初対面から結婚式。『マッチングの神様 ~結婚実験リアリティ~』(MARRIED AT FIRST SIGHT)の感想、おすすめ度
『マッチングの神様 ~結婚実験リアリティ~』(MARRIED AT FIRST SIGHT)という番組が大好きで、夫婦でよく視聴しています。日本で見られるシーズンはすべて見ています。この番組は、オーストラリアの恋愛ドキュメンタリー番組です。ジョン・エイケンをはじめとする恋愛エキスパートが選んだ「ベストカップルと思われる男女」に疑似結婚生活をさせて、約2か月の結婚実験後も、リアルな世界で本当につきあい続けるかを選択させるというものです。
この番組から、本当に結婚して、子供をつくって、今でも夫婦生活を続けているカップルもいるそうなので、あながち「やらせ」ばかりではないと思います。しかし基本的にはスクリプトを描いている人がいるんじゃないでしょうかね。
「まじかよ」
「なんで知った?」
「そんなことある?」
「いつ撮った?」
「こんな人いる?」
「バレるなんてへんじゃない?」
といったツッコミのオンパレードなのは確か。
とくに実生活でもつきあっていくことを決める最終セレモニーの告白で、どちらが先に告白するかは非常に重要です。先に「おねがいします」で、後から「ごめんなさい」でないと盛り上がりません。先に「ごめんなさい」だと、話しがそこで終わってしまいます。本作では男から先とか、レディーファーストとか、告白順序は決まっていないはずなのに、そこらへんの視聴者目線が完璧です。盛り上がるように順番を決めているとしか思えません。すくなくとも構成作家がふたりの結末の手紙内容を先に読んでいるだろうと予想しています。
この番組は、視聴者のツッコミをもらうために存在しているといってもいいでしょう。逆にいえば、ツッコむのが、視聴のだいご味です。
恋愛に未熟な若者を、自分たちの若い頃を思い出しながら、余裕をもって眺めるのが楽しい
この番組はアマプラやhuluなどで見られるので、ぜひ視聴してみてください。とくに私たちのように、もう恋愛を卒業した安定した夫婦が見るぶんには最高の娯楽となります。
私から見れば年下の恋に未熟なオーストラリア人たちが、純情をぶつけたり、みえみえの手練手管をつかったり、嫉妬したり、周囲に策略を仕掛けたり、もめて喧嘩したりするのが、見ていて面白いのです。歯がゆかったりもしますが。
とくに女性出演者の多くは本気で結婚して家庭を持つことが夢なのでしょう。もうすでにその場所にいる私たち夫婦は余裕をもって番組を楽しむこと(批評?)ができるのです。
ああ自分たちは、こういうドロドロの不安定な世界を卒業できてほんとうに良かった。昔は、おれたちも、こんなことあったよなあ。
そんな勝者の余裕スタンスで視聴しています。だから楽しいのです。
日本人じゃなくて、白人だから、オーストラリア人だからおもしろい
この番組ですが『バチェラー』のように日本版をやっても、ここまで面白くはならないだろうと思います。日本人だったら、どぎつすぎて、嫌悪感がわいて、たぶん見ていられなくて途中で消してしまうだろうと思います。日本人じゃなくて、白人だから、オーストラリア人だからおもしろいのです。
鼻ピアスとか、全身タトゥーなどの、同じ人間だけど、自分とは明らかに違う人たちだから、かろうじてエンタメとして見られるといったスレスレのドギツサがあります。
オーストラリア人でも、こんなに恋愛に奥手な人がいるんだなあ、とか。白人でも、こんなに周囲から露骨に嫌われて、無視とかあるんだ、とか。自分でひどい性格していることがわからないのかしら、とか。日本人だったらここまでしないよなあ、というようなことを彼らは平気でしちゃいます。すべてのシーズンに必ず高慢女とヤリチンが登場します。視聴者が期待するキャスティングをちゃんとしているというわけです。疑似夫婦ですから同居もしてセックスもします。セックスに対してもたいへんオープンです。そこはオーストラリアですからね。
高慢女とヤリチンはたいてい最後には振られます。そこは水戸黄門的な勧善懲悪の予定調和といってもよく、浮気者はフラれ、視聴者はすっきりするような番組構成となっています。やっぱり恋愛ドキュメンタリーなんて大ウソかもしれません。現実はモテる人は何をしたってモテるし、モテない人は誠実だろうが純情だろうがモテないというのが真実でしょうからね。
まあ、この番組が、やらせであるとか、シナリオがあるとかいう批判は、この際、すみのほうに置いておきましょう。正直、おもしろければどっちでもいいじゃないですか。映画だって「シナリオがあるやらせ」なんですから。映画の銃撃シーンなんてオモチャの銃で撃ってるフリしているだけですよ。そこらへんのガキとやってることは同じです。大切なのはエンタメとして面白いかどうかだけだと思います。そういう意味で『マッチングの神様 ~結婚実験リアリティ~』(MARRIED AT FIRST SIGHT)は、ものすごく面白いですよ。

こいつと結ばれちゃダメ! それに気づいて!

STAYじゃねえ。LEAVE だ。LEAVE!!

騙されてるぞ! 相手が見えてねえ!
なんて夫婦でツッコミを入れるのが最高にたのしいです。

なんでこんなマッチングにした? 悪いのはエイケンだろ! なにが恋愛エキスパートだ。お前の責任だ!
オーストラリアでも大人気の番組なので、出演者はものすごい倍率のオーディション的な審査を勝ち上がってきた人たちですから、基本的にイケメン、ゴージャスな美女ばかりです。しかし逆にいえば、この美女に言いよる男がいないなんておかしい、という疑問や、このイケメンに女がいないなんてありえない、テレビに出てフォロワー増やしたいだけだろ、など無限にツッコミのネタとなるのでした。男女ともに、人気のテレビ番組に出て爪痕残して有名になりたい、というだけのモチベーションの人も必ず登場します。そういう人たちは、恋愛を成就させようという気がそもそもなくて、すでに恋人がいたり、ほかのカップルに手を出して破局させたり、番組を去るべきなのにテレビに出演し続けたいために去らなかったりして、波乱万丈を巻き起こすのでした。

恋愛に本気でない出演者を見抜けなかったのもエイケンの責任だと思うけどね。
異性にフラれた時の、オーストラリア人のメンタルの日本人との違い
このようにとてもおもしろい『マッチングの神様 ~結婚実験リアリティ~』(MARRIED AT FIRST SIGHT)ですが、私がなんでこのコラムを書こうと思ったかというと、番組の面白さを紹介したかったからではありません。そうではなくて、オーストラリア人のメンタリティーって日本人とは違うなあ、とつづくづ番組を見ていて思ったからでした。
それは本気で人生のパートナーを見つけたい、本気系の女性出演者が、残念ながら恋愛が破局するとき(振られた時)の、彼女たちの態度に現れます。彼女たちは失恋に泣きながらも、決然とこんなことを言うのです。多くの本気系女性がこういうことを言います。ひとりやふたりではなく、たくさんの女性が同じことを言いました。
「私は思いやりがあって、明るくて、愛されるに値する人間よ。そんな私にこんな失礼な態度をとることは許されない。あの人に思い知らせてやるわ」
ものすごい自己肯定感です。これほど自己肯定する人は日本人では珍しいと思います。
異性に振られたときに、日本人だったら、自分に魅力がなかったとか、相手の望むレベルに自分が達しなかったとか、基本的に自分を責めると思うんですよね。私だったらそうなります。自分は愛されるに値しなかった、欠点があるとガッカリするのが失恋ではないでしょうか。
自分以外のところに理由を求めた場合でも、前世から縁がなかったとか、仏教的なところに原因を求めるのがギリギリのところではないでしょうか。
「私は愛されるのに値する人間なのに、あの人の態度は失礼すぎる、許せない」
と、失恋した時に、自分ではなく相手に原因を求めるというのは、私にはものすごく新鮮なメンタリティーでした。中島みゆきとかの失恋ソングとか聞きながら落ち込む日本人女性とはまるっきり違うメンタリティーですよね。
異性に振られている時に、他人から嫌われている時に、「私は愛されるべき価値のある人間よ」こんな風に思えるのがすごいなあと思います。日本人のメンタルとはぜんぜん違うなあ、と感じたのでした。本稿でいちばん書きたかったのは、このことです。
「島国根性」のウソ。いじめ、無視、排除、ひそひそ話しは、世界共通
このようにオーストラリア人と日本人は違うなあ、というところがある反面、みんな同じような心の動きをするんだなあ、と思うところもたくさんあります。
よく日本は単一民族の島国で「島国根性」みたいな自己批判を聞くことがあります。江戸時代の鎖国による異文化の排除、五人組による監視社会や、上様へのご注進。均一同質社会をすすめてきた結果、異質なものをいじめや無視で排除する風潮。うわさ話など、島国根性の陰湿さみたいに自己批判するのを聞いたことがあります。
しかし『マッチングの神様 ~結婚実験リアリティ~』(MARRIED AT FIRST SIGHT)を見ているかぎり、そんな批判は当たっていないと思います。島国根性といわれるそれと同じものが、移民国家の大陸、オーストラリアでも見られるからです。白人でも未熟な人は未熟だし、好かれる人も嫌われる人もいて、いじめっぽいこともあります。他人に嫌われても、どうして嫌われるのか、理解できない人もいます。
同じ人間だなあ、とつくづく思うのです。日本で起こっていることは、島国根性だから起こっているのではありません。
真実の愛って何? ダックに見えたらそれはダックだ。愛に見えたらそれは愛だ
この番組はオーストラリアの若者が自分のソウルメイト(真実の愛)を探すという作品です。なかなかそういうものを見つけられる人はまれにしかいません。だからみんな必死になって探すんでしょう。
その中で、シーズン5の登場人物で、ヒューグラント似のオリーという若い男が、こんなことを言っていました。
「僕らの関係が本物かどうか。こんな言葉がある。アヒルのように歩いて、アヒルのように鳴くなら、それはアヒルだ」

えっ? どういうこと? ハルトはなんで感動してるの?

わからない? アヒルは愛のたとえだよ。アヒルに見えるならそれはアヒルであるように、愛のように見えるならそれは愛なんだ。愛のように寛容で、愛のように優しかったら、それは愛だ。
まさか、オーストラリアの25歳ぐらいのナレーターに感動させられるとは思いませんでした。真実の愛とは何か? それがどういうものか、私たちは知りません。でもそれが愛のようにふるまって、愛のように見えたなら、それは愛ってことでいいんじゃないかと私も思います。
だって虐待にしか見えないものを「君にはわからないかもしれないけれど、これも愛だ」とかって言われて納得できます? 梶原一騎の劇画に出てきそうな、千尋の谷に我が子を突き落とす親ライオンのような愛情を向けられて、これが真実のあいだと納得する女性なんてひとりもいないんじゃないでしょうか?
本当のことがわからなくても、それが愛のようにふるまい、愛のようにたたずむのならば、それは愛なのだと私も思います。
最高の復讐は、自分の高らかな笑い声を聞かせてやること
私は世界を旅してきたバックパッカーです。これまで世界中の路上で私が見てきた経験から言うと、人生を楽しんでいて遊び上手なのはいつも白人でした。だから白人を上に見るような気持ちがどこかにありました。しかし『マッチングの神様 ~結婚実験リアリティ~』(MARRIED AT FIRST SIGHT)は、そういったものも微塵に打ち砕いてくれます。
【白人はすごい】バックパッカーの安宿ルートを開拓したのは白人さんたち
岡目八目で余裕をもって眺めれば、破局するカップルもおもしろく、むすばれるカップルもおもしろく視聴できますよ。
フラれたり、ひとに嫌われたりしたら、日本人の私たちは「自分が悪い」と考えがちですが、「私は愛されるに値する人間だ。このような扱いをうけるいわれはない」と考えるオーストラリア人のスタンスからは学ぶべきものがあります。問題はこちら側ではなく、向こう側にあるという態度です。
「私を嫌うなんて、こちらに問題があるならまだしも、私は人を思いやる心があって、明るくて元気で、愛されるに値する人間なのだから、こんな扱いをするなんて相手側がおかしい。それをはっきりさせる」
そう言って告白セレモニーに出向く真剣系のオーストラリア女性たち。自分の信じている自分の価値を証明するために、自分を振ろうとしている相手の男を逆に振ってみせるのです。
しかしそれがどこか痛々しい強がりに見えます。そうすることで結局、恋は壊れ、ひとりぼっちというはじめからの場所に戻ってしまうわけですから。
「実験で学んだわ」と満足げに彼女らは言いますが、何かを学ぶために番組に参加したのではありません。愛をつかむために参加したのです。
こんな時には、もっとすてきな相手と幸せになって、相手に自分の人生を見せつけてやるしか思い知らせてやる手はありません。しあわせなこっちの笑い声を聞かせてやるしかないでしょう。日本人でも、オーストラリア人でも、それが最高の復讐です。高らかに笑い声を聞かせてやること。フラれた時にはそれ以外にはありません。若きオーストラリアの彼女ら、彼らを眺めていて、そんなことを感じたのでした。
ボン・ボヤージュ