むかしばなしには、社会のルールを教える教育的な効果がある
文学批評をやっています。主に近代以降の西欧文学を中心に、自分が死ぬまでに一度は読みたいと思っていた本を優先的に読んで感想文を公開しています。
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『ギルガメッシュ叙事詩』にも描かれなかった、人類最古の問いに対する本当の答え
(本文より)「エンキドゥが死ぬなら、自分もいずれ死ぬのだ」
ギルガメッシュは「死を超えた永遠の命」を探し求めて旅立ちますが、結局、それを見つけることはできませんでした。
「人間は死ぬように作られている」
そんなあたりまえのことを悟って、ギルガメッシュは帰ってくるのです。
しかし私の読書の旅で見つけた答えは、ギルガメッシュとはすこし違うものでした。
なぜ人は死ななければならないのか?
その答えは、個よりも種を優先させるように遺伝子にプログラムされている、というものでした。
子供のために犠牲になる母親の愛のようなものが、なぜ人(私)は死ななければならないのかの答えでした。
エウレーカ! とうとう見つけた。そんな気がしました。わたしはずっと答えが知りたかったのです。
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わたしも昔は大長編の西洋文学なんて読めませんでした。こどもの頃からそういうのを読破していたという人がときどきいますが、わたしには無理でした。せいぜい江戸川乱歩どまりでした。
わたしがこどもの頃は、多くの人たちと同じように「日本昔話」を絵物語で読んでいた記憶があります。昔話のようなものは、ただ面白いだけじゃなくて、ある程度、社会のルールを教える教育効果を期待して語り継がれてきたところがあります。
たとえば「笠地蔵」では「信仰心は大事だよ」という意図が見えます。神社や仏閣の関係者は、この笠地蔵が子供たちに語り継がれることをよろこんだことでしょう。
たとえば「鶴の恩返し」では「なさけは人のためならず」とか「人を信じろ、疑うな」といった箴言が読み取れるわけです。そういうことを子供たちに物語のかたちで伝えて、民族の古典は社会共同体の維持に大きな役割を果たしてきたわけです。お話しというものは、焚火を囲んで長老の話しを聞くというのが原形でしょう。そこから吟遊詩人が生まれて、紙というメディアが登場したことで、昔話というものがうまれ、後世に語り継がれました。
自助努力で成功したり、階級を乗り越える系の物語がすくない理由
そういった背景をもつ昔話ですが、昔は階級社会でしたから、階級の壁だけはどうしても乗り越えがたかったらしく、自分の努力で出世したり、成功したりする物語というのをあまり聞いたことがありません。とくに西洋の昔話は、結婚がハッピーエンドの鍵になっている作品が多いと感じます。
シンデレラがハッピーになれたのは、彼女がけなげな性格だったからではなく、美しさを見初められて王子様と結婚できたからでした。
眠れる森の美女はもともと階級上位のお姫様だったみたいですが、やはり王子様と結婚することでハッピーエンドが担保されています。
桃太郎は鬼の財宝を奪ってお金持ちになりますが、投資したり、企業したりするわけではありません。富は一時的なものであり、奪ったものを消費しきったら元の木阿弥です。奪って一時的に豊かになるだけという構造は大江山の鬼と同じです。桃太郎が真に義の人ならば、鬼から奪った財宝は自分のものにするのではなく、元の持ち主に返すべきではないでしょうか?
典型的なのは一寸法師です。一寸法師は鬼退治というとてつもないことを成し遂げるのですが、結局のところ彼がしあわせになったのは、お屋敷のお姫様のお婿さんになったからです。結婚によって階級社会を乗り越えたんですね。自分の力でサクセスしていったわけではありません。鬼退治なんて大きなことをしなくても、イケメンだったらどうにかなったのではないでしょうか?
あるいは、階級の壁を自分の力で乗り越えていくタイプの自助努力の物語は、そういうことがまかりとおっては、下剋上となり、社会の混乱を招くことから、社会秩序をまもるという意味で、踏みにじられて消されてしまって、あったけれど、今はもう残っていないのかもしれませんね。

