ドラクエ的な人生

ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』人生の意味、意義はフィクション。おのれが選んだ物語

苦しみの真の根源は、つかのまの感情を果てしなく空しく求め続けること。外なる成果の追求のみならず、内なる感情の追求もやめること……。

仏陀の悟りは難しいものがあります。

しかし「求めすぎないこと」は誰にでもできます。わたしのやり方をご紹介します。

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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。

「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」

「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」

※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。

アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。

Bitly

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ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史』ってどんな本?

この本のコンセプトは、人類(サピエンス)が生き物の頂点に立ち、地球の支配者になった原因を探るところにあるのですが、それだけにとどまりません。

フィクションを共有するという認知革命、産業革命、科学革命を通じて、人類は地球の支配者になれたのですが、生態系の中位にあった狩猟採取時代にくらべて、本当に幸せになれたのか? ということを本書の後半では取り上げています。

人類の幸福を考える章が非常におもしろかったので、その章の内容を詳述しつつ、わたしたちの「生きている歓び」について考えていきます。

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人間はどんなときに幸福を実感できるのか?

 

「人間はどんなときに幸福を実感できるのか?」ということについて、『サピエンス全史』はさまざまな仮説を提示しています。

幸福の鍵は、富ではないか?

幸福の統計をとるにあたってはアンケート調査による外はありません。なぜなら「幸福というのは主観的なもの」だからです。はた目には不幸にしか見えなくても本人は十分に幸せを感じているということはありえます。他者の主観的な幸福度については、想像でランキング付けをするわけにはいかないのです。

文明は人間を幸せにしたのか?

人類史を語る『サピエンス全史』は、この問いを無視するわけにはいきませんでした。

アンケート調査による統計を眺めると、ある一定の水準までは富は実際に幸福をもたらすことが読み取れます。たとえば「借金まみれの者が貯蓄できて明日の不安から解消される」際に富は有効です。

富は実際に幸福をもたらします。

たとえば一部屋に数人が住むという狭い住居環境よりは、大きな居宅は幸せをもたらします。

しかし一定の水準を超えると富はほとんど意味をもたなくなることも読み取れるのです。

たとえば大きな居宅は幸せをもたらしますが、大きければ大きいほどいいわけではありません。ある一定の水準を超えると居宅の大きさは意味をもたなくなります。

もうすでに十分すぎるほどの年収をもらっている人が、同じ仕事内容で報酬が倍額になったとしても、その幸福感はわずか数週間で消えてしまう可能性が高いのです。

富は底辺を抜け出す時には意味を持ちますが、幸福の絶頂に対してはほとんど意味をもちません。

モノ不足の発展途上国の市民に富は有効だが、飽食で肥満に悩む国の国民には富は幸福の主たる要素とはなりえないのです。

富は不幸を遠ざけるが、幸せはカネじゃ買えないってことです。

幸福の鍵は、健康ではないか?

重病人が何よりも求めるものは「ひとなみの健康」でしょう。それは誰にでもよくわかります。

しかし残念ながら、健康も富と似たような傾向を示します。

病状が悪くなる一方だったり激しい痛みをともなったりする場合には、健康は幸福感に直結します。

しかし一般人がオリンピック選手ほど肉体壮健になっても、それで幸福度が増すわけではありません。

アスリートは一般人より必ずしも主観的に幸福な訳ではないということです。

健康は不幸を遠ざけるが、幸せは健康に比例しません。

幸福の鍵は、対人関係ではないか?

アドラー心理学では、幸福も、不幸も、すべては対人関係にあるとしています。

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対人関係こそが幸福感の鍵というアドラーに対して、『サピエンス全史』はどう答えているでしょうか。

たしかにコミュニティに所属する感覚は、幸福度にとって重要です。
太古から人間はコミュニティに所属しなければ生きていけなかったため、友愛に包まれると幸福を感じるという感情を発達させてきました。出世欲などもこの感情の変形だとわたしは思います。

富や健康よりも、家族やコミュニティの充実のほうが幸福感に大きな影響を及ぼすとアンケート調査は示していました。

たしかに対人関係は幸福に影響を与えるでしょう。

しかしそれなら、昔に比べて、人間は不幸になっているかもしれませんね。

現代は国家と個人が直接結びついている時代です。家族やコミュニティは中世の方がずっと濃密なものでした。

昔に比べて富や健康は増してきましたが、家族やコミュニティの崩壊によって、幸福度はマイナスになっているかもしれません。

幸福の鍵が対人関係ならば、コミュニティが濃厚だった昔の人の方が今より幸せだった、ということがありえます。

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幸福は、期待と現状との落差によって決まる

アンケート調査を分析すると、幸福は富、健康、家族、コミュニティへの所属感といった客観的な条件よりも、むしろ主観的な期待と現状との落差によって決まるそうです。

幸福度は主観的な感覚だから、客観的条件が同じでも人によって幸福度は違ってきます。

たとえば貯蓄1億円(富)でも満足できる人と、満足できない人がいるのです。それは、もっとお金が欲しいと望む人と、これで満足だと思う人との差です。つまり主観的な期待と、現状との差が幸福度の鍵になるというのです。

持てるものに満足する方が、欲しいものをより多く手に入れるよりもはるかに重要だということです。

幸せかどうかは期待と現実との差によって決まるからです。

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「文明」「科学」は人類を幸福にしたか?

人類は文明、科学によって幸福になれたのでしょうか?

たしかに文明、科学によって、人類は他の生物と圧倒的な差を得ましたが、だからといって「持てるものに満足しているか」どうかは別問題です。

テクノロジーが各人の幸せや苦しみにどのような影響を与えたのか? というのが『サピエンス全史』の追求テーマのひとつです。

中世の農民も欲しいものは持っていました。生活に満足してかもしれません。人は知らないものは欲しませんから、インターネットなんてなくてもきっと満足して死んでいった人たちはたくさんいます。

逆に消費主義の現代市民はマスコミによって次から次へと物欲を掻き立てられています。つまり幾ら買っても次々と欲しいものが出てくるのです。SNSによって「自分が持っていないモノをあいつが持っている」という格差が目の当たりになります。

全員が平等に何も持っていなかった狩猟採取時代にくらべて、常に満たされない現代人の幸福度が上だと本当に言ってしまっていいのでしょうか? 疑問が残るところです。

ムバラク政権下のエジプト人の物質的な状況はラムセス2世の時代よりも良好でした。しかしそれをアッラーに感謝して踊り狂うどころか怒り狂っていたのです。彼らの比較対象がファラオの時代ではなく同時代のアメリカだったからです。

比較がある限り、悩みは尽きることはありません。

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【世界が美しく見える魔法】脳内モルヒネ・ホルモン幸福論

生物学者は生化学的な仕組みによって幸福感は決まると主張しています。

給与の額や権力のような外部要因によって決まるのではなく、セロトニンやドーパミン、オキシトシンのような生化学物質(快楽物質)の量で幸福は決まるというのです。

実はわたしもこれと同じ主張です。生きている歓びは身体をつかうことにあると感じています。身体をつかうことによって快楽物質が脳内に満たされるというのがわたしの幸福論です。

【肉体宣言】走るために生まれた
生きる歓びとか命の実感というものは自然と湧いて出てくるものではありません。この世界の中で肉体を思う存分に動かしてはじめて感じられるものなのです。

わたしが【世界が美しく見える魔法】というのは、この脳内モルヒネを指したものに他なりません。

体内をめぐる快感。それは血流に乗って全身を駆け巡っているホルモンや脳内の電気信号に起因しています。人間はホルモンバランスなのです。

人間の体内の生化学システムは幸福水準を安定した状態に保つようにプログラムされているそうです。幸福感情にも恒常性(ホメオスタシス)がはたらくのです。ひらたくいうと幸福も、不幸も、やがては慣れて、落ち着くということです。

人間の幸福度を一定水準に調整するシステム。このシステムは酷暑になろうと吹雪が来ようと室温を一定に保つ空調システムになぞられることができます。設定温度はひとりひとり異なります。陽気な設定温度の人は外的要因にかかわらず比較的幸せでいられるのです。陰鬱な設定温度の人はボーナスの日でも気分は沈んだままです。陰鬱な人の脳みそは、そもそも何が起こっても心が浮き立つようにはできていないからです。

どんなことが降りかかろうとつねに比較的楽しそうにしている人もいれば、いつも不機嫌な人もいます。家を買っても結婚しても、その人固有の生化学的特性(設定温度)は変わらないのです。ほんの束の間、生化学的状態を変動させることはできるが、体内のシステムはすぐに元の設定点に戻ってしまうのです。

私たちはあふれんばかりの快楽を一時的に味わえるものの、そうした快楽は永続しません。それらは遅かれ早かれ慣れて感じなくなってしまうのです。

わたしが走り続けるのも、同じ理由からです。世界が美しく見える魔法も、長続きしません。一晩眠れば元に戻ってしまうのです。
幸せな今を走るためには、毎日毎日、自分に魔法をかける必要があるのです。毎日の瞑想ランニングによって、日々、世界は美しいのです。

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結婚したからハッピーなのか、ハッピーなキャラクターだから結婚できたのか? 原因と結果は間違えやすい

データ分析をする際、原因と結果をはき違えないようにと『サピエンス全史』は注意喚起をしています。

たとえば既婚者は離婚者より幸せだというデータがあります。しかしだからといって「結婚をすれば幸せになれる」と結論づけるのは早計です。もともとハッピーな設定温度の人物だから異性に好まれ結婚できたのかもしれません。この人物はきっと離婚しても幸せでしょう。

もともと陰鬱なマイナス思考だからこそ離婚されてしまったのかも知れず、この人物が再婚してもやっぱり幸福は感じないかもしれません。

私たちの心の空調システムは設定された範囲内で推移できるだけで、すぐに設定温度に戻るのです。だとしたら幸福にとって文明の進歩はさほど重要ではありません。

歴史上のほとんどの出来事は、私たちの生科学的特性に何一つ影響してこなかったそうです。テクノロジーは劇的に進化しましたが、脳の構造そのものが進化したわけではありません。むしろ個人単位で見れば、狩猟採取民は現代人よりも賢かったのです。狩猟採取民は食料から生活に必要なもの何もかもを自分でつくって生きのびなければなりませんでした。お金で買えば済むという現代人よりも、個人レベルではテクノクラートだったのです。その証拠にほとんどの現代人は森の恵みの中だけで生きのびることができません。

時代が変わってテクノロジーが進歩しても、脳内ホルモンの量も濃度も昔から変わっていません。つまり人々の幸福は増大していないのです。

周囲と人たちと同程度の暮らしをして、その暮らしに満足していたら、中世フランスの農民と、現代のパリの銀行家の幸福度は変わらないのです。水洗便所があるとか、エアコンがあるとかは個人の幸福度には関係がないのです。

幸せの設定温度が高めの人はフランス革命前も、革命後と同じように幸せだったのです。

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幸福=ホルモン。幸せは身の内より発する

幸せへの鍵がホルモンシステムにあるのなら、政治改革や社会改革など一切起こさずに、人々をこれまでより格段に幸せにすることができます。セロトニンやドーパミン、オキシトシンのような生化学物質の血中濃度を増大させればいいのです。

ケミカルな処方が効きます。注射をすればいいのです。錠剤を飲めばいいのです。

麻薬を注射した時が最高に幸せだというドラッグ中毒者は、実は「もっともだ」ということになります。

酒を飲む、タバコを吸う、大麻を吸う……幸せを手に入れるための鍵はドラッグだといえるでしょうか?

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人生の意味や意義は妄想。しかし集団的妄想は幸福に寄与する

たとえ困難のただなかにあっても本人が有意義な人生だと感じていれば、幸福度が高いアンケート結果を返してくることが多いそうです。

逆に無意味に思える人生は、どれだけ快適な環境に囲まれていても厳しい試練に他なりません。

しかし人類史を俯瞰してきた『サピエンス全史』によれば、人生の意味や意義はいかなる意味でもフィクションです。個人的な妄想に過ぎません。では、どんなフィクションを生きるか? それが人生です。

地球がホモ・サピエンスを選んだのは偶然に過ぎず、神の聖別があったわけではないからです。

聖別がないのならば、人間の命の意味はイヌやネコの命と何も変わりません。それが科学的な結論です。

現代の人々が自分の人生に認める意義はいかなるものもたんなる個人の妄想にすぎません。

とすると、死後に永遠の神の王国があると心から信じていた中世キリスト教信者の方が、幸福だったかもしれません。全員が死後の世界を信じているならば、集団的妄想は幸福度を底上げしてくれることは間違いないからです。

「あなたは自分の人生におおむね満足ですか?」と訊かれたら、中世ヨーロッパの人々はかなり良い成績を収めたかもしれません。

幸福であるには、その時々の集団的妄想に一致した欲をもてばいいってことになります。それならば宗教やコミュニティが健在だった頃の方がずっと幸せだったかもしれません。

近代自由主義が神聖視するのは個人の主観的感情です。しかし感情ってやつは気まぐれでまったく当てにならないものなのです。

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仏教は幸福を追求する哲学

富も地位も権力もシッダルタ王子を幸福にしなかった

『サピエンス全史』ではここまで人類の幸福を研究してきて、とうとう最後に「ブッダの教え」をもってくるのです。

著者のユヴァル・ノア・ハラリはエルサレムのヘブライ大学の教授なので、もともとはユダヤ教徒だと思うが、『サピエンス全史』では神の教えはフィクションの一言で片づけられています。

しかし仏の教えには深い洞察とリスペクトを示しているのです。

筆者によれば、仏教は幸福の本質と根源について体系的に研究してきた教えで、幸福の問題を重要視しているそうです。

脳内モルヒネ・ホルモン幸福論と同じく、仏教では幸せは外の世界の出来事ではなく身体のうちで起こっている過程に起因すると考えます。

ブッダは一国の王子でしたが、地位も権力もシッダルタ王子を幸福にしませんでした。

『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ。白人が見た仏陀。解脱する方法
「生きることはよろこびだ」とどうして言えないんでしょうか。そう言えれば輪廻からの解脱は果たしたも同然じゃありませんか。 よろこびを抱えたまま、よろこびを追いかける。それが生きることではないかとわたしは思います。それはもう悟り、解脱と同じことではないでしょうか。

しかし共通の認識を出発点としながらも、仏教はまったく異なる結論に行き着きます。

快感を求めて、苦痛を避ける。そのあたりまえがブッダの「悟り」ではない。

たいていの人は快い感情を幸福、不快な感情を苦痛と考えます。その結果、自分の感情に非常な重要性を認めることになります。ますます多くの喜びを経験することを渇愛し、苦痛を避けるようになるのです。

生涯のうちに、どんな決断をして何をしようと、私たちはただ心地よい感情を得ようとしているに過ぎない。

そういうこともできるでしょう。

だが仏教によれば、そこには問題があるそうです。

私たちの感情は波のように刻一刻と変化するつかのまの心の揺らぎにすぎません。五分前に喜びや人生の意義を感じていても、今は消え去り意気消沈しているかもしれないのです。

快さを求めたら、たえずそれを追わねばならず、仮にそれが成功したとしても、ただちに消え去り、はじめからやり直さなければならず、自分の苦労に対する永続的な報いは決して得られないからです。

現れたが早いか消えてなくなるものを達成するために、なぜそれほど苦労するのですか?

快感を求めて、苦痛を避ける。そのあたりまえの生き方がブッダの「悟り」ではありませんでした。

苦しみの根源は、苦痛でも悲しみでも無意味さでさえもないのです。

苦しみの真の根源は、つかのまの感情をこのように果てしなく空しく求め続けることなのです。

感情を追い求めれば私たちは常に緊張し、混乱し、不満を抱くことになりますこの追求のせいで、心はけっして満たされることはありません。

喜びを経験しているときにさえ、この感情がすぐに消えてしまうことを恐れ、この感情が持続し、強まることを渇望します。ありもしない未来によって、今が掻き乱されてしまうのです。今を生きられないのです。

人間ははかない感情を経験したときではなく、自分の感情はすべてつかのまのものであることを理解し、そうした感情を渇愛することをやめたときに、はじめて苦しみから解放される。それがブッダの悟りであり、瞑想修行の目的です。

瞑想のやり方

マインドフルネス瞑想では、まずは自分の身体の状態を全力で注視します。呼吸の状態をモニタリングするのです。すべての注意を「今」に向けることで、過去や未来に「今」が掻き乱されることを止めていきます。

瞑想するときは自分の心身を念入りに観察し、自分の感情がたえまなく沸き起こっては消えていくのを目の当たりにし、そうした感情を追い求めるのがいかに無意味かを悟るようにします。

特定の感情を渇愛するのをやめさえすれば、どんな感情もあるがままに受け入れられるようになります。

ああだったかもしれないなどという過去の追想をやめて、今この瞬間を生きることができるようになるのです。

そうして得られた安らぎはとても深いものです。

苦しみの真の根源は、つかのまの感情を果てしなく空しく求め続けることだからです。

喜びの感情を果てしなく追求するのは、何十年も浜辺に立ち、良い波を壊さないようにし、悪い波を近づけまいとするのに等しい。人は浜辺で狂ったようにこの不毛な行いを繰り返しています。だがついに砂の上に腰を下ろし、波が好きなように寄せては返すのにまかせるとき、なんと静穏なことでしょうか。

幸福が外部の条件とは無関係であるという点についてはブッダも脳内モルヒネ・ホルモン幸福論と同じ意見でした。ブッダの洞察力でより重要で遙かに深淵なのは、真の幸福とは私たちの内なる感情とも無関係であるというものです。事実、自分の感情に重きを置くほど、私たちはその感情を渇愛するようになり、苦しみも増していくのです。

ブッダが教え諭したのは外なる成果の追求のみならず、内なる感情の追求もやめることでした。

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わたしの結論。日々の瞑想ランニング。走ることが生きること

わたしは「走るため生まれた」をモットーにしています。そして日々、瞑想ランニングを実践しています。

禅ランニング・瞑想ランニングのやり方
瞑想ランニングのやり方を書いていたら、はからずも「幸福とは何か?」を追求することになってしまいました。幸福を追求しなければ生まれた甲斐がありません。瞑想ランニングは幸福追求のためにするものです。

人生最高の快楽のひとつであるランナーズハイも長続きしません。「エブリデイ・クリスマス」に日々これを味わうためには、日々瞑想ランニングを繰り返す必要があるのです。

瞑想ランニングでは、まずは自分の身体の状態を全力で注視して、呼吸の状態をモニタリングします。どこの筋肉に力が入っているか? 全身の骨格をスキャンします。筋肉ではなく骨が体を支えていることを感じましょう。

ときにはピッチのリズムを数えてもいいでしょう。ピッチは生命のリズム感です。呼吸に注目し、肺の奥の奥まで大きく空気を吸い込みます。どこの筋肉がリラックスできているかも意識しましょう。

身体に吹き付ける雨や風を感じます。熱くなっていく体温、流れる汗を実感します。全神経を肉体に集中して、今を走ります。仕事のことも、人間関係のことも、過去も、未来も、考えません。無心になって、脳内モルヒネの快楽に満たされた状態を楽しみ、今を生きるのです。

それがわたしの結論です。わたしはこの人生に「身体をつかうこと」以上のものを見つけることができませんでした。

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※雑誌『ランナーズ』の元ライターである本ブログの筆者の書籍『市民ランナーという走り方』(サブスリー・グランドスラム養成講座)。Amazon電子書籍版、ペーパーバック版(紙書籍)発売中。

「コーチのひとことで私のランニングは劇的に進化しました」エリートランナーがこう言っているのを聞くことがあります。市民ランナーはこのような奇跡を体験することはできないのでしょうか?
いいえ。できます。そのために書かれた本が本書『市民ランナーという走り方』。ランニングフォームをつくるための脳内イメージワードによって速く走れるようになるという新メソッドを本書では提唱しています。「言葉の力によって速くなる」という本書の新理論によって、あなたのランニングを進化させ、現状を打破し、自己ベスト更新、そして市民ランナーの三冠・グランドスラム(マラソン・サブスリー。100km・サブテン。富士登山競争のサミッター)を達成するのをサポートします。
●言葉の力で速くなる「動的バランス走法」「ヘルメスの靴」「アトムのジェット走法」って何?
●絶対にやってはいけない「スクワット走法」とはどんなフォーム?
●ピッチ走法よりもストライド走法! ハサミは両方に開かれる走法。
●スピードで遊ぶ。スピードを楽しむ。オオカミランニングのすすめ。
マラソンの極意「複数のフォームを使い回せ」とは?
究極の走り方「あなたの走り方は、あなたの肉体に聞け」
本書を読めば、言葉のもつイメージ喚起力で、フォームが効率化・最適化されて、同じトレーニング量でも速く走ることができるようになります。
※カルペ・ディエム。この本は「ハウツーランニング」の体裁をした市民ランナーという生き方に関する本です。あなたはどうして走るのですか? あなたよりも速く走る人はいくらでもいるというのに。市民ランナーがなぜ走るのか、本書では一つの答えを提示しています。

Bitly

星月夜を舞台に、宇宙を翔けるように、街灯に輝く夜の街を駆け抜けましょう。あなたが走れば、夜の街はイルミネーションを灯したように輝くのです。そして生きるよろこびに満ち溢れたあなたの走りを見て、自分もそんな風に生きたいと、あなたから勇気をもらって、どこかの誰かがあなたの足跡を追いかけて走り出すのです。歓喜を魔法のようにまき散らしながら、この世界を走りましょう。それが市民ランナーという走り方です。

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※禅ランニング、瞑想ランニングのやり方について解説している本です。

「この世ならぬ希望」を仏陀は語っていません。案外、仏陀も同じような境地だったのかもしれないと思ったりするのです。

※このコラムで「幸福とは何か?」を追求するのに参考にした『サピエンス全史』は、全人類必読書です。
未読の方は、ぜひ一度お読みください。

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このブログの著者が執筆した純文学小説です。

「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」

「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」

本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。

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物語のあらすじを述べることについての私の考えはこちらをご覧ください。

物語のあらすじを紹介することについて
あらすじを読んで面白そうと思ったら、実際に照会している作品を手に取って読んでみてください。ガイドブックを読むだけでなく、実際の、本当の旅をしてください。そのためのイントロダクション・ガイダンスが、私の書評にできたらいいな、と思っています。

私は反あらすじ派です。作品のあらすじ、主題はあんがい単純なものです。要約すればたった数行で作者の言いたかった趣旨は尽きてしまいます。世の中にはたくさんの物語がありますが、主役のキャラクター、ストーリーは違っても、要約した趣旨は同じようなものだったりします。

たいていの物語は、主人公が何かを追いかけるか、何かから逃げる話しですよね? 生まれ、よろこび、苦しみ、死んでいく話のはずです。あらすじは短くすればするほど、どの物語も同じものになってしまいます。だったら何のためにたくさんの物語があるのでしょうか。

あらすじや要約した主題からは何も生まれません。観念的な言葉で語らず、血の通った物語にしたことで、作品は生命を得て、主題以上のものになるのです。

作品のあらすじを知って、それで読んだ気にならないでください。作品の命はそこにはないのです。

人間描写のおもしろさ、つまり小説力があれば、どんなあらすじだって面白く書けるし、それがなければ、どんなあらすじだってつまらない作品にしかなりません。

しかしあらすじ(全体地図)を知った上で、自分がどのあたりにいるのか(現在位置)を確認しつつ読書することを私はオススメしています。

作品のあらすじや主題の紹介は、そのように活用してください。

偉そうに? どうして無名の一般市民が世界史に残る文豪・偉人を上から目線で批評・批判できるのか?
認識とか、発想とかで、人生はそう変わりません。だから相手が世界的文豪でも、しょせんは年下の小僧の書いた認識に対して、おまえはわかってないなあ、と言えてしまうのです。それが年上だということです。涅槃(死。悟りの境地)に近いということなのです。
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