エウリピデス『バッコイ』バッコスに憑かれた女たち
ここではギリシア悲劇『バッカイ』(バッコスに憑かれた女たち)の内容、感想、あらすじ、書評を公開しています。紀元前400年ぐらいの作品。神に捧げられた、神の栄光をたたえた作品であり、その神とは主神ゼウスではなく葡萄酒の神ディオニソスです。ローマ風にいうとバッコスと呼び名が変わります。どのへんが悲劇かというと人間の主人公であるペンテウスが葡萄酒に狂ったバッコスの女信者(彼女たちをバッカイといいます)に八つ裂きにされて殺されてしまうからです。しかも殺したのはペンテウスの母親アガウェーです。子殺しの話しですね。しかもバッコスとペンテウスは母方の従兄弟です。アガウエーはバッコスの母の姉妹、おばさんに相当します。もちろん酒の狂気、酒乱の話しとしても読めるでしょう。なによりもギリシア神話のエピソードとして読むことができるものです。
『バッカイ』の内容、感想、あらすじ、書評
バッコス祭りの熱狂。とにかく踊らなくてはならないのだ。
賢いことを口にするが分別がまるでない。
→ たとえばもっともな道理を言って神を否定するものを古代ギリシアではこのようにとらえたようです。あくまでも稲妻はゼウスが天から投げた神の武器だったのです。
そして葡萄酒の酩酊という不思議な力は、微生物がつくったアルコールの作用ではなく、ディオニソス神のもたらす神力だったというわけです。
分別あるものが分別なきものに命令する、私を縛るな。あなたは自分が何を言っているか、何をしているか、さらには自分が誰であるかすらもわかっていない。
頭には木ヅタや、樫や、花を咲かせたミーラックスの冠をかざした。
→ 戯曲ではバッカスの容姿をこのように表現しています。カラヴァッジョの描いた有名なバッカスの姿はこちら。エウリピデスの描写のまんま、という感じですね。
葡萄や木ヅタは春になると蔦を伸ばして繁茂する。これらの植物に見られる生命力もまたディオニソスに帰されるのである。
女たちは子牛らめがけて素手のまま刃物をもたず襲撃した。乳房の垂れた若い牝牛を両手につかみ啼き声をたてているのも構わず真っ二つに引き裂く。肉をばらばらに裂いていった。血に汚れた肉片がぶらさがって樅の木に雫を垂らしていた。肉の衣はむしり取られて散乱した。
→ バッコスの祭りは、おとなしい飲み会ではなく、酒乱狂乱の宴でした。信女たちはほとんど正気を失っています。本能が剥き出しとなり血に飢えた殺戮の天使のように動物や人間の血を見ずにはすませられません。
女たちは疾走を開始した。神が女たちのため湧き出させたあの泉に行って血を洗い流した。
→ 岩波文庫の解説にはこうあります。
山を走ることも陶酔の手段である。バッカイはエウ・ホイ、エウ・ハイという喚声をあげながら集団で走行する。
まるでトレイルランニングを暗示しているかのようです。スコット・ジュレクはトレイルランナー(ウルトラマラソン)には元ジャンキーが多いと語っています。
トレイルランの王者スコット・ジュレクの『EAT & RUN』走ることと、食べること
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酒が飲める。酒が飲める。酒が飲めるぞ
ご主人、この神さまが何者であるにせよ、どうかこの国に受け入れてください。なかんずく苦しみを取り除く葡萄を人類に授けてくださったのはほかならぬこの神さまだと聞いております。もしぶどう酒がなかったら人間の楽しみは無に等しくなるのです。
ワインを愛する人の数だけバッカスの信者がいたというわけですね。
これこそ神のように幸せな者と言えるのは、それはその日その日の生活が幸いである者である。
女たちは一人残らず手から血を滴らせながら、ペンテウスの肉を毬のように投げ合った。首は母親が両手でつかんでいたのだが、おそろしくもチュルソス(バッカスの杖)の先に突き刺した。
→ デビルマンの美樹ちゃんみたいな死に方だな、ペンテウス! これでも彼はテーバイの王です。なまじバッカイを迫害できる権力があったばかりに却って死を早めました。
それを獅子の首であるかの如く思い込み、不幸な狩りに狂喜しながら、バッキオスの名を何度も呼び上げている。「猟犬をともに率いる仲間、狩りの同志、栄えある勝利者」
いいえ、みじめな私がかかえているのはペンテウスの首。誰が殺したのです? どうして私の手の中に?
→ 酔いがさめて正気に戻った母親は、息子の死骸に愕然とします。自分が殺したことを覚えていないのでした。
もし誰か神々を軽蔑するものがあれば、この男の死をよく見るがよい。そして神々の存在を信じるのだ。
→ 古代ギリシアの演劇は、公募があって作品に順位をつけられたといいます。だから当然民衆に受ける作品が求められたのですが、同時に戯曲は神への捧げものでもありました。だから演目はギリシア神話、話しの筋は神話にもとづくものであり、聴衆は登場人物の運命(ストーリー)を知っている前提で演じらえたそうです。
→ 作品のオチは子殺しの母アガウエーの街からの追放です。この点、名作『オイデプス』と同じオチですね。許されざる大罪を犯したものは、街を追放されるというのがお約束です。追放には「穢れ」を払う意味があり、罪=穢れと考える発想は古代日本と似たものがあるなあと感じました。
狂気の酒乱の惨殺事件パート2。オルフェウス殺人事件
獣との交感。狂気。ディオニソスの基のところにある暗い力を飼いならすことはできない。自然の猛威は人間の中にも潜む。狂気や欲望や暴力はそれ自体が神であり人間を襲撃してくる。
忘我の境をもたらす陶酔状態、憑依。酩酊は自己と他者との境界をあいまいにする。
祭りそのものが日常性から非日常性への移行。集団としての一体感や陶酔と関係している。
→ このような獣性、狂気のワインの宴がディオニソス祭だったわけですが、この女信者バッカイたちはもうひとつ有名な殺戮事件を起こしています。それがオルフェウス殺人事件。冥界にまで妻を探しに行き竪琴の音でプロゼルピーネを感動させ、アルゴー船で金羊毛を探しに行った大英雄オルフェウスですが、その最後はバッカイたちに惨殺されています。
アポロニオス『アルゴナウティカ』アルゴ探検隊の大冒険。本当の主人公はイアソンではなく魔法少女メデイア
オルフェウス殺人事件は、竪琴の名手オルフェウスが音楽の神アポロンを敬い葡萄酒の神ディオニソスを敬わなかったために怒ってバッカイたちに襲わせたのが原因だとされています。
個人名がそのまま劇の題名になっているもの。
バッカイ・バッケー=バッコスの信女。ディオニュソスに憑依した人間。
バッコス・バッコイ=ディオニュソスの信者男性。バッコスの英語読みがバッカス。
神と崇拝者とに同一の単語が使われる。
ペンテウス=ディオニュソスを神として認めないもの。
ファロス(男根)。性的高揚感や生殖力とディオニソスはむすびついている。