ここではヘンリー・ミラー『南回帰線』についての書評をしています。
ドラッグの見せた幻覚みたいな小説ですからサイケデリックトランス音楽を聴きながら読みました。
黄色は本書から、赤字は私の感想です。
× × × × × ×
このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
× × × × × ×
ヘンリー・ミラー『南回帰線』のあらすじ
はっきりいってあらすじはありません。むしろ本書は寓話のようなものとして読んだ方がいいでしょう。
むしろ≪永遠に理解されることのない、強烈な作品≫をものしようとする作者がつくりあげたのが、この心境の流れをひたすら追っていく真実の書です。そこには既存の物語のようなストーリーラインというものはありません。
ああ、なるほど、新しい作品だね。と、作者が何に挑戦して乗り越えようとしていたのかわかれば、それでじゅうぶんだと私は思います。
ヘンリー・ミラー『南回帰線』から
たとえ死の危険があろうと、この血管に血液の逆流してくるのを感じたかった。体から石と光を振るい落としたかった。
作者は、市民社会に適応できない人間です。サラリーマンになり切れない男(ヘンリーミラー自身)です。
大自然を、子宮の深い井戸を、沈黙を、死の川を、求めていた。星屑と尾を引く彗星に飾られた夜になりたかった。
作者は、みずからの神に、宇宙観に、たどり着こうとしています。
みずから働いて得たものではないというまさにその理由で僕らにはおいしく感じられた。
学校で得た学問は透察力を鈍らせる役に立ったにすぎなかった。
幼年時代こそ無限の宇宙であり、その後に訪れた人生、大人の人生は、……人生から味わいが消えたようにパンの味も消え去る。
親友は、とるに足らぬ人間、敗残者になってしまった。彼らをこのような姿に変えた人生を思うと、泣きたい気持ちに駆られる。少年時代の彼らはすばらしかった。
世の中に出てからは、誰もが似たりよったりの人間となり、本来の自分とは似ても似つかぬものになってしまった。個々に分かれてはいるが、個性はどこにも見出せない。
作者は小市民生活に適応できず、何かを失ったと感じています。少年時代こそ黄金時代だったと感じています。
自分の世界の拡大から何ひとつ得たものはなかった。それどころか失うものの方が多かった。
もっともっと子どものようになりたい。ぼくはおとなとなり、父親となり、社会の責任ある一因となってしまった。僕は日々のパンを稼いだ。僕は自分のものであったことのない世界に自分を順応させてきた。
深淵の前にふたたび立たんがため。責任あるおとなの生活という愚かな秩序の中にとどまれない。屈従した者たちの一致した同意により息の根をとめられた子供の生活。
戻りたい。帰りたい。と作者はたびたび書いています。やり残したことを、やりきるために。
抜けでてきたに違いない世界、それこそ僕の世界であり、他のいかなるものもぼくを惑わすことはできないのだ。
彼らは世の中の有益な市民となるべく、理解のささやかなベッドの中で安らかに死んでいったのだ。ぼくは彼らを憐れみ、いささかの後悔もなく、ただちに一人づつ捨てていった。かれはもうまったくの他人同様になってしまっている。
その顔を見るだけで僕を身ぶるいさせ口づけも手を握ることさえできなかったユーナ。なぜだ? 何が起こったのだ? いつ起こったのだ? ぼくはユーナのことを夜も昼も、くる年もくる年も、狂人のように思い続けていたが、そのうちぽろりと僕の心から抜け落ちてしまった。
……さあきておくれ。ぼくはきみなしではもう生きてゆけないのだから。
子どものように声を上げて泣きじゃくったのだ。ひとり……ひとり……ひとりなのだ。ひとりでいるのはつらいことだった……つらい、つらい、つらいことだった。
悲嘆に気が狂い、苦悶に気が狂っていた。
僕の属する現実は確かにまだ存在したからだ。だがそれは遠い、はるかな彼方にあった。
生きてはいたものの、ぼくは自分に加えられた傷という虚空の中に、生きながら埋められていたのだ。つまり、僕は傷そのものだったのだ。
傷はつねにぼくとともにあるのだ。すべては遠く過ぎ去り、永遠に地平線の下へ沈み去った星座のように、いっけん視界から消えたように見えるに過ぎない。
× × × × × ×
このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
× × × × × ×
言葉ではいいあらわせぬ苦痛だ。人間であり、人間の愛であるところの傷は、光をいっぱいに浴びて失われた身元は取り戻される。
あまりにも身近にあったため、これまで僕には彼女と傷口との見分けがつかなかったのだ。
隠居して以来、親父は一日中暖炉のまえにすわったきりでふさぎこんでいるんだ。それが一生あくせく働いたあげく親父の手に入れたものなんだ。
勤労そのものを信じてるわけじゃない。ただ働くように訓練されているだけの話しだ。
まだ少しでも分別ののこっているうちにきいておけ。あんな不平たらたらの女に一生をだいなしにされるんじゃないぞ。あの女とは手を切ることだ。
≪永遠に理解されることのない、強烈な作品≫をものしようと準備中の僕。我々は新しい存在を必要としているのだ。
はたしてそれはどのような作品になるのでしょうか。本書『南回帰線』そのものがその答えです。
居眠りをしないでいるのが容易でなかった。習得すべきことは一週間と経たぬうちにおぼえてしまった。そのあとは終身懲役刑に服しているようなものだった。なんとか暇つぶしにと物語やら随筆やらを書いた。実に持って素晴らしい職場だと思った。
仕事は僕にとって何の意味も持たなかった。なぜならおかげでなすべき真の仕事は回避されていたからだ。
自分には自分の役割があると感じて生きている人は、割り当てられた仕事に満足することができません。それは自分の役割ではない、と常に感じ続けます。
白昼夢の中で強奪し殺害した連中、およそ自分の本性の命じることであれば、僕は何でもやってのけた。もしおまえが生き残りたいなら、他の人間を殺すことだ。もっとも尊敬を集めている連中こそ最大の殺し屋なのだ。
ぼくは自分が社会によってガトリング銃をにぎらされたあやつり人形でしかないことに気づき、その絶望感はやがてはげしい乱心にかわった。どれほど有能な働きを見せようとも決してプラスやマイナスの符号となることはできなかった。
一日に八千語近く書きちらし、みじめでどうしようもない失敗作を書いた。そして、小説を書くためには「書いて書いて書きまくらなければならない」と悟ったのだった。
貧乏話や、病気、恋、死、幻滅、あこがれに関する話や愚痴を聞くことほどくだらないことはない。
主人公はいい年になっても社会に適応できなかった、「奴らは、きれいに着飾り、ひげを剃り、香水をつけているが、要するに殺し屋か人食い人種にすぎないんだ」。
――人生の驚異と神秘! 私たちが社会の責任ある一員となるまで、めいめいの心のなかに抑圧されている人生の驚異と神秘。私たちが社会に働きに出されるまでは、世界は非常に狭く、私たちは、その辺境に――いわば未開拓の地に――とじこめられていた。
「無目的の放浪は、それ自体充足したものなのだ」。
人生の恐怖とは、金がなくなることだ。
「自分自身になること」、それを言うためにミラーは延々と文字を書きつづけている。宇宙を想像すれば、それいじょうにあなたにとって現実であるものはない。
「思索と行動はひとつである」。
押し付けられた概念に頼ることなく生きることが必要となる。
おれはそんなことはするまい。おれはもっと違ったことをするのだ。
ねむりこんでしまわぬため、生活とよばれるあの不眠症の生贄とならぬため、際限なく言葉を綴りあわせるという麻薬にうったえざるをえない。
数年の間に数千年分の経験を蓄積したが、それを必要としていなかったため、せっかくの経験もむだになってしまった。古いドラマを繰り返す以外、前進のすべはなかった。
北回帰線はただ一本の想像上の線によって、南回帰線とへだてられているにすぎない。
願わくば神よ、この本が真実を、まったくの真実を、ただ真実のみを、伝えるものとならんことを!
彼女を失ったかなしさのあまり、彼女にまつわる本を、彼女の名を普及にすべき本を書き始める決心をした。それはこれまで誰一人読んだことのないような本になるだろう。
僕らの生活がすでに終わったことに気づいた。計画している本は、彼女を、そして彼女のものであった僕自身を、埋めるための墓でしかないことに気づいた。
この物語を語ろうとつとめてきた。書くのに苦しんだのは終局という考えが耐えがたかったからにほかならない。明日は、明日こそは……。
≪永遠に理解されることのない、強烈な作品≫をものしようとするヘンリー・ミラー。『南回帰線』がその答え
≪永遠に理解されることのない、強烈な作品≫をものしようとするヘンリー・ミラー。はたしてそれはどのような作品になったのでしょうか。本書『南回帰線』そのものがその答えです。
これまでにない強烈な作品をつくろうとした作者の野心がこの際限のない幻想、イマジネーションの物語をつくったのか。と感得できれば読んだ甲斐があったというものです。
このブログの作者も、これまでにない作品を書き上げようと心の闇と格闘した経験がございます。その作品がこちらです。
× × × × × × このブログの著者が執筆した純文学小説です。 「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」 「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」 本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。 × × × × × ×
物語のあらすじを述べることについての私の考えはこちらをご覧ください。
私は反あらすじ派です。作品のあらすじ、主題はあんがい単純なものです。要約すればたった数行で作者の言いたかった趣旨は尽きてしまいます。世の中にはたくさんの物語がありますが、主役のキャラクター、ストーリーは違っても、要約した趣旨は同じようなものだったりします。
たいていの物語は、主人公が何かを追いかけるか、何かから逃げる話しですよね? 生まれ、よろこび、苦しみ、死んでいく話のはずです。あらすじは短くすればするほど、どの物語も同じものになってしまいます。だったら何のためにたくさんの物語があるのでしょうか。
あらすじや要約した主題からは何も生まれません。観念的な言葉で語らず、血の通った物語にしたことで、作品は生命を得て、主題以上のものになるのです。
作品のあらすじを知って、それで読んだ気にならないでください。作品の命はそこにはないのです。
人間描写のおもしろさ、つまり小説力があれば、どんなあらすじだって面白く書けるし、それがなければ、どんなあらすじだってつまらない作品にしかなりません。
しかしあらすじ(全体地図)を知った上で、自分がどのあたりにいるのか(現在位置)を確認しつつ読書することを私はオススメしています。
作品のあらすじや主題の紹介は、そのように活用してください。