ドラクエ的な人生

『ローマ法王の休日』キリスト教の精神とは何か

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映画『ローマ法王の休日』は想像と全然違う映画だった

意外でした。作品タイトルから中身を想像するものですが『ローマ法王の休日』と聞いて何を想像するでしょうか?

もちろん日本人の大好きな例のあの作品ですね。オードリー・ヘップバーンの名を不滅のものにした名作『ローマの休日』です。

あきらかに『ローマ法王の休日』は『ローマの休日』をモジって命名されていると思いますよね。

『ローマの休日』の主人公は王女でした。若い王女が身分を隠してローマの街を冒険し、恋におちてラストシーンで「どの街が心に残ったか?」と聞かれたら「どの街にも特色がありそれぞれに素晴らしく甲乙つけがたい」と八方美人的な用意された答えを言おうとしたところ、つい本心が出てしまい「ローマです」と答えてしまう映画でした。王女が恋する人間らしさを見せてしまうところが世界中の映画ファンを感動させたのです。

すると『ローマ法王の休日』はこんな想像ができるんじゃないでしょうか。たぶん主人公は年老いたローマ法王で、身分を隠してローマの街をさまよって、さすがに恋はしないだろうけど、やんちゃでぶっきらぼうな市井の人々の庶民的なトラブルに巻き込まれて、教皇の権力が通用しないかわりに持ち前の人間力で問題を解決して人々を幸せにするようなハッピーコメディー映画だろう、と。

ところが『ローマ法王の休日』は全然そういう映画ではありませんでした。びっくりするほど意外な映画だったのです。

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根競べ(コンクラーベ)から失踪。たぶん『遠山の金さん』的な『ローマ法王の休日』

根競べという日本語がピッタリくるので一度聞いたら忘れないバチカン市国の教皇選挙コンクラーベから物語ははじまります。新しい教皇に選ばれた主人公は「重圧に耐えかねる」とローマの市外へ失踪してしまうのです。

失踪して身分の知られていない老人が、さまざまな街の風景に出会うところは想像どおりでしたが、とくに笑えるシーンはありません。これがドリフのコントだったら「何言ってんだよ、クソじじい」と禿げ頭をぶったたかれそうなものですが、そういう笑える要素はまるでなく新教皇はただ途方に暮れているばかりです。

でもきっとラストシーンはハッピーエンドなはずですよね? だって映画だもの。

庶民らしさ、人間くささを「ただの老人」として「休日」に見つめて、最後には新教皇としての役割に立ち向かうのだろうと誰もが想像するはずです。「見て、あの時のおじいちゃんだよ」と街角で出会った子供が新教皇を指さす。それに笑顔で笑いかける遠山の金さんじゃなかったローマ法王、そんなエンディングを想像していました。それが見事に裏切られます。

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唖然。衝撃のラストシーン

バチカンの枢機卿たちに連れ戻された新法王はラストシーンで、教皇選出後の最初の挨拶を高いところから人々に語り掛けます。

「教会が求めている指導者とは、全人類をこよなく愛し、理解する能力を有するもの」

ところが自分はただの人間です。役者志望のただの信者だったのです。それがどういう運命のいたずらか「現世における神の代理人(=法王)」に選ばれました。

「私は自分の行いについて、主に許しを乞います。許されるかどうかはわかりませんが」

主に許しを乞うというのは重要なキーワードです。キリスト教というのは「神に許しを乞う宗教」だと言っても過言ではありません。神は全能で、人間はちっぽけ。その差はあまりにも大きすぎて、埋まるはずがない。ちっぽけな人間は神の慈悲によってしか生きられない。圧倒的な神には疑問をさしはさむ余地などなく、ただ信仰するしかない。それがキリスト教です。

「残念ながら自分に与えられた役目を果たす力が、私のうちにはないとわかったのです」

たかが100年で朽ち果てる塵芥のような人間に、どうして神の代理人などがつとまるだろうか。真剣に信仰するほど、誠実にキリスト教に向き合うほど、導き出される答えは一つです。

「私は導く側ではなく、導きを必要とする大勢の中の一人なのです」

人間は所詮は人間。神ではない。法王になるほどの信者であればあるほど、謙虚にそう思うのではないでしょうか。それがキリシタンの本来の姿なのですから。

「みなさん、私のために祈ってください」

新法王は言います。キリスト者として誠実な態度であったと思います。

「みなさんに必要な指導者は私ではない。私であってはいけないのです」

そして、主人公は人々の前から立ち去っていく。唐突に物語は終わる。

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神が選んだ人は、間違っていなかったかもしれない

唖然とした。全然想像していた遠山の金さん的なハッピーエンディングではなかった。

全然コメディ映画じゃなかった。笑えるような作品ではない。

しかし時間がたつにつれて、この映画についてのコラムを書いてみたいと思うようになった。

主人公(新教皇)の姿勢は、なによりも誠実なキリスト教徒としての姿勢だったのではないだろうか。

最初はキリスト教批判、ローマ法王批判の映画ではないかと思った。

しかし映画『ローマ法王の休日』は、キリスト教に誠実に向き合ったのではないかと今では思っている。

「法王は、主が選んだのです。間違うはずがあるでしょうか」

最後の演説で主人公は言う。

神が選んだ人は、間違っていなかったのかもしれない。

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