしまいました。
「壊したんじゃないよ、割れちゃったんだよ」
妻がそういうので、心底、私は驚いたのです。
ちょっと何を言っているのかわかりません。彼女の意図がわかりません。
壊したことと割ったことは同じ意味のはずですが、彼女にとっては違うようです。
私の一人称目線だと、どこがどう違うのか、想像するしかありません。そしていくら想像しても本当のところは全く分かりません。
このように小説の中の「謎の人物」は「話主でないほうがいい」のです。「秘密があるヤツ」「犯人」は話主にしてはいけません。
魅力的な行動家は話主にしないことです。ひらたくいうと、カッコいいヤツは話主にしない方がいいのです。
行動の理由を喋れば喋るほどキャラクターは魅力的ではなくなってしまうからです。謎があるから魅力的なのです。
真の主人公を「見ている側」を話主にして、驚かせたりした方が、小説は盛り上がるでしょう。
これが話主をどちらにするか決めるときのコツです。
相手のことがわからないからこそ、他人というものの無気味さ、人間関係の難しさが描けます。ホイホイ他人の心の中が正確にわかってしまったら、「他者との断絶」といった文学のテーマは描くことができません。
この不自由さを逆手にとって、より迷い、より悩んでいる方を語り部に設定するといいと思います。
三人称小説はフェアプレーをするべき
それとは逆に三人称小説の場合、話主は固定されていませんので、夫の立場、妻の立場、ひとつの場面を両方から描くことが可能です。
テレビのチャンネル権をめぐる夫婦の例だと「チャンネル権を譲っているつもり」の夫の側と「夫が部屋にこもって退屈だからテレビでも見るか」の妻の側の両方から場面を描いてはじめて場面が生きてきます。
どちらか一方からだけの描写だとただのつまらないシーンです。夫と妻の両面から描いてはじめて同じ一つの場面でも立場によって言いぶんがまるっきり違う実例になって、面白くなります。
このように三人称小説の場合、話主を入れ替えることができます。
しかし誰にでも話主が飛べるわけではありません。
たとえば推理小説の場合、真犯人が話主になった場合は「真犯人はオレなのに……バレたらどうしよう……」とか「バカな探偵。こいつを利用してやろう」とか心理描写しないと、フェアじゃない、と判断されかねません。
だって話主はぜったいにそういう感情を抱くはずなのに、それが意図的に省かれているとなると、作者のご都合主知だと批判されてしまいます。
だから推理小説で、ある人物が話主になって心境描写に立ち入った場合「その人は犯人じゃない」と読者に判断されてしまうということがありました。まだ犯行があばかれる前に、犯人の心境描写に立ち入れるはずがないからです。
それを逆手にとったのが、アガサ・クリスティーでした。犯人を話主にして、犯人の心境に立ち入ったのですが、犯行のことをいっさい心境描写しなかったため、フェアじゃないと批判されたのです。
三人称小説は比較的長い場面に限って話主を切り替えることができる
「湊かなえ」さんのように一人称小説でも章ごとに完全に話主を分けて、人によって感じ方が違うことを表現することも可能です。
しかし一般的にはシーンごとに話主が切り替わる場合には、三人称小説のかたちをとります。三人称小説にすれば、小さな場面ごとに話主を切り替えながらストーリーラインを追いかけることができます。
しかし「思った」のが話主に決まりきっている一人称小説にくらべて、小さな場面ごとに話主を入れ替えている三人称小説では「Aは思った。」「Bは思った。」と、いちいち「思った主体」を明示しなければなりません。そうしないと誰が思ったのか、読者はわからなくなってしまいます。
ある程度長い章で、この章はCが話主なのだと読者が完全に理解してくれたタイミングではじめて「Cは思った」描写を省くことができます。
このように三人称小説では話主を切り替えることが可能ですが、比較的長い場面に限って話主を切り替えた方がいいでしょう。
私たちは、人間が書いた文章は読んだことがあるが、神が書いた文章は読んだことがない
私たちは、人間が書いた文章は読んだことがありますが、神が書いた文章は読んだことがありません。
だからひとつのセリフごとに話主が切り替わると、「これはいったい誰が書いた文章なんだ」と読者が気持ちが悪くなってしまうのです。
瞬間、瞬間で、心の内面まで知ることができるのは神さまだけです。だからそのように書かれたものは、もはや人間が書いたものとはいえません。だからそういう文章を見ると読者は気味が悪くなってしまうのです。
「壊したんじゃないよ、割れちゃったんだよ」
といった妻の言葉が夫の私にさっぱりわからなかったように、人間には会話相手の心情が理解できないところがあります。
しかし自由に次々に相手の心境に入り込める【神の視点】の文章には、会話相手の心情を理解できないところがありません。
次から次へとすべての人の心情に入り込める【神の視点】なのに、「キミが何を言っているのかわからないよ」とAが言ったり、Bの言葉に傷つけられたりすると、読者は違和感を感じるのです。神の視点は調和であり、葛藤など生じるはずがありません。【神の視点】で葛藤を描くと、読者は自分がどの場所に立っているのかわからなくなります。いったいこの文章は誰が書いているんだ、と読者は混乱してしまうのです。
わかるはずのない会話相手の心境を書いてしまうと、人間が書いた文章ではなくなってしまいます。それをやってしまうと、神が書いた文章でない以上、人間がご都合主義に書いた文章に見てしまうのです。
だから小説の場合は、ワンシーンで一人の話主といういちおうの決まりがあるのです。
文章は「書き手は誰か」というのが意識される
文章は「書き手は誰か」というのがかならず意識されるのです。
しかし絶対のルールではありません。大家が書けばルールは破っても構わないようです。
大文豪が書いた複数視座で心境に次々と立ち入った小説をいくらでも見たことがあります。
「この文章、きもちわるい」と読者に思われないようにうまく処理できればいいのです。
小説には視点の限界があるからこそできることがあります。たとえば語り部の孤独や疎外感は他人の気持ちがわからないからこその描くことができるのです。夢や絶望はこちらの気持ちが簡単には伝わらないからこそ大きなテーマとなりえるのです。これがヒョイヒョイ神の視点で簡単に相手の心情がわかったら、疎外感なんかありませんし、理解できない苦しみ、理解されない悩みなんて存在しないことになってしまいます。
作家はスター。マンガ家はスターメーカー
太宰治や三島由紀夫、村上春樹のような作家がスターで、発行部数じゃ圧勝のマンガ家が作家ほどスターじゃないのは、やはり誰が書いているか「作家の目線」あってこその小説だからこそだと思います。
作家はスターになれますが、マンガ家はスターにはなれないかわりにスターメーカーになれます。自分がスターになるのではなく、スターキャラクターをつくりだすことができるのです。鉄腕アトムやオスカル・フランソワやルフィーのようなスターの陰にマンガ家が隠れてしまうのは、やはりこの「神の視点」「目線問題」が大きく影響していると考えざるを得ません。
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このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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物語のあらすじを述べることについての私の考えはこちらをご覧ください。
私は反あらすじ派です。作品のあらすじ、主題はあんがい単純なものです。要約すればたった数行で作者の言いたかった趣旨は尽きてしまいます。世の中にはたくさんの物語がありますが、主役のキャラクター、ストーリーは違っても、要約した趣旨は同じようなものだったりします。
たいていの物語は、主人公が何かを追いかけるか、何かから逃げる話しですよね? 生まれ、よろこび、苦しみ、死んでいく話のはずです。あらすじは短くすればするほど、どの物語も同じものになってしまいます。だったら何のためにたくさんの物語があるのでしょうか。
あらすじや要約した主題からは何も生まれません。観念的な言葉で語らず、血の通った物語にしたことで、作品は生命を得て、主題以上のものになるのです。
作品のあらすじを知って、それで読んだ気にならないでください。作品の命はそこにはないのです。
人間描写のおもしろさ、つまり小説力があれば、どんなあらすじだって面白く書けるし、それがなければ、どんなあらすじだってつまらない作品にしかなりません。
しかしあらすじ(全体地図)を知った上で、自分がどのあたりにいるのか(現在位置)を確認しつつ読書することを私はオススメしています。
作品のあらすじや主題の紹介は、そのように活用してください。
本は電子書籍がおすすめです
マンガでは逆に【神の視点】が一般的です。マンガでは複数視座を利用して「正しいことは一つじゃない。人によって考え方は違う」「正義と正義がぶつかることもある」といった複層構造を描くことに向いています。
マンガの視点についてのコラムはこちらをご覧ください。
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