ディズニー映画『ノートルダムの鐘』がイマイチおもしろくない理由を考えてみた
京都劇場に劇団四季『ノートルダムの鐘』を見に行ってきた。そもそものきっかけはパリのノートルダム寺院の火災である。
街を女性にたとえて、
「一夜のアバンチュールならニューヨーク、恋をするならパリ、結婚するならバンクーバー」
そう思っていた私は、ノートルダム寺院の火災事故でパリを、ノートルダムを、恋しく思い出してしまったのだ。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
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ディズニー映画『ノートルダムの鐘』で音楽を予習する
まずは予習ということで、ディズニー映画『ノートルダムの鐘』を見ることにした。劇団四季がミュージカルであることはわかっていたので、音楽を覚えるためである。
クラブ・レイブパーティーでも同じだが、流れている音楽を知っているのと知らないとでは、ノリに大きな差が出る。
ディズニー映画を見て、音楽を耳になじませておくことは、その後のミュージカル舞台を見るときにいい効果をもたらす。
ディズニーに限らず、ワーグナーだって何だって、音楽は知っていた方が絶対に盛り上がる。アーティストのコンサートだって知らない曲ばかり演奏されてはガッカリだ。
知ってる曲の方が盛り上がれる。だから劇場でミュージカルを見る場合、音楽は耳になじませておきましょう。
私はニューヨークで『オペラ座の怪人』を見る前にビデオで映画を見まくってから行きました。英語は半人前でしたが、事前にビデオを見まくっていたので内容もバッチリわかったし、知っている音楽(映画とミュージカルで音楽は同じでした)に鳥肌が立ちました。
悪役フロローがそんなに悪い奴じゃないという物語上の欠点がある
………ところでみなさん、ディズニー映画の『ノートルダムの鐘』って、面白いですか?
私はそれほど面白くないと感じた。すくなくとも他のディズニー映画にくらべると。
どうしてそんなに面白くないと感じたのだろうか。自分なりに分析してみると、いろいろなことがわかった。
ここではわかりやすく同じディズニー映画『アラジン』との比較で分析してみたい。
まず第一に、悪役であるはずの聖職者フロローが「思っているよりも悪い奴じゃない」ことが挙げられる。
ディズニーの悪役は『アラジン』のジャファーのように徹底的に強くて、容赦なく悪い奴だからこそ逆に人気があったりするのだが、フロローは、意外といいやつなのである。
けっこう頻繁にカジモドを訪問して決してネグレクトではない。色っぽいエスメラルダに情欲を抱く気持ちも、男なら誰も否定できないだろう。
フロローは、そんなに悪い奴じゃない。そして憎たらしいほど強い奴でもない。
これは物語上では欠点である。
ヒーローがさほど強くないのはいいが、悪役がさほど強くないのは物語上の致命的な欠点だ。
竜王やシドーが弱かったら、ドラクエが面白いだろうか?
悪が徹底的に悪でないために、正義も完全無欠の正義には見えないのである。
主役級キャラクター(カジモド・エスメラルダ)に感情移入できない
『ノートルダムの鐘』がいまいち面白くない最大の理由は、主役のカジモドやエスメラルダに感情移入しにくいためだろう。
他のディズニー映画にくらべると、二人とも表情豊かでないのだ。とくに目に表情がない。
ディズニー映画の特徴のひとつに表情豊かな愛すべきキャラクターがある。『アラジン』でいえばジャスミンは目に表情がある。愛嬌がある。
しかしエスメラルダはそうではない。エメラルドの瞳の謎めいた美女にしようとするあまり、エスメラルダは愛嬌をうしなってしまっているのだ。
カジモドも顔が歪んでいるせいで表情豊かとはいいがたい。『アラジン』のアラジンのような愛嬌のある表情豊かな男ではない。
ガーゴイルたちも感情移入しにくいクリーチャーである。『アラジン』の魔物ジーニーがむちゃくちゃ愛嬌たっぷりだったのとは違って。
登場人物たちが感情移入しにくいために、あまり面白くないと感じたのではないだろうか。
劇団四季『ノートルダムの鐘』
劇団四季の『ノートルダムの鐘』は音楽こそディズニー由来だが、ストーリーはディズニー映画とは少し違っていた。
悪役フロローは、弟を愛し、その弟が堕落したために、自分は品行方正を貫こうとする。そのような過去に由来した行動原理をもっている。
愛する弟がジプシー女で身を持ち崩したと信じるから、荷馬車で暮らす流離の民族ジプシーを憎むようになった。ゆがんだ愛ゆえに、憎しみを抱くようになるのだ。
キャラクター造詣がしっかりしている。
しかも弟の遺言を守り、その遺児カジモドを育てるのだ。こんな悪役を徹底的に敵視することなんてできない。
しかもその育ての親フロローを、カジモドが投げ殺しちゃったので私は非常に驚いた。
育ての親にそんなことしちゃいかんよ。
東洋的には、恋人を捨てて親を選んでも美談とされるレベルだぞ。育ての親の恩義は何とかよりも深いとかいったりして。
火あぶりにされたエスメラルダが死ぬのはいいが、ラストシーンでカジモドが死んじゃうのは何故だろう。
人は絶望で心臓が止まるのだろうか? そういう問いかけを投げかけているのだろうか。
マンガだとありそうだけれども。
もしかしたらビクトル・ユゴーの原作小説がそうなっているのかもしれない。
それはいつか小説を読んで、このブログの中でレポートしていきたいと思っている。
ブサイクなロミオと、色っぽすぎるジュリエットの物語をユゴーは描こうとしていたのかも知らない。
だから最後は折り重なるようにして死んだのだろうか。
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このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
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物語のあらすじを述べることについての私の考えはこちらをご覧ください。
私は反あらすじ派です。作品のあらすじ、主題はあんがい単純なものです。要約すればたった数行で作者の言いたかった趣旨は尽きてしまいます。世の中にはたくさんの物語がありますが、主役のキャラクター、ストーリーは違っても、要約した趣旨は同じようなものだったりします。
たいていの物語は、主人公が何かを追いかけるか、何かから逃げる話しですよね? 生まれ、よろこび、苦しみ、死んでいく話のはずです。あらすじは短くすればするほど、どの物語も同じものになってしまいます。だったら何のためにたくさんの物語があるのでしょうか。
あらすじや要約した主題からは何も生まれません。観念的な言葉で語らず、血の通った物語にしたことで、作品は生命を得て、主題以上のものになるのです。
作品のあらすじを知って、それで読んだ気にならないでください。作品の命はそこにはないのです。
人間描写のおもしろさ、つまり小説力があれば、どんなあらすじだって面白く書けるし、それがなければ、どんなあらすじだってつまらない作品にしかなりません。
しかしあらすじ(全体地図)を知った上で、自分がどのあたりにいるのか(現在位置)を確認しつつ読書することを私はオススメしています。
作品のあらすじや主題の紹介は、そのように活用してください。