ドラクエ的な人生

村上龍『イン ザ・ミソスープ』痛さによって目覚める。社会に染まることから、自分を取り戻す

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村上龍『イン ザ・ミソスープ』の書評。あらすじと感想

ここでは村上龍『イン ザ・ミソスープ』の書評をしています。

黄色は本文より、赤字は私の感想です。

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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。

「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」

「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」

※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。

アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。

Bitly

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作家という名のシャーマン。小説の中によくわからないものとして描く、霊媒師のような天才作家だった村上龍

私は村上龍は『限りなく透明に近いブルー』『コインロッカーベイビーズ』あたりまでは天才作家だったと思っています。最近の作品は読む気もしませんが。

限りなく透明に近いブルー』の頃はまるで作家という名のシャーマンのようでした。

男性脳らしく結論を理屈で簡潔に述べるのではなく、小説の中によくわからないものとして描く、霊媒師のような作家でした。

『限りなく透明に近いブルー』に登場する≪黒い鳥≫は、個人を覆いつくそうとする社会の翼の影であり、またアメリカにレイプされる日本の象徴というふうに解釈されています。主人公のリュウは黒人男女にむちゃくちゃにされています。

ところが今回はその逆です。日本社会に来たアメリカ人を描いています。日本社会の中にいることを『(味噌汁の中)イン ザ・ミソスープ』と表現しているのです。

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日本社会の中にいることを『(味噌汁の中)イン ザ・ミソスープ』と表現している

いやなにおいのするホームレスに思わずほおずりして、赤ん坊を思わず殺したくなる人はいないのかな?

フランクには悪意の極致みたいなものを感じる。

このフランクというのが、なかなか正体をあらわさない殺人嗜好者です。

自分一人で処理できない不幸なことをまったく経験しないまま大人になる人間は非常にすくない。

悪意は寂しさや哀しさや怒りといったネガティブな感情から生まれる。何か大切なものを奪われたというからだをナイフで本当に削り取られるような自分の中にできた空洞から悪意は生まれる。

いわゆる防衛機制ですね。

プライマル・スクリーム(原初からの叫び)

どうして誰もがこれほど嘘つきなのだろうと思った。誰もが嘘をつかなくては生きていけないように思える。

大人たちはすでに価値の定まったもの、つまりブランド品のようなもののためだけに生きている。欲しいものは金しかないのだと生き方で示している。

キャラもろ被りといえば七福神。いちばんお金持ちなのは誰だ?

お金持ちになりたかったら学べ前澤友作ZOZOTOWN興隆物語

もうお金持ちになるのはあきらめた。

お金持ちの世界を一瞬で手に入れる方法

生き方を見るとやつらが他に何にも探していないのがすぐにばれる。

ドラマ『ROOKIES』とアドラー心理学『幸せになる勇気』は完全に一致(併記してみた)

この国の子どもたちは三百六十五日、一日中、猫と電流のような思いを味わっている。

こういう生き方は絶対にしたくない、と見ていて思うようなじじいに限って偉そうなことをいう。おまえの言うとおりに生きたらきっとお前みたいな大人になってしまう。

ザ・ダルマ・バムズ(禅ヒッピー)。生きる意味をもとめてさまよう

ぼくは今ミソスープのど真ん中にいる。今のぼくは味噌ソープのなかの小さな野菜の切れ端と同じだ。巨大なミソスープの中に、今ぼくは混じっている。だから、満足だ。

ここでの「ぼく」というのは、アメリカ人フランクです。フランクは殺人者です。日本人的な感覚では理解できない無気味さ、舶来の感覚を持ち合わせた恐怖の対象です。

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痛さによって目覚める。社会に染まることから、自分を取り戻す

あとがきで村上龍はこういいます。

個人の精神は言葉にならない悲鳴を上げている。その悲鳴を翻訳することが文学の使命。言葉を失って喘いでいる人々の叫びと囁きを翻訳するのが文学である。

そのとおり。『限りなく透明に近いブルー』に登場する≪黒い鳥≫は、個人を覆いつくそうとする社会の影響でした。その黒い影に覆われるということは、自分らしさを殺すことであり、他人時間を生きることでした。だから「おれはおれのことがわからなくなる」のです。

時間こそ唯一の資産。好きな仕事は自分時間だけれど、やらされている仕事、嫌な仕事は他人時間

文末で、村上龍は共同体の崩壊を嘆いていますが、私は昔の共同体なんてまっぴらごめんです。会社のみんなで宴会して、会社のみんなで職場旅行するような共同体なんか解体されたほうがいいと思います。

『限りなく透明に近いブルー』でも主人公は、本当の自分でありたいとして、自分の価値は自分で決めようとします。自分の腕にガラスの破片を突き刺して痛さによって目覚めようとします。世の中に染まることから、自分を取り戻そうとするのです。日本的共同体なんかクソくらえ、という主人公だったはずです。

そういう作家だったのに、共同体とか、経済とかに目を向けたあたりから、作品がおもしろくなくなりました。村上龍自身がエスタブリッシュメントに仲間入りしてしまったから、ということもあります。作品のテーマはひとつしかなくて、あの手この手で、同じことばかり書いちゃって、書きつくしたうえで、次のテーマに進んでいったのかもしれませんけれど。

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このブログの著者が執筆した純文学小説です。

「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」

「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」

本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。

Bitly

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物語のあらすじを述べることについての私の考えはこちらをご覧ください。

物語のあらすじを紹介することについて
あらすじを読んで面白そうと思ったら、実際に照会している作品を手に取って読んでみてください。ガイドブックを読むだけでなく、実際の、本当の旅をしてください。そのためのイントロダクション・ガイダンスが、私の書評にできたらいいな、と思っています。

私は反あらすじ派です。作品のあらすじ、主題はあんがい単純なものです。要約すればたった数行で作者の言いたかった趣旨は尽きてしまいます。世の中にはたくさんの物語がありますが、主役のキャラクター、ストーリーは違っても、要約した趣旨は同じようなものだったりします。

たいていの物語は、主人公が何かを追いかけるか、何かから逃げる話しですよね? 生まれ、よろこび、苦しみ、死んでいく話のはずです。あらすじは短くすればするほど、どの物語も同じものになってしまいます。だったら何のためにたくさんの物語があるのでしょうか。

あらすじや要約した主題からは何も生まれません。観念的な言葉で語らず、血の通った物語にしたことで、作品は生命を得て、主題以上のものになるのです。

作品のあらすじを知って、それで読んだ気にならないでください。作品の命はそこにはないのです。

人間描写のおもしろさ、つまり小説力があれば、どんなあらすじだって面白く書けるし、それがなければ、どんなあらすじだってつまらない作品にしかなりません。

しかしあらすじ(全体地図)を知った上で、自分がどのあたりにいるのか(現在位置)を確認しつつ読書することを私はオススメしています。

作品のあらすじや主題の紹介は、そのように活用してください。

偉そうに? どうして無名の一般市民が世界史に残る文豪・偉人を上から目線で批評・批判できるのか?
認識とか、発想とかで、人生はそう変わりません。だから相手が世界的文豪でも、しょせんは年下の小僧の書いた認識に対して、おまえはわかってないなあ、と言えてしまうのです。それが年上だということです。涅槃(死。悟りの境地)に近いということなのです。
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