パールバック『大地』。中国で育ったアメリカ人女性が描いた中国の本

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書籍『市民ランナーという走り方(マラソン・サブスリー。グランドスラム養成講座)』。『通勤自転車からはじめるロードバイク生活』。『バックパッカー・スタイル』『海の向こうから吹いてくる風』。『帰国子女が語る第二の故郷 愛憎の韓国ソウル』『読書家が選ぶ死ぬまでに読むべき名作文学 私的世界十大小説』Amazonキンドル書籍にて発売中です。

パールバック『大地』。中国で育ったアメリカ人女性が書いた中国本

パールバック『大地』については、幼いころから、そのタイトルだけは知っていました。その小説のことが『ワイルド・スワン』のあとがきに登場したので思い出して読んでみました。私の中で『ワイルド・スワン』私的十大小説に匹敵するほどの名作だったので、そのレベルの小説かと思い、期待して本を手にとりました。

『ワイルド・スワン』中国の三人の娘。満州国から文化大革命までの女三代記

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『ギルガメッシュ叙事詩』にも描かれなかった、人類最古の問いに対する本当の答え

(本文より)「エンキドゥが死ぬなら、自分もいずれ死ぬのだ」

ギルガメッシュは「死を超えた永遠の命」を探し求めて旅立ちますが、結局、それを見つけることはできませんでした。

「人間は死ぬように作られている」

そんなあたりまえのことを悟って、ギルガメッシュは帰ってくるのです。

しかし私の読書の旅で見つけた答えは、ギルガメッシュとはすこし違うものでした。

なぜ人は死ななければならないのか?

その答えは、個よりも種を優先させるように遺伝子にプログラムされている、というものでした。

子供のために犠牲になる母親の愛のようなものが、なぜ人(私)は死ななければならないのかの答えでした。

エウレーカ! とうとう見つけた。そんな気がしました。わたしはずっと答えが知りたかったのです。

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読んでみてまず驚いたことは、この本が白人女性が中国人のことを書いた本だったということです。普通、白人はそんなスタンスをとりませんよね。ポカホンタスネイティブアメリカンの目線から書いたりしないはずです。

私はソウルで暮らした帰国子女なのですが、パールバックも中国で育ったアメリカ人女性ということで、似たような境遇なのでした。第二の故郷を持っているという意味で。彼女は中国語も堪能で、だからこそ中国目線で小説が書けたのでしょう。

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旅人が気に入った場所を「第二の故郷のような気がする」と言ったりしますが、私にとってそれは韓国ソウルです。帰国子女として人格形成期をソウルで過ごした私は、自分を運命づけた数々の出来事と韓国ソウルを切り離して考えることができません。無関係になれないのならば、いっそ真正面から取り組んでやれ、と思ったのが本書を出版する動機です。私の第二の故郷、韓国ソウルに対する感情は単純に好きというだけではありません。だからといって嫌いというわけでもなく……たとえて言えば「無視したいけど、無視できない気になる女」みたいな感情を韓国にはもっています。

【本書の内容】
●ソウル日本人学校の学力レベルと卒業生の進路。韓国語習得
●関東大震災直後の朝鮮人虐殺事件
●僕は在日韓国人です。ナヌン・キョッポニダ。生涯忘れられない言葉
●日本人にとって韓国語はどれほど習得しやすい言語か
●『ムクゲノ花ガ咲キマシタ』南北統一・新韓国は核ミサイルを手放すだろうか?
●韓国人が日本を邪魔だと思うのは地政学上、ある程度やむをえないと理解してあげる
●日本海も東海もダメ。あたりさわりのない海の名前を提案すればいいじゃないか
●天皇制にこそ、ウリジナルを主張すればいいのに
●もしも韓国に妹がいるならオッパと呼んでほしい
●「失われた時を求めて」プルースト効果を感じる地上唯一の場所
●「トウガラシ実存主義」国籍にとらわれず、人間の歌を歌え

韓国がえりの帰国子女だからこそ書けた「ほかの人には書けないこと」が本書にはたくさん書いてあります。私の韓国に対する思いは、たとえていえば「面倒見のよすぎる親を煙たく思う子供の心境」に近いものがあります。感謝はしているんだけどあまり近づきたくない。愛情はあるけど好きじゃないというような、複雑な思いを描くのです。

「近くて遠い国」ではなく「近くて近い国」韓国ソウルを、ソウル日本人学校出身の帰国子女が語り尽くします。

帰国子女は、第二の故郷に対してどのような心の決着をつけたのでしょうか。最後にどんな人生観にたどり着いたのでしょうか。

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読み終えて、『ワイルドスワン』のあとがきで『大地』のことが語られていた理由がよくわかりました。

小説の時代背景が、中国、清末期、日中戦争から国共内戦、文化大革命まで、という舞台装置が同じだということがひとつ。そのほかに、親子三代にわたって主役が入れ替わるという小説の「構成」にも類似点があるのです。

パールバック『大地』。その内容と評価、感想

暇つぶしにきれいな女が必要なのは、金持ちの男だけだからね。

これで自分も女がもてたのだ。

→ 最初は初代・王龍から。初代がお金持ちの家の台所女(奴隷)を嫁にもらうところから物語が展開します。

そうだ。その土地を買おう。おれが買ってやる。

→ 初代は農民です。お金ができると土地を買い足すような勤勉な農民でした。

土地を買うのはいいことです。

王龍がこの土地を買ったことはすでに知れ渡って、村では彼を村長にしようという話しが持ち上がっていた。

おまえは金持ちさ。大家から土地だって買ったじゃないか。さぞ高かっただろうが、この村にほかにそんな真似のできる人間がいるかね。

→ 土地と向き合った初代は、だんだんお金持ちになります。

雨はいっこうに降ろうとせず、空は知らん顔で明るく輝いていた。

あいつらもおれの土地を奪うことはできない。おれは肉体の労働と畑の実りとを人の奪えないものにつぎこんだのだ。銀貨を持っていたなら、あいつらに奪われたに違いない。おれにはまだ土地がある。土地はおれのものだ。

→ タイトルが『大地』(原題はThe Good Earth)というだけあって、初代は大地に価値を見出しています。

子どもはどこだ? 死にました。首のところに二つ、黒いあざが見えた。

→貧しさから、生まれたばかりの子供を絞殺してしまいます。当時の中国ではありふれた光景だったのでしょう。

とにかく、おれには土地がある。おれには土地があるんだ。

毎日の生活に必要なことのほかは、知ってみてもろくなことはない。

→ たしかに、世の中には知ってもろくなことはないことが多くありますよね。知らぬが仏、ほんとうにそう思います。

誰だってみんな帰っていくのだ。土地がありさえすれば。

売るものは娘しかありません。私は売られました。

→ 初代が結婚した女性は女奴隷でした。しかしこの女性も土地に価値を見出す女性でした。王龍のピンチを助けてくれたのは彼女です。

あの土地に戻るのだ。明日は家じゅうであの土地に戻るのだ。

それ以上に土地が欲しくてたまらなかった。種子はたっぷりあるのだから、いまの倍の土地に蒔ける。

なんだ。あの町の馬鹿者どもが。一尺の土地だってもっちゃいないくせに。おれが字がわからないといって、どいつもこいつも平気でげらげら笑いやがる。

おれはなんにも知らないんだ。教えてくれ! そして女は教えてくれた。

真珠は色の白い女がつけるもんだ。おれによこせ。入用なんだ!

→ 色の白い女が美人だという基準は昔からなんですね。中国でもなのですね。

男にお金ができて、女を買って家へ連れ込んだからって怒るんじゃないよ。男ってのはみんなそういうものなんだから。

→ 初代の妻はブス設定です。だから色町の女にお金を使ってしまうようになります。金持ちになった王龍は農作業はできないが楽器の弾ける女を家に連れ込みます。彼女は失望します。

この女は自分のものになったのだ、これからはいつまでもこの家にいるのだ。

もう一粒の米だって食わせてやるものか。

「追い出せる勇気があるなら追い出してみろ」じつはこの赤い切れこそ強盗団のしるしだったのである。いちども匪賊に襲われたためしがなかった。なぜ自分が安全だったのか。なぜ叔父一家を食わせていれば安全なのかを悟った。

→ お金持ちになった初代は叔父さんにたかられます。家族は金持ちになったものが支えるという文化だったのでしょう。その文化も三代目の頃には共産主義によって壊れます。その過程を描いているのが『大地』の全体像です。

まあ、誰にだって悩みはあるのだ。おれもおれの悩みをかかえたまま、何とか生きていく工夫をしなければならぬ。

自分は愛してはならない女を愛してしまった。あの二人のあいだにあったことなど知りたくない。いつまでも知らずにいたい。知らずにすむならその方がいい。

銀貨五千枚をいただかなくてはならない。要するに医師は「この患者は助からない」と言ったにすぎないのだ。

→ 初代の妻は、愛人にくるしみ、病気になり、先に逝きます。

おまえの病気をなおせるのなら、土地をみんな売ったっていいんだ。

→ 私は1937年の映画『大地』も見ました。映画では初代のエピソードのみがとりあげられて、妻の死で終わります。中国人の王龍を白人が演じていて、しかも英語を喋っているのに驚きました。今なら現地の俳優をつかって中国語で撮影するのでしょうが。

土地はわたしが死んだ後も残ります。

わたしは醜くて、愛してもらえないことはわかっています。

たとえ醜い女だとしても、わたしは息子を産んだ。ただの奴隷でしかなかったとしても、わたしの家には息子ができたのです。あの女なんか、美人だというだけで息子を産めるもんか。

→ またしても映画『大地』の話しですが、王龍の妻も美人女優が演じていて、原作の不美人設定とは違いました。映画のラストは死んだ妻の価値を王龍が思い知って終わります。土地よりも、妻(女性)という結論です。

女優が美人だった分だけラストの説得力は増したとは思いますが、「だったら愛人つくるなよ」というツッコミは避けられません。まあそういう時代だったということでしょうか。

おれはいつまでたっても家の中の男と女のごたごたと縁が切れないのか? おれもようやく年になって血も騒がなくなったし、肉欲からもやっと解放されてすこしはおだやかな暮らしができそうだと思っていると、こんどは息子たちの肉欲や嫉妬に苦しめられなければならないのか?

この土地がなかったら、おれたちはみんな世間の人間みたいに飢え死にしなきゃならんし、おまえが百姓のせがれよりは少しはましな人間になれたのも、この土地のおかげなんだぞ。

→ 百姓でお金持ちになった初代は、自分に学がないために、息子たち二代目は百姓とは違う仕事につかせようとします。よくある話しですが、父親と子供で価値観が合わないという状態があらわれます。

お父さんは金持ちなのですから、なにをなさってもいいが、やはり男には一人では不足なんでしょうね。

土地を売るだと? 一家は終わりだぞ。土地を売り始めたら。わしらは土地から生まれて、土地に帰らねばならんのだ。土地をもっていれば生きていられる。もし土地を売れば、それで終わりだ。

男というものは、わたしたちが奇麗でなくなってくると、たちまちほかの女を物色しだすんです。自分が平気で私たちの美しさを台無しにしたのにね。

私の土地はできるだけ早く、高く売ってください。

→二代目は、自分がやりたいことの資金にするために、もうさっそく土地を売ろうとします。

われわれには必要以上の土地があるんでな。ここをおまえに売りたいと思うのだが。

まさかもうお売りになろうとは。先代はあれだけ土地にしがみついておいでなすったんだから。

すこし土地に手をつけて、暮らしのほうにまわさねばならんのだ。

こっちが売りたがっているのを相手に見透かされてしまえば、値は下がるに決まっている。

子々孫々までつたえよと父に命じられた土地をいったいどうしたのか。

畑を貸すにしても、自分の手から離れてしまわないように、一年以上はけっして貸さなかったものだった。ところがいま、彼の息子たちはその土地を売ろうとしている。

旦那様は「土地を売ってはならない」とおっしゃっていました。それなのに、あなたたちは売っていらっしゃる。

死病をまきちらすような安淫売には、近づかないように気をつけるのだぞ。

最大の不幸の原因ははっきりしていた。父から受け継いだ土地である。これこそ災難の源だった。土地というものが、まるで悪質な魔力を備えているような気がした。しじゅう見に行かなくてはならない。彼らときては年がら年中泣き言ばかり言っている。ごたごたにうんざりして土地を呪い、土地を憎んだ。地主の王さんと呼ばれることも、今はかくべつの名誉とは思えなかった。

→ 自分で土地を選んだ初代と違って、二代目は親から遺産を引き継いだだけなので、土地に対する見方が違うのでした。ありがたく思うよりも、むしろやっかいなものだと思っています。

私の心はもう決まっています。あなたの奴隷になります。

商家の王の財産はいまではもう土地ではなくなっていたからである。土地などは、彼の所有する家屋、商店、金融業などにくらべれば、無いも同然になっていたのだった。

→二代目は商人や軍人になります。もはや百姓ではなくなります。

あれだけの情熱が、愛のないところから湧いてこようとは信じれなかった。自分がこの手で殺した豹に、どうやら男としてかなわないのではないかと思った。生きている愛が、死んだ男の思い出を打ち負かせなかったのだから。

→この気持ち、わかりますね。たとえ武力や経済力や知力で勝ったとしても、女の愛で負けると、それは男として負けたってことになるんですよね。それを女性のパールバックが書いているから、やるなあと感じます。

自分が意外につまらない男らしいという気持ちになってみると、これからの人生がいたずらに長くむなしいものに思えてくる。偉大な地位に到達できたとしてもそれが何になるとも思えてきた。

彼には、この女がまったく理解できなかった。夜訪ねていたころでさえ理解できなかったのである。

男の人生は、こんなことをすべて考えるにはあまりに短い。おれには女にかかずらっている暇はなかった。

王虎は息子に夢を託し、息子を育ててきた。ところがいま目の前に立っている息子、これは彼の知らない男だった。無力感が、ふたたび襲ってくるのを感じた。あの土の家が牢獄に思えた頃に感じたのと同じ、気の滅入るような無力感だった。父が、大地に眠っているあの老人が、ふたたび彼をとらえたのである。

→二代目の三人の中でも、軍人・軍閥として立とうとする三男の王虎が、第二世代の主役を張ります。

自由の身などと何という馬鹿なことを考えたのだろう。おれは一人息子なのだ。それはどうしても逃げられない宿命なのだ。彼にも農民たちが自分の去るのをよろこんでいるのはわかった。

戦争というものが嫌でたまらず、土の上の生活がしたくてならなかった。ぼくには殺せません。そんな勇気はない。人を殺せるほど徹底的には憎めない。相手の気持ちまでわかってしまうからです。

→三代目は王虎の息子です。軍閥を継がせようとする二代目に対して、三代目は土地の生活に回帰して憧れます。

私が娘の人生を決めてはならないわ。あの子が嫌だというのなら、それまでです。あたしが決めてはいけないのよ!

女性作者らしく、政治のことはぼかして、細かくは書かないのですが、背景には共産主義の台頭があるようです。初代の妾時代と違って、三代目ごろには男女平等になっているのでした。

王虎のもとにやってしまったのと(作者の錯覚。二人は同じ人物。王虎のもとで生き延びたのは王二に息子である)→ 役者が作者のミスを発見していました。おもしろいですね。こういう作者の間違いがあること時代、本作がフィクションだということがわかります。身近に起こった実話なら(たとえばワイルドスワン)間違えるはずがありません。

寒さに震えて食うものもない人間がいることなど、忘れられるものなら忘れたかった。自分が幸せでたまらない彼としては、悲しいことなど何も考えたくなかったのである。

このごろでは本で種の撒き方や取入れの仕方、土地を耕す勉強をするんです。
百姓ってなあ隣の人間がやることを見て、そのとおりにやるだけのことよ。金を使って百姓仕事をおぼえるなんて息子を学校へなんぞやらなくてよかった。

夜の歓楽の中にいるときでさえ、とつぜん畑仕事のことを思い出すことがあった。あの種を蒔いてみたらとか、収穫できるのではないかと考える。自分の借りた小さな大地にひそかにほんとうの満足をおぼえていたのは、幸せなことだった。だがその喜びはあくまでも秘密だった。

農家経営の錬金術。農業ボランティア養成講座。研修という名の労働力動員方法

わたしは革命党員です。現代の女です。ふつうの女のように自分を偽る必要はありません。わたしはあなたを愛しています。あなたにわたしの愛が必要なら、いつでもさしあげます。

わたしなら第二夫人になんかならない。私だけが唯一の奥さんになるのよ。わたしたち新しい女は、同盟を結んで、妾として結婚するぐらいなら結婚しないと誓いを立てているの。

→中国女が気が強くて男を尻に敷いていることは今では有名です。このころからなんですね。

たしかにおれは父の時代の人間ではない。いまどき父がおれを縛れるものではない。

心中に湧きあがる疑問。自分で理解できないものに従うのではどこに自由があるのか。

では彼女の愛が憎しみに変わったのだ! 愛情では僕を縛れなかったから、憎しみなら縛れるというわけだ! こうして彼は連行されていく羽目になったのである。その瞬間にもう元は死を覚悟していた。

三代目、王元は、自分に惚れていた女性に裏切られて密告されてしまいます。紅衛兵の時代でしょう。

ただひとつ、あのちっぽけな畑だけが気にかかった。

世界はとうの昔に朝になっていたのだ。そして外国人はみんな起きて働いていたのだ。

きみが本をいくら読んだって、この国の繁栄の秘密はひとつもわかりゃしないんだよ。何でも見るんだ。どこへでも出かけていって、会える限りたくさんの人間に会え。

住もうとも思わないよ。都会以外の場所には。

われわれは何世紀も取り残されたまま、水道だとか電気、映画、そういったものをひとつも思いつかなかったのだということを、忘れることはできない。

どこに利己的でない人間がいる?

土とのつながりがなければ、人はたちまち故郷を離れることになる。人の性に根差したこの放浪の心をおさえることはできない。

孤独が楽しいのは煩わしいものを追い払ってくれる間だけで、愛するものが見つかった時には、孤独はもう楽しくはなくなるのだ。

→私は最近流行したソロキャンプ、ソロ活をちっともやりたいと思わないのですが、こういうことなのでしょうか。

陽気な青春の魅力とはすでに別れていて、寡黙な品位という新しい魅力を身につけていたのである。

お友達にも無理に結婚させられた人がいたのです。そのために学校をやめなければならないと言って泣いていました。元兄さんは好きです。でも結婚したいのとは違います。わたしは結婚したくないのです。ただ結婚して家事や子供の世話をするだけでは嫌なのです。

→東アジアの少子化のきざしがすでに見て取れますね。

天の神様が外国の暦で勘定するはずはねえよ。

民衆は強引に教育して、古臭い迷信は捨てさせるのだ。

彼らは先祖たちと変わらない暮らしをしているのだ。孫たちはあんな惨めなところでは生活できないというだろう。現代的なところなどどこにもないあんな家など、とても自分たちの住めるところではないと思うだろう。

その小麦にとって、土も天候もしょせんは外国のものだったからなのだろう。本来の深い根をおろすことができないまま、倒れて腐ってしまったのだった。

もう完全に奪われてしまったのだ。もう土地がない。

老人たち——かれらの人生には単純明快な希望があった。金、戦争、快楽——これらがすべてよいものであり、人生を賭けるに足るものなのだった。老人たちはおなじだった。子供のように単純で、なにひとつわかっていなかった。だが彼と同じ世代の若者たち——彼らにあるのは混乱だけだった。神仏に心を満たされることはなく、カネもうけにも満足できない。

この新時代に、何かが自分のものだとはっきり言える人間がいるだろうか? あの愛する人も、自分のものとは呼べなかった。

彼に唇をまかせていた。その肉体は彼の肉体だった。同じ民族の肉体だった。月の光でも、彼女の頬が燃え、目が輝いているのはわかった。

まとめ

土に対する愛情というのは、私の思想〈バックパッカースタイル〉とは真逆の思想です。私は地球というのは通りすがりの場所だと考えていて、特定の場所に執着するのはばかげたことだと考えています。

もうひとつ『大地』で面白かったのは、女に対する男たちの態度です。金持ち男は妾を持つというのが文革以前では常識だったようです。昨今の中国では女性上位社会だと聞きますが、その辺のパワーバランスの変遷については興味がありますね。

女性作者にありがちの面もあります。家族とか日常のこまごましたことには目が届くのですが、政治的なことはわからない書けないといった悪癖が本作にもあります。

同じ時間をかけてパール・バックの『大地』を読むなら、私だったらユン・チアン『ワイルドスワン』を読むほうをおすすめします。似たような構成、似たような時代背景でありながら、『ワイルドスワン』のほうが、ずっと小説として迫力がありますよ。

『大地』は貧困や悲惨といっても抑制が効いているのですが、『ワイルドスワン』は人間の残酷さ、転落ぶりが限界まで描かれています。事実は小説よりも奇なりで、そっちのほうが中国共産党の真実なのでしょう。

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