第一章
アスカの過去と母の祐希の過去が重なった。二人はあまりにも似すぎていた。ひとつだけ違うことは、母は死を選び、アスカはひたすらに明るいことだ。
しかしその明るさがツバサの心を苦しめた。なぜ母はおれを置き去りにして自ら死を選んだのか。
少年の日から今日までたったひとつのことだけを自分は求めてきたのかもしれない。自分が自分のままで生きてゆくことを、ありのままで肯定されることを。
その気持ちはアスカも同じだったのだろう。それをわかってやれなかった。
彼女が旅立とうとしている。表情のない顔でアスカはうつむいていた。
どうして、こんなことになってしまったのだろう。
闇のカードばかりが配られて、どんな好勝負ができただろうか。
配られたカードが変えられないとしたら、変えなければならないのは自分の人生観そのものだった。光を求めていたのに。どうしてうまくいかなかったのだろう。
深夜の海辺。街灯の下でツバサはアスカに語りかけた。街灯なしには何も見えない世界、それゆえに二人のこと以外なにも見えなくなる。
「不思議だね人生って。運と縁の重なりあったものだ。自分で切り開くだけでもないし、周りの環境だけでもない」
アスカの叔父は精神科医なのだという。身近な血筋にそういう人がいるのか。アスカの夢に見通しがあることを感じないわけにはいかなかった。
「暮らしを親に左右されて、その場所から抜け出るのにおれはずっと苦しんでいた。辛い記憶が体のどこかに今も残っていて、いつしか本当に同じようにゼロから自分を組み立てようと必死な人間しか受け入れることができなくなってしまっていたんだ」
路上の二人というのは微妙な距離感だと思う。二人きりの時には、禍々しいまでの抱擁を交わしたこともあった。しかし今いつでもアスカは自分の意思で歩き去っていくことができるのだ。
「愛情の足りなかった人は不幸のくじを引きやすい。なかなか幸福や安定にたどりつけない。知らない場所にはたどり着けないからね」
アスカが歩き去ってしまうことにおびえながら、彼は話し続けた。おれのような生いたちでなかったなら、うまくやっていけたのだろうか。ツバサはずっと考え続けている。
「他人の評価なんてどうでもいいでしょ。大切なのは自分がどう感じ、何を選ぶかだよ。過去を紐解けばすべての謎が解けると思うのは間違いだよ」
不倫していた時は、そうは言わなかったはずだ――その言葉をツバサは飲み込んだ。
「先が見えないから人生は楽しいと言う人がいるけれど、なかなか楽しめている人ばかりじゃないよね。楽しめているのは先に明るいもの、積み上げるものばかりを見ている人たち……その先に別れるものや失ってしまうものを見つめているとなかなかそんな境地になれない。人はなかなか今を生きづらい」
言葉が途切れたら、ふたりはそこで終わってしまう気がした。
「おれの母が、そうだったんだ。でもおれは母と違って、いつも仲間と笑って楽しみながら力いっぱい生きていきたいと思った。今ここで命を燃やして、ヒリヒリして渇いていてすべてを賭けて真っ赤に燃え上がる。そんな日々が毎日続くようにと願ったんだ。
自分で選んだ道を辛抱とか鍛錬とか茨の道とか表現するのは何かが違う気がするんだ。
何かをやろうとするときにおれは失敗をイメージしたりはしない。けれどありとあらゆることにはそれぞれの人から見た長所と欠点があって失敗の可能性は含まれている。だからやめておこう。何もしない。概してそういう人たちの方が、世間では分別があると評価される。
おれはサラリーマン社会では生きていけなかった。いろいろ注意されたし、教えられた。仕事っていうのはもっと厳しいものだぞって。楽しんでやるなんて不謹慎だって言われた。でもそんなことをしてうまくいったためしがないんだ。心が暗く閉ざされるだけじゃないか。
会社の人には何度も主張したけれど、どうしてもおれのようには考えられないらしかった。頭から相手にされなかったよ」
ツバサは昔のことを思い出していた。いろいろなことがあった。
「仕事だって冒険の旅みたいなものだ。その途上で自分にマイナスな意見ならばおれは聞かない。批判は受けるし改善もするけれど、安全を選んで冒険を諦めてしまうような意見ならばおれは聞かない。マイナスな思考は本当に可能性をなくすし、幸せから遠ざかると思うんだ。別に無理をしてプラス思考なのではなくて、自然に自分の伸びたい方向に自分の分をわきまえて常識的な範囲内で向かっていきたい。あの人と話したいなあと思ったら話し、これをしたいなあと思ったら飛び込んで少しずつスパイラル状に向上していきたいだけだ。
どうせ難しい――世間は確かにそういう発想なのかもしれないけれど、そんなこと言ったら全ては難しいことばかりじゃないか。可能性を危惧することは一見とても正しいけれど、そんなことばかりしていたら人類はいつまでも同じ場所にとどまって進歩してこなかっただろう。失敗の恐れがあるとか、普通はこうするだとか、人並みに生活できる上でのことならば、そんなのどうだっていいことだ。おれはただ楽しんで向上していきたいだけだ。その方が幸せになれる。
決して無鉄砲なわけじゃない。失敗したときダメージが最小限になるように注意はしている。だがそれ以上は考えない。選んだ旅路が楽しいものであるようにと……ただそれだけだ。
人間には性善説と性悪説があるけれど、おれは性悪説を唱える人の方が被害には遭いにくいけれど、幸せを人からもらうのも少ないと思う。そして懐疑は懐疑を呼び、そういう人に囲まれて、その人の説を立証する形になりがちだと思う。
性善説の人は、確かにだまされたり裏切られる危険性は多いけれども、その点だけ注意して生きれば悪人はその人の周りからいなくなり幸福に包まれてゆくと思う。性悪説の方が一見正しいし立証しやすい。でも真実と幸せとは違う。人生、黙っていたって、プラス思考でいたって、悲しみはやがて必ずやってくる。そのことに身構えたり、あれこれと理屈をこねくりまわすよりも、今、この瞬間に明るいものに向かって一歩を踏み出す方がいいじゃないか」
行くな。それだけのことがアスカにどうして言えないのか。元のひとりぼっちの場所に戻りたくはなかった。二人で新しい境地に辿り着きたかった。
防波堤から眺める波は白い飛沫を夜空に溶かしながら荒くうねっていた。それは故郷の風景を思い出させた。お前など必要ないと叫ぶような荒々しい海、もう遙か遠い場所に来てしまったと思っていたけれど、本当は気がつかなかっただけで、あの海のそばにずっといたのかもしれない。おれは何も変われていないのかもしれない。
「私、どうしたらいいの?」
アスカの冷たい言葉が胸に突き刺さった。かつて心から信頼をよせてくれた人をこんな風にしてしまった。これがおれの姿なのだ。こんな世界しかおれには作れないのだ。
目を閉じてツバサは胸の痛みにたえた。
「ゆがんだ家庭の中、道をそれないように頑張ってきたつもりだったけれど、でもやっぱりいつのまにかおれは歪んでいたのかもしれない。
人が必要とする、人生のコップの中に注がれるべき愛情の必要絶対量は、どんなに意志を強く持っても、どんなに他に楽しみを見つけても、どんなに強がって諦めたふりをしていても、どんなに友人に励まされても、どんなに未来に夢を馳せても、確実に所要の分量が存在して、どんなにごまかしても足りない分量を必死に補おうとしてしまうんだ。砂漠があっという間に水を吸い込むように、渇望していた分だけ、あたえた方が驚くほどに愛情を見つけた時には相手に過剰に要求してしまう。
おれの場合はそれが恋人に出た。他の場所ではなんとか隠しおおせた心の渇望も、心を許した人にはその埋め合わせを無理じいするほどに現れた。まるで愛を試すみたいに。
やっぱり歪んでしまったんだ、おれは……」
彼は下を向いて唇を噛みしめた。様々な後悔が胸をよぎった。
「そんなの人それぞれだよ。みんながそうじゃないんじゃない」
いつもアスカはそういった。その言葉を否定したかったんだ、おれは。
『その時々で必要な人って違うでしょ? どちらが大切かなんて較べて言えないよ』
あの時もアスカはそう言った。いつも自分を相対化されて、あげく無価値にされてしまう。いつも無力感を噛みしめなければならないつきあいだった。ツバサは自分の方が大切だと言ってほしかっただけだったのだ。二人の関係性の中では、彼だけの場所はなかった。心はいつも満たされなかった。
「……おれは、潔くない人にはいくら待っていても本当の愛情はめぐってこない気がするんだ。欲と真髄の望みの区別のついていない人には、本当の満足、つまり幸福は訪れないと思う……」
たとえアスカを傷つけてでも。愛を試すように、自分を突き出してきた。新しい関係の上で生きていきたかった。だがそのことがそもそも間違いだったのかもしれない。
第二章
風が荒れ狂っていた。ぽつぽつと小雨が降り出してきた。
「もう……ダメだね……」
アスカの涙声が、ツバサの胸を突き刺した。。
「悲しいよ……」
声は震えていた。
「……いろんなこと、あったね」
心臓を握りつぶされたような思いがした。
「つらいよ……」
肉声には人の心を動かす何かがある。心がじかに伝わってくる。ツバサの心は震えた。
「私、あなたと仲よくなれてよかった……」
アスカは泣きだしていた。
「私が苦しんでるの、わかる?」
ツバサは首を横にふった。これ以上、聞きたくない。時間よ止まれ、今ここで。
「嫌いになって、私のこと……。嫌いになっていいよ……」
アスカが泣くのを見たのは、はじめてだった。不倫していた時は、彼の愛情に傷つきながらも、うれしくてよく泣いたと話してくれた。そんな彼女の泣き顔を、ツバサは一度でいいから見てみたかったのだ。ようやく今それを見た。おれにはこんな涙を流させることしかできないのか……。
「いやだ、いやだよ、離れたくない」
彼女を強く抱きしめた。バラバラに散らばったおのれの体の一部を必死にかき集めようとでもするかのように。いやだよ、アスカ、離れたくない。力いっぱい叫んだ。離れたくない。離れたくない。何度も繰り返した。呪文のように。
腕の中にアスカの震える呼吸と温もりがあった。それなのに再びそれを取り戻せないなんて……
悲しいのは一瞬だけだよ。
いやだ。いやだよ、アスカ。離れたくない。離れたくない。
アスカの体の中に入っていこうとするかのように抱きしめた。最後まで言わせはしなかった。このままひとつになって、その瞬間に、この人生が終わってもいいと思った。
離れたくない。離れたくない。離れたくない。
命が爆発して叫ぶ。
きつく閉じた瞼の間から熱いものが噴きこぼれた。二人の旅路をここで終わりにするなんていやだ。いやだ。
離れたくない。離れたくない。
何もかもが消えて、叫びだけが残った。
離れたくない。その叫びだけが残った。
全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ。
眉間にしわをよせて目を閉じてアスカも何かに必死に耐えていた。
おれをひとりぼっちにしないでくれ……
どこにも届かない言葉が、ただむなしく虚空に響いて、やがて消えていった。ツバサの背中を肩を頭を、手で何かを確かめるようにアスカは撫でた。
一緒にいられるのならばそれだけでいい。離れたくない。行かないでくれ。
最後の力を振り絞ってツバサは心で叫んだ。
見てるからね、どんな男になるか、遠くで見てるよ。
腕の中からそっとアスカは離れていった。
いい男になるよね。これからもっともっといい男になる。
行かないでくれ……
ツバサは最後に呟いた。
アスカの唇が何か動いたが、声はもう届かなかった。アスカの立ち去っていく後ろ姿を、彼は見ていた。
何もできなかった。ただ見ていただけだった。
第三章
「突然、マリアは家を出ていったんだよ。子供を置き去りにして若い男と一緒にな」
キリヤの目は赤く濁っていた。駆けつけたときには既にめちゃくちゃに酔っ払っていた。無精髭が伸びて肌が荒れきっていた。その荒廃ぶりにツバサは胸が痛んだ。
彼にはキリヤには言えない秘密があったのだ。キリヤの妻マリアと稽古場で二人きりになった時のことだ。
「あなたを一人前の男にしてあげる。だから私の言うことをききなさい」
耳元にそう囁かれて誘惑されたことがあったのだ。舞台俳優としての自分に期待してくれていたのではなかったのか。屈辱を感じたことをおぼえている。
苦しみながらぽつりぽつりとキリヤは何があったのかを話しはじめた。
「マリアとおれの子はな、知能がすこしおくれているんだよ。普通の子供と同じようには学校に行けない子供なんだ」
ツバサの心に衝撃が走った。キリヤの舞台『画家と少年』は実の息子がモデルだったということか。そんなことまるで知らなかった。マリアさんもそんなことはひとことも言わなかった。
「でもな、夫婦ともに仕事は順調で忙しかったから、子供の面倒は家庭教師を雇ってまかせきりだった。それが間違いだったんだよ。その家庭教師というのがマリアの不倫相手なんだ」
苦しさを飲み干すようにキリヤはまた酒をあおった。
「……置き手紙ひとつ残して去っていったマリアと、せめて直接話しをしようと、おれは家庭教師のアパートへと出かけていったんだ……」
酔った目でキリヤは喋りつづけた。うまく呂律がまわっていなかった。
雇ったときの履歴書の住所を調べて、キリヤはそこに出かけていったのだという。
薄汚れたアパートの二階へとキリヤは上がっていった。廊下にはひからびた虫の死骸がそのままになっていた。その黒い虫の死骸の前で、まるで台詞を忘れた役者のように、しばし立ちすくんでしまったのだとキリヤは語った。
恋愛結婚だった。人並み以上の生活をこれまでマリアは享受してきたはずだった。子供だってマリアが欲しがってのことだった。それがどうしてこうなってしまったのか。どこで歯車が狂ったのか。
自分とのこれまでの日々を捨てて、子供を捨て、裕福な暮らしを捨てて、こんなぼろアパートで暮らそうとマリアに決意させたものはいったい何だというのか。
もう自分を愛していないのだろうか。もう子供も愛していないのだろうか。それ以上の何かを家庭教師の中に見つけたとでもいうのか。
呼び鈴を押そうとして指を止め、しばらく気持ちを整理しようと息を整えた。
衝動のままにこんなところに来てしまったけれど、この事態にどう対処すればいいのか。
劇作家だというのに、おれは今、何をどう順序立てて話していいのかわからずにいる。事のなりゆきにただ戸惑い、途方に暮れている。
ためらいを押しのけて、キリヤは呼び鈴を押した。向こうの出方を見ようと思った。
苦い思いのキリヤとは対照的に、無邪気な若い男の返事が部屋から響いてきた。家庭教師の声だった。親子ほどにも年齢の離れた、まだ一歩も実社会に出ていない、ただの美大生。劇団の大道具にさえ使えそうもないただの絵描き志望。そいつが……
扉が開いて、入り口にまだ幼さが顔に残った家庭教師が顔を現した。
寝起きのぼさぼさの髪。目が合うと反射的に扉を閉めようとした。が、とっさに足を入れてそうはさせなかった。アパートの扉が硬質の音を夜の闇に響かせる。
「な、なんですか?」
「なんだじゃない。いるんだろう、マリアが?」
キリヤは扉を力づくでこじ開けた。
「マリア、話しをさせてほしい」
部屋の中に大声で呼びかけた。男と女の汗の匂いがした。直前まで何が行われていたのかを想像させるにはじゅうぶんだった。
「ちょっとあなた、何なんですか。警察を呼びますよ」
その言い方で、家庭教師がもはや自分を雇い主とは認識していないことがわかった。当然といえば当然だった。雇用関係が今後も続いていくと思う方がおかしい。
「マリアをかえしてくれ」
「あんた、どうかしているんじゃないか。かえしてくれって僕は盗んだわけじゃないぞ。マリアは自分から家を出たんだよ」
マリアと呼び捨てにしていることにショックを受けた。男が自分の女を呼ぶ時の言い方だった。奥さんと呼んでいるところしか今まで聞いたことがなかったのだ。
「うちには息子がいるんだよ。君はその子の世話をする家庭教師として雇われたんじゃないか。だったらあの子のためにもこんなことはしないでくれ。マリアはジローの母親なんだ。いるんだろう、マリア!」
マリアは一度流産していた。だから最初の子供だったのにジローという名前をつけた。マリアがそうしたいと言ったからだ。
玄関から部屋の奧を覗き込んだ。息をひそめて隠れている女の気配がする。間違いようがない。マリアはここにいる。
無数の油絵が雑然と立てかけてある部屋だった。剥き出しの蛍光灯、あまい汗のにおいがする乱れた蒲団――
「おい、断りもなく入るなよ」
家庭教師がキリヤの胸を掴んで部屋の外に突き出した。突然の夫の来訪におろおろしていたのが、ようやく自分を取り戻したようだった。思ったよりも腕力があった。雇用関係が消滅すると相手の男が強くなったように感じる。男対男になったからだろう。
臆せずにキリヤはもう一度アパートの中に呼びかけた。
「マリア! ジローはどうなるんだ。お前の子だろう」
「あんたたちは捨てられたんだよ」
「おまえに聞いているんじゃない、マリア」
「マリアは親権を放棄するって言ってるよ。あんたがひとりで育てればいい」
家庭教師は強い口調で言った。まったく男ってやつは女が絡むとこれだ。頼りがいのある男の姿を女の前で演じようとしてオス同士は争う……うんざりしたが、しかし自分が若かったときのことを思い出せば文句は言えない。自分も同じことをしてきたのだ。今度は自分が挑戦される側に回っただけのことだ。
ずっと挑戦者のつもりで生きてきたのに、いつの間におれは挑戦される側に回ってしまったのだろう。そういえば髪が真っ白になったのは何歳の頃だったかな?
「そんな勝手が許されると思っているのか、マリア」
キリヤも引きさがることはできなかった。ジローのためにも。
「許すも許されないもないさ。もうマリアはあんたと一緒に暮らす気はないと言っているんだぞ。縄でしばって無理やり連れて帰るかい? やれるもんならやってみろ」
「おれたちはまだ夫婦なんだぞ」
家庭教師を無視して、マリアに向かってキリヤは大声を出した。
「どんな法律をもちだしたって駄目さ。気持ちがもう離れてしまっているんだからな。それとも法に訴えてでも婚姻を続けたいのか」
家庭教師がせせら笑った。その顔……屈辱にキリヤの視界は歪んだ。
法や慣習などでは縛りきれない人間の自由な魂、そのようなものを劇作家としてこれまでキリヤは舞台の上で謳いつづけてきたのだ。そんな自分が法的手段に訴えて人の心を縛りつけようとするのか……
「もうダメなんだよ、何を言ってもな」
家庭教師の言葉が追い打ちをかけてくる。
劇団では舞台の上を取り仕切っている全能の支配者、そのおれが外の世界ではこんなにも無力だったとは。
ずしりと重たいものが心にのしかかる。紙っぺらにしか過ぎない婚姻届、その法的拘束力におまえは頼るのか。人の心よりも紙切れの契約の方が大事か?
チクショウ、なんて矛盾だ。今までおれが表現してきたことはいったい何だったんだろう。
自分に問いかける。
答えは決まっていた。これまで自分が舞台で描いてきたことを否定するようなことは、この場で死ねと言われているようなものだ。それだけは選べない。
キリヤは声が出なくなった。
マリアの心が誰にあるのか、それが大事なのだった。
そんなことは今さら若造に教えられなくたってわかっている……
突然、キリヤは心とはまるで裏腹の行動をとった。いきなりアパートの通路に土下座したのだ。虫の死骸やヤモリの糞がズボンを汚すのも構わなかった。
「きみ。頼む。お願いだ。きみはきっとマリアにたぶらかされているだけだ。マリアの上流階級の雰囲気や社会的地位に目が眩んでいるだけなんだ。目を覚ましてくれ。そりゃあ今はあいつには金も地位もある。まだ若く華もある。だけどそのうちにわかる。それは愛じゃない。きみ自身のためにも間違ったことはしないでくれ。おれたちの家庭を壊したりしないでくれ」
目の前の光景が信じられないとでもいうように、家庭教師は突っ立っていた。
「もう帰れ。本当に警察を呼ぶぞ」
乾いたかたい声で唇を震わせた。
「せめてマリアに会わせてくれ」
「それなら教えてやる。マリアは妊娠してるんだ」
石のように土下座したままキリヤは動かなかった。妊娠だって?
「あなたを軽蔑するわ。なんて格好」
「マリア」
土下座したまま顔をあげた。マリアが奧の部屋から現れた。慌てて着た服の着こなしだった。家庭教師と何か目配せをしたのをキリヤは見逃さなかった。
「あなた、恥ってものがないの?」
「妊娠してるって本当か?」
「あなたには関係ないわ」
マリアは肩をすくめた。力の抜けたその言い方がショックだった。
「関係ないっておまえ……。英語学校はどうなるんだ?」
「言っておくけど、離婚してもあれは私のものよ」
「おれの名義になっている」
「確かに開業資金を出したのはあなたよ。だけど今スクールは設立当時とはくらべものにならないほど大きくなっているわ。それは私の力よ。ハーフの私が授業をやっているからこそ良家の子女が集まるんじゃないの。学校は私のものだわ。出るところに出たっていいのよ」
「出るところって何だ」
「法廷よ。決まっているでしょ」
また法律か……。キリヤは全身から力が抜けていく思いがした。
「裁判で不毛に時間を浪費するのが嫌なら、学校はおとなしく私に譲ることね。それで清算してあげる。家も親権も劇団も他に何も要求しないわ」
「ジローよりも英語学校のほうが大事か」
一瞬マリアは言葉をつまらせ、キッとキリヤを睨みつけた。そのような問いかけをしたことを憎んでいるかのように。
そうまでして別れたいのか。そうまでして家庭教師がいいのか。いったいなぜだ? どうして子供を手放せるんだ? なんのための結婚だったんだ?
次々と問いかけが心に浮かんでくる。
「なんて情けない男。こんな土下座男にいつまでも関わっているのは嫌よ」
マリアは家庭教師の腕を引っ張ってアパートの中に戻ろうとした。話しを打ち切ろうとしている。
気持ちが切れていくのをキリヤは感じていた。この関係におれをつなぎ止めてきたものはこれまでいったい何だったのだろうか。
キリヤは若い頃、妻子持ちの不倫男からマリアを奪いとったときのことを思い出していた。そう、ちょうど今の家庭教師のように……あの頃は何も持っていなかった。自由と夢だけがあった。今はどうだ? おれはあの頃よりも何かを手に入れたのかな?
あの頃に、戻りたかった。失うものが何もなく、ただ獲得するためだけに捨て身で挑戦できた若い頃に。
あの頃、おれはこの美大生のような顔をしていたのかもしれない。おれはいつ自由を失ってしまったんだろう。
今は守りつづけていくことだけで精一杯だ。マリアも、ジローも、劇団も、仕事も、社会的な責任も、何もかも。
つかれた、おれは……
「もう二度と来るなよ」
そう吐き捨てて、大きな音を立てて家庭教師はアパートの扉を閉めた。
土下座したまま、キリヤはしばらく立ち上がることも声をだすこともできずにいた。しばらくたった後、やっと自分が何をしにここまで来たのかがわかった気がした。
もう駄目なのだと理解するために、この目で確かめて納得するために、おれはここまで来たのだろう。
心が、力が、情熱が、体内から急速に失せていくのを感じる。
これまでおれは何のために生きてきたのだろうか。
第四章
話し終えると、またキリヤは一気に酒を飲みほした。何ともいいようのない無念さが周囲に立ち込めていた。
愛ゆえに心を狂わすことは、ツバサの人生から真っ先に排除された事柄だった。母のような生き方だけはしたくない、そう思いつづけてきたというのに、またおれはそれを目の前で見せつけられている。
「おれは妻の心ひとつ掴めなかったのか。何だったんだろう、これまでのおれの人生は」
キリヤは自嘲する。人生のパートナーを失ったというだけでここまで人が変わってしまうのか。ツバサはやつれ衰えた病室の母の姿を思い出さないわけにはいかなかった。同じだ。
「何にもならなかったんだなあ、おれは。誰の心の中にも生きられなかった。一番身近にいて苦労を共にしてきたマリアの心にさえも」うなだれるキリヤ。
「そんなことはない。キリヤさんの生き様はちゃんとおれたちの心に生きている」励ますように、ツバサは語気を強めた。おれの本当の父親は、その画学生のような薄汚い泥棒に過ぎなかったのだろうか?
疑問が渦巻く。
「そうだよ。キリヤさんがおれたちの世界を変えてくれたんじゃないか」
一緒に話を聞いていたケイスケの励ましにも、キリヤは声もなく笑っただけだった。すべてがどうでもいいとでもいうような無気力な笑みだった。
おれたちの慰めでは足りないのか。自分を裏切った女でなければこの人の傷は癒せないのか……
無力感がツバサの心を黒く染める。
そばにいるというのに何もできなかった。実の息子だというのに。あのとき自分を捨てて去った男だけが、母の心をどうにかすることができたのだろう。それはキリヤさんも同じだ。これが、愛に生きるということなのか。
「マリアとは別れることになるだろう。英語学校の権利なんてどうでもいい。あいつの言うことにも一理あるし、もうおれにはどうだっていいんだ」
もう関わり合いになるのもごめんだ、とでもいうようにキリヤは手を振った。
「あいつは独身の頃からずっと不倫がちの女だったからなあ。不倫がくせになるタイプっているんだよ。マリアはおれと知り合う前、銀座のクラブでホステスをしていたんだ。肌が白くてスラリと背も高くエキゾチックなあの顔立ちだろ? もてたらしいが、そこで知り合う男たちはみんな金持ちの既婚者ばかりで、独身者と恋愛したのはおれがはじめてだと言っていた。それさえ本当かどうか今となってはわからないけどな」
キリヤの目は赤く濁っている。脳裏のマリアをかき消すようにまた酒をあおった。
「だいたい結婚や家族というものを何だと思っているんだ。そんないい加減な気持ちだったのか、あいつは」
キリヤは吐き捨てた。
もうこれ以上の醜態は見せないでくれよ、キリヤさん……。ツバサは心の中で呟いた。尊敬した人のこんな姿は見たくない。
口元を押さえて、キリヤが急に立ちあがった。吐き気が込み上げてきたのだろう、トイレに駆け込んだ。
「ちょっとおれ、見てくるよ」
心配したケイスケがキリヤの後を追った。
取り残されて一人きりになったツバサは感じていた。人は身勝手だ。自分が当事者か傍観者かで言うことが百八十度変わってしまう。立派な意見や建前は自分が被害者になったとたん、被害者ゆえの「感情」というものが湧いて出て、続けられなくなってしまう。
キリヤにしてもそうだ。
『不倫はある意味、本当に純粋な恋愛だよな』マリアとの仲がまだ順調だった頃、キリヤはツバサにそう言っていたのだ。
『世間じゃ許されないことかもしれないけれど、自分の気持ちをどうすることもできないで愛してしまう。だからこそ本物なんだよ。マリアは一生懸命に人を愛したんだなあ』
そう言っていたのだ。それが今はどうだ。今は本物じゃないというのか。何も変わっていないじゃないか。昔と違うのは、自分が傍観者か関係者かの違いだけじゃないか。
ケイスケに肩を抱かれながら、キリヤが戻ってきた。吐いたのだろうか。目に涙をためている。
「なあツバサ、おれはもう引退するよ」突然そう呟いた。「劇団のことは、おまえにたちにまかせた。みんなで力をあわせてやっていってくれ」
崩れるようにしてキリヤは椅子に座った。
「マリアが言ったんだ、おれのことをつまらない男だと……そんな人間のつくった芝居が人の心を打てるはずがない」
ぽつりとキリヤは呟いた。あの自信にち満ち溢れたキリヤマサキがここまで参ってしまうのか。ただ愛に裏切られたというだけのことで。
「何を言うんだ。キリヤさんとマリアさんは求めるロマンが違っただけだ。ただそれだけのことじゃないか」
ツバサはキリヤを睨んだ。それをおれは認めるわけにはいかないのだ。これまで生きてきたことに賭けても。
「夢がなくても、人は生活していくことはできるよね、けれども同じ夢を持つ者どうしでないと、人生、起きて寝て食べて排泄して……ただ生活するだけの人生になってしまうと思うんだ。たとえ惚れている事実は同じだったとしても、キリヤさんの夢を解する人と解さない人に、人は必ず分かれる。そして同じ夢をもてなければ、やがては惚れている気持ちまで冷めていってしまうと思うんだ。
キリヤさんの芸術や夢を、きっと今のマリアさんはもう何も感じなくなったんじゃないかな。だってキリヤさんは決してつまらないと評されるような男じゃないもの。自分のライフスタイルをきちんと持って、人生の夢や芸術を語れて、時に茶目っ気たっぷりの大胆なアプローチで世間の演出家たちをあっと驚かせ、写真家としても劇作家としても世間に認められている。映像的なセンスを持っていてそれでカネを稼ぐことができる。そんな男がつまらないなら、おもしろいやつなんていったいどこにいるんだ」
祈りにも似た言葉をツバサは紡いだ。言い聞かせるように。
誰に? もしかしたら自分自身に。
「自分の好きなライフスタイルで暮らしたい。きっとマリアさんはそう思っているんだろう。きっと彼女は、本心を言えば、今はもう芝居が嫌い。だからキリヤさんの演出スタイルや映像センスなんてもうどうでもよくなったんだ。派手好きな女性だから、心を感動させる夢やイマジネーションなんかよりも、お金をつかって派手にバンバン遊び歩く即物的な現実の生活でないと満たされなくなったんだろう。つまらないのはマリアさんの方じゃないか」
愛に裏切られて自分を傷つける人間を見るのはもうまっぴらだった。勇気がほしい。人にあたえられるだけの勇気が。キリヤにも、そして、自分自身にも。
「おれは、愛は、人生は、冒険であると思っている。どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……。冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も。
マリアさんはわかっていない。自分の環境が整ったときに、自分の望む人と、自分の望む生活スタイルで……そんなことはありえないんだよ。先は見えない、予測できない、そんな中でおれたちは一つ一つ決断している。生活の変化を決意するのも博打、変化を見送るのも博打。おれが今ここにこうしているのも、博打のタイミングに飛び込んだり、見送ったりした結果だと思うんだ。
劇団に飛び込んだのだって博打だった。どの劇団に入ろうか、それも博打。どんな生き方をしようか、それも博打。あの人が好きだけれど結婚しても幸せになれないかもしれない、それも博打。じゃあもっと別な人にしてみようかな、それも博打。別れないことだって別れることと同じくらい博打だ。どんなに安全牌に見えたって、意外とそうじゃないことをおれは知っている。どんなに頭の中でいいことばかりしか思い浮かばなくたって、そう想像どおりにはいかないことをこれまでおれは何度も痛い目にあって思い知ってきた。だけどまだマリアさんは現実に痛い目を見ていない。育った環境が恵まれたすぎたせいだろう。失敗が、反省が、あの人には足りないんだ。
先は見えない、予測できない中で、おれたちはひとつひとつの決断をしていく。時の流れの中で、たった一度しかない、やり直しのきかない人生を。
この世界では、何がどこでどんなふうに絡み合うか誰にもわからない。ほんの微妙なものでさえ全てが回り巡って自分にかえってくる。先の見えないことに対して選択をしていくって本当に難しいことだ。
条件は変えられるけど、人は変えられない。また再び誰かを好きになるかも知れないけれど、同じ人ではないわけだよね。
前の人の短所を次の人の長所で埋めたって、前の人の長所を次の人はきっと持ちあわせてはいない。結局は違う場所に歪みがでてきて食い違う。だから人はかけがえがないんだ」
キリヤがいたから、今の自分たちがいる。だからツバサは自分の言葉によってキリヤに立ち上がってほしいと願った。相手にとって自分も同じような大きな存在でありたかった。
あの母親だって、今のおれができあがるために必要だったかもしれないのだ。顔さえ知らぬ、名前も知らぬおれの本当の父親でさえも。
「おまえはそっくりだなあ、おれの古い友達と。あいつに言われているみたいだよ、本当に」
誰か違う人の面影をツバサに認めたかのような顔をして、キリヤは目の前のツバサを濁った目でじっと見つめた。瞳の奥で遠く過ぎ去ってしまった青春時代のことを、思いだしているのかもしれない。
第五章
汗ばんだ鎖骨がミカコの体の奥に秘められた白い骨格を連想させた。薄黄色のタンクトップからのぞく腋。ホットパンツから健康そのものの肌を出して、大きなトートバッグを腕からさげている。眩しい街の中で、ツバサは濃い黒いサングラスをかけていた。夜の世界に生きている彼は昼間はサングラスをかけていることが多かった。心の中に擬似的な夜をつくりだしているのかもしれない。その方が落ち着くのだった。
「ここは勤めている会社のおじさんに教えてもらったのよ」
ふたりが紙や紐の専門店が建ち並ぶ問屋街にやってきたのはサイバー店舗『ココ・ウェーブ』の商品イメージを明確にし、材料を仕入れるためだった。
問屋街の入口駐車場にはトラックやワゴン車がたくさん停められていた。ほとんどが商用車で、地方からわざわざ買いつけに来ている人もいるようだった。普段暮らしている町にこんな問屋街があるとは知らなかった。故郷の小さな漁港、あの町を飛びだして以来、広い世界で生きているような気になっていたけれど、結局どこで暮らしても身のまわりのことで精一杯でたいして違いはないのかもしれない。
人群れに躊躇しているツバサの腕をとって、ミカコは問屋街の中に突入していった。古びた埃っぽい問屋街、ふれあう体、人と人。首筋を汗が流れる。耳元で聞こえる商売の声、通行人の声。だが人ごみの中に入ってしまえば外から眺めていたほどにはストレスは感じなかった。まるでお祭りの列にまぎれ込んだみたいだ。カラフルな包装やあふれるほどの商品に包まれて、気分がうきうきしてくる。まるで舞台監督が大部屋の中から使える俳優を捜しているみたいだ。果たしてこの中のおれはどれだろうか。
「これだけたくさん商品があると、かえって選べないね」
ミカコは困った顔を見せた。
「どれがいいとか悪いとかいう問題じゃないからね。役者の個性みたいなものさ。キャスティングする側にはっきりしたイメージがないと絞りきれない」
「そうね」
ミカコはくすっと笑った。こんなときも芝居を忘れないんだ、と笑ったのだろう。
編んだバスケット、きらびやかな光沢を放つ色紙、たけのこの手漉き和紙、わざと色褪せた造作の綴り紐。ミカコは色々な品物を手にとってじっくりと見較べている。
ミカコのセンスには時々驚かされることがある。
「いいセンスだよね。どういう基準で選んでいるの?」
彼女の選ぶものは、さすが著名なウェブデザイナーだと唸らされるものが多かった。
「え? 直感よ。感覚的なもの。言葉で説明するのは難しいなあ」
ミカコは、おかしな質問をするのね、という顔をした。
美的センスとは何だろう。審美眼というものがあるのならば、彼女のそれをぜひ身につけてみたいとツバサは思う。自分のアンテナに引っかかる色はどれだろうか。自分の感性の網に引っかかる形はどれだろうか。商品を手に吟味しながらそんなことを考えていた。最後は自分の直感、感覚、感性を信じるしかないのだろう。それらは知識じゃない。知識なら言葉で説明できるはずだ。作品でしか表現できないもの。それはこれからおれが書こうとしている舞台の戯曲だって同じことだ。
彼は劇団の新しい戯曲をなかなか書き上げられずにいた。アイディアはたくさんあるのだが一編の物語としてまとまりがつけられないのだ。エピソードがたくさんありすぎて交通整理がきちんとできない状態になっていた。どれもこれも捨てがたいエピソードばかりだったからだ。
ここのところアパートからほとんど外に出ないで執筆に苦しむ日々が続いていた。それを察してミカコが無理やり外へと誘ってくれたのだった。久しぶりの外の空気は新鮮だった。太陽が眩しく、歩くのは気持ちがよかった。からだをつかって滞っていた血液が流れると思考もまた流れていく。頭の中が整理されていく気がする。
「家から一歩も外に出ないのってストレスがたまるよね。外の空気にずっと触れないでいると。私は散歩をするとわくわくして元気がでてくるの」
商品を吟味しながらミカコが話しかけてくる。
「ツバサは何かを生み出そうとするときに、閉じこもって自分の中から何かを掴もうとするけれど、意欲って意外と自分の内側からこんこんと湧いてでてくるものじゃなくて、まわりの人や世界からもらってくるものなんだよ」
たしかにそうかもしれない、とツバサは思った。今なら小さなエピソードは捨てられそうな気がする。
次はこっちのお店を見よう、とミカコは彼の腕を取ってぐいぐい引っぱっていく。汗ばんだ肌と肌が触れ合った。
「人間って不思議だよね。私ね、ひとり暮らしをはじめたとき、どうせひとりなんだから毎日いちいち片づけなんかしなくてもいいや、その方が時間を無駄にしなくてすむ、なんて思っていたの。だけど大間違いだった。きちんと片づけないと心が引き締まらないし、結局、その方が却って万事効率が悪くなっちゃうってことに気づいたの」
ツバサが取りかかっている戯曲も、一度すべてを捨てて、そこから再構成するふんぎりがつかない限り、まとめあげることはできないのかもしれない。
「私はね、おいしいものを料理したり食べたりしておしゃれに生きてみたいの。美しく生活するってステキだよね。とてもまだ私は『美しく暮らす』域には行っていないけれど、その手前の『楽しく暮らす』ことはクリアできてる気がするんだ。生活って楽しいよね。一日中寝ているのも楽しいし、お芝居も楽しい。映画も、外出するのも楽しいし、旅行も楽しい。料理も、お気に入りのインテリアの中で暮らすのも、自分好みの服、アクセサリーを選ぶのも、運動するのも、毎日を自分で好きに使えることは本当に楽しいよね。
でもそれは健康だから。そして大好きな人がいるから」
ヤシの葉の紐や、南国の花や貝の模造品などを手にとって彼に見せて意見を聞きながら、ミカコは話しつづけた。
「私はね『美しく暮らす』ところまで行きたいな、って思ってるの。だけどなかなか難しい。だって楽しい毎日だけでかなり幸せだから、その上、さらにって難しいの。『美しく暮らす』ってもちろん楽しい生活がベース。その上に『自分に怠けない』という一文字が加えられたなら、私にとって人生はとても充実したもので、胸をはることができるものなんだ」
美しい暮らし。生活に胸をはる……そんな発想、ツバサにはなかった。
「そうして『美しく暮らす』ことによって心が充足されたなら、あとは満ちたりたものを外に向けてひろげてゆきたい。それができれば人に対しても物に対しても自分としての可能性がひろがってゆくと思うの」
ミカコと話しをしていると自分の心にある何かが揺さぶられているような気がした。眠っている感情や記憶の一部を揺り動かされるような感じがするのだ。
他人と違和感なく共鳴できる、人間同士そういうことは滅多にあることではない。それはこれまで生きてきた中で痛いほど感じてきたことだった。なかなか人と人とは合わないものだ。
「聡明なネズミも愚鈍なクジラにロマンで負ける……あなたが勧めてくれたミナトセイイチロウ、読んでみたの。とってもすてきだった。あの物語のヒロインだって波に恋して海のかなたに夢をはせても、男ほど命をかけて海に溶けようとする気持ちにまではなれないんだもの。それが切なくて泣けた。作者はどんな人なのかしら。どんな生き方をしてきた人なんだろうね?」
ミカコがミナトセイイチロウを認めてくれたことが自分のことのように嬉しかった。同じことにアスカは興味がないと言ったのだ。
いろいろな品物を手に取ったが、その日は結局何も買わなかった。
「時間を置いてまた来てみようよ。もう一度来て、冷静な頭で同じものがいいと思ったらそれを選ぼう」
ミカコの言うとおりだと思った。ふたりは問屋街をあとにした。眺めただけでも充分な収穫があった。なによりもひさしぶりに原稿を離れて外を歩いた。
人間、歩かないと駄目みたいだ。
アイデアばかりで、それを実現するよりも先に次のアイデアを思いついてしまうツバサには、ミカコはまたとない堅実なパートナーだった。生活に根ざした生き方をしているミカコは、彼よりも遙かに現実を生きていた。理想に駆け上がろうとする彼を、見つめ、追いかけ、ときに推進力をあたえ、ときに墜落しないように支えてくれる。もやもやとしたイメージを空に描くことはできるが、なかなかそれにカタチをあたえることができない彼のイメージの翼には、ミカコのような大地に根を張ることのできるパートナーが必要なのだった。
それにくらべて……アスカのことを思いだした。
人の心は謎だった。
その中で生きることは、海図を持たずに大海原を行くようなものだ。遭難してしまう人も多いだろう。
しかし結局のところ、本当に知らなければならないのは、人の心ではなく自分自身の心なのだろうとツバサは思う。自分の心がわからないで、どうして他人の心がわかるだろうか。アスカの心や、ましてや心を病んで自ら命を断った母親の心などわかるはずもない。
ミナトセイイチロウの海洋冒険小説の中で、波間にただよう小さなボトルの中に入っていたメッセージは、結局『おまえは何者か?』という問いかけだった。主人公を旅へと誘った海の彼方から届いたメッセージの本当の意味は。誰かに呼ばれたからではなく、自分の心からの問いかけにこたえるために旅に出たのだ。
インターネット・サイバーショップ『ココ・ウェーブ』。そこでどんな幸福を、どのように表現するか。彼にぼんやりとしたイメージはある。手にとった人が少しでも楽園の海の幸福な雰囲気を感じてもらえるように、贈り物はヤシの葉の紐で結び、南国の赤い花と貝をちりばめて届けよう。送り主からのメッセージはたけのこの手漉き和紙に毛書体でわざと古めかしい印刷をしよう。表現には工夫を凝らして。あくまでも売るのはブツではなくロマンだ。
新しい事業を立ち上げて彼がつくづく感じていることは、ひとりの力でやれることには本当に限りがあるな、ということだった。自分ひとりでは商品制作もウェブページのデザインもできない。やろうとしていることに対して本当に無力だった。それなのに多くの人たちが手をさしのべてくれる……ツバサの創り出した夢に、というよりはむしろ対外的な顔となってくれているミカコのけなげさ、一生懸命さに対して。ミカコの姿が多くの人の心を打ち、たくさんの協力者が次から次へと現れてくるのだ。
『国内だけじゃなく、海外向けの英語のウェブサイトもつくって世界に発信してみたらどうだ?』
ミカコの会社の上司のひとことがきっかけになって、英語のウェブページもつくることになった。英語の堪能は人は……身近に思いあたる人はひとりしかいなかった。翻訳は純粋にビジネスとしてマリアに依頼した。キリヤとの離婚の連絡役を引き受けていたため、定期的に彼はマリアと会わなければならなかったのだ。マリアは快諾してくれた。「ただでいいわよ」と言われたが、正当な支払いをするつもりだった。身近な人の好意を当てにしないことは、第一のルールだった。
「おれはね、誰もが生まれて真っ白な時に願った夢が叶う人生を送るべきだと思うんだ。自分もそうなりたいし、周りの人たちにもそうであってほしい。そして最近、それは叶うような気がしている。そのやり方がわかってきた気がするんだ。
自分のままで成功できたらとてもすばらしいことだ。けれどうまくいかないなら現実に適合するように夢は変えなきゃ……それは妥協するってことじゃない。ただ適合させるだけ。
望みは叶うんだ、だけど形を少し現実に適合させるために変える。夢は本髄を残し枝葉は社会に適合するように加工する。周囲にはわかりやすいように表現を工夫する。それが夢を叶えるってことじゃないかな」
ミカコと喋っていると、自分でも思ってもみなかった言葉が口から出てくる。それほど彼女がいい聞き手だということだろう。
自分は何者か? それだけが闇の海を照らす灯台の光となってくれるのだ。
第六章
「……事実って自分の体験やそれに伴う感情が残っているととても見えにくいものだよね。気持ち以外にも状況というものがあるし、人は状況や相対的に担わされる役割によって、自分の気持ちいい状態ではいられなくなってしまうってことがあるよね。こんなこと言いたくないと思っても立場上言わざるをえなくなってしまったりとか、ね」
いつもの居酒屋に入って、ツバサとミカコはビールを飲みながら話しをしている。キリヤとマリアの離婚話が、話しのきっかけになった。ミカコならば、アスカの心の謎を、わかりやすく言葉にして解き明かしてくれるかもしれない。そんな気がして、彼はアスカのことをどう思うか聞いたのだった。異性にはわからないことでも、同性ならばわかることもあるだろう。
「なんなの、その人。人間、こうやって生きるぞって力んでいるときには、見当違いの方向に突っ走ってしまっていることも多いんだよ。一生懸命すぎると周りが全然見えないし、勘違いな方向に暴走していることに自分では気づけないし、そもそもそんな時は反省なんてしないわけだからさ」
アスカのストーリーを聞いてミカコは憤慨していた。ツバサの感情は複雑だった。やっぱり歪んでいたのはアスカなのか。おれはミカコにそう言ってほしいのだろうか。わからない。
「その人の詳しい事情は知らないから、はっきりとは言えないけれど、いるんだよねえ、好きになってくれた気持ちに応えたいって誘われれば誰とでも寝ちゃう女の人って。拒否するのが失礼とでも思っているのかしら。でもね、女はカラダを許せばいくらでも異性と関係がもてるんだよ。欲があるから男の人はいくらだって近づいてくるし、やさしくしてくれるわけでしょ。でもそれって人として本当に誇りのもてるつきあいだって言えるのかな」
本当に歪んでいるのは誰なのか。アスカか、マリアか、自殺した母か、それともおれ自身か。
「フリー同士で一対一で真剣に向かい合っていたら、この先ずっとこの人と一緒なんだっていうところで、期待と幻滅、欲と葛藤が絶対にあるはずだもの。
でもその場だけ楽しければいい、あとの責任は負わなくてもいいっていうスタンスだったら『ずっと』じゃないから、相性をつきつめなくたっていいじゃない。面倒なことはその場から流してしまえばいいんだからさ。差し向かいの真剣なつきあいじゃないから関係が続いただけかもしれないってことが彼女にはわかっていないんだよね」
ツバサは何か言おうとしたが、言葉にならなかった。
「遊びって所詮は相手に求める感情のレベルが低いから意外とカンにさわらないものよ。本来、我慢できないものも一時的な関係とわりきれば我慢できてしまう。毎日会うわけじゃないんだし、その時だけのつきあいなら格好つけていいところだけを見せていられるでしょ。徹頭徹尾つきあうつもりがないから我慢できてしまえることなのに、それを『私のどんな姿をみても愛してくれる』『とても相性がいい』と錯覚してしまうのよ、わかっていない人は。
不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」
「不倫マジック?」
ツバサの問いかけにミカコは頷いた。
「好きと愛とは似ているようですごく違う。私にとって愛とは、これから先をともに歩んでほしいっていう欲があるかないかの差。
愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていくおもしろみ。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない。ぜんぜんわかってもらえなくては、やがて気持ちもしぼんでしまう。人間、どんなに献身感があっても、全くの空振り肩すかしでは気持ちもやがて冷めてしまうものよ。人生は一人芝居では満足できないものなの。なにげなくお互いの位置、意味を知っている……これがとてもとても大切なことなのだと思うの。
私はできることならそんな風に結婚の本当の意味を知っている人と歩んでいきたいなあ。結婚を冒険と思っている人と、牢獄と思っている人と、たぶん両者に同じ出来事が起きたとしても、それについての感想・判断・意味づけはそれぞれ違ってくるよね。
はじめから結婚は不自由、束縛と思ってる人は、結婚の本当の意味も素晴らしさもたぶんわからないんじゃないかな。
お互い自由な精神でありたいと願い、けれど二人で生きる価値も知っている者同士であれば、そして相性がよければ、独立した精神を持ったまま歩み寄る醍醐味もわかちあえる理想のパートナーになれるんじゃないのかなあ。もちろん努力が必要だけど、その努力がまたいいと思えるの」
ツバサの心に嵐がわきおこった。おれが求めているのはそういうものではないのだ。うまく言葉にできないが、何かが違うのだ。結婚が誰を幸せにしただろうか? 教えてくれ。
アスカは今、どこで何をしているのだろうか?
喪失感と、嫉妬のような感情に、ツバサは苦しめられていた。自分の気持ちがわからない。
第七章
夏の雨が、坂の町に降りそそいでいた。アスファルトを濡らした雨が坂をぬらしながら駆けくだっていく。海からの夜霧が風に運ばれて白くなる。潮の匂いがただよう。
「話を聞いて、自分が大事な女性が多いなあと思ったなあ。いい意味ではなく、ね」
ミカコとツバサは一つの傘に入って歩いていた。濡れないように寄りそって歩く。
「自分の損得が主軸に来すぎるというか、ズレた意味で自分中心というか、相手の不具合には敏感なくせに自分の不具合は不問というか……妥協や食い合う関係は、もううんざりだなあ。私はもっと真実に『自分』を生きてみたいと思うの」
雨が体を冷やしていく。赤い思考を鎮痛していく。
「なかなか人は変われないよね。そんなに簡単に心が変えられるなら、個性、性格なんてないってことになっちゃうもの。心こそ人なのだから。そう簡単に人は変われなくて当然なのかもね。
でも、そんな中でも、自分ばかり大切な人は何が起きてもよい経験だったって自己暗示しちゃうのよ。自分を正当化するために、起こった出来事を自分にとってよかった事だったとすべて捉えて、そして結局は変われないんだよね。はじめから自己肯定してかかっているわけだから、そりゃあ変われないよ。たぶん一生」
ほかの人からそんな言葉は聞いたことがなかった。自ら命を絶った母の心の謎の鍵は、あるいは目の前のこの人が握っているのかもしれない。ツバサはそんなふうに思った。
「自分が同じ経験してはじめて人の痛みがわかるようになったとその人は言うけれど、同じ経験なんかしなくても、わかる人にははじめからわかるものなんだよ。マザーテレサやナイチンゲールは同じような差別や貧困や病気を自分も体験をした後でやっと人に優しくなれたわけじゃないでしょ?
逆に同じ痛みを経験しても、根が自分中心の人は、やっぱり自分可愛さで自分のことばかり優先するんだよ。だから結局は変われない。経験値というよりも、私は性格の問題だと思うなあ」
倉庫街を抜けると、何艘ものヨットが係留されている波止場になる。白い帆が霧の中にうっすらと浮かび上がっている。桟橋の先には巨大な木杭の上に建てられた水上レストランがあった。
「愛って何だろうね……」
ミカコは呟いた。かつてあのレストランの上で夢のような時間を彼はアスカと過ごしたことがあった。
「いくら人を愛しても、決して自分自身まで相手に差し出してしまっては駄目だと私は思うの。どんなに仲のよい人間関係でも自分の生き方まで差し出してしまっては関係が崩れてしまう。自分の核のところ以外では相手を許し、妥協し、相手に合わせることも必要だろうけれど、自分の本質のところまでいつか理解される日を期待して差し出してしまっては駄目だ。私はそう思うの」
凛としたプライドがミカコの小さな身体にはみなぎっていた。それがまぶしい。それにひきかえおれの心には何かが足りないんだ……
「大切なのは、今、またはこれから、そばにいてくれる人に対し、自分を大切に保ち、自分は自分でたくましく生きる努力をし、過去の失敗から自分を見直し、二人で無理なく気持ちいい過ごし方をすることだと思うの。
昔は人と別れるたびに苦しんだり、どうしてそうなってしまったのだろうと一生懸命に反省し理解しようとした自分がいた。けれどある程度まで反省したら、後はもう考えたってしかたがないことなんだ、と今は思っているの。考えて、わかって、うまくいくぐらいなら、きっともっと人は簡単に理解し合えるし悩みもないはずだよね」
ツバサは背中を丸めた。おれはミカコにくらべて身体だけが大きく、中身は何もない、黒い劣等感で心がじめじめする。身悶えるような思いを振り払えない。きっかけがほしい。再び輝くための心の力が。
「お互いの愛情、相性が合えば、一緒に過ごしていけると信じて、あとはあれこれ頭で考えるよりも、実際に相手にその時間の分だけ優しく愛情をかける方がいい。秘密はただそれだけのような気がするの」
立ち止まって真っ暗な夜の海をツバサは眺めた。どうすればミカコのようになれるのだろう。海のような心になれたらいいのに。
「闇はある。けれどもそれを乗り越えたところで心を自由に解き放って輝きたいの。私は生きることを肯定したい」
彼は、ミカコのように生きたいと思った。
第八章
ツバサが芝居を描くときには、まず流れるような映像が頭の中をよぎるのだった。それは包み込むような「流れ」だったり、駆け抜けるような「流れ」だったり。カメラ目線で動いているイメージが彼はとても気に入っていた。動いているものを瞬間「捉える」という感覚も、流れているものを捉えるために違った角度から「更に流れて捉える」という感覚も、とても気に入っていた。
氷を水に入れたときの溶け出した「際(きわ)」の危うい状態とか。泣き叫ぶ狂気から諦めにも似た限りない優しさに変わる人間の「際」の表情とか。満月が闇夜に溶けてゆきそうな朧げな輪郭の「際」とか。カクテルグラスに挿した赤い花がライティングであたかも自らが発光しているかに錯覚させる「一瞬」とか。限りなく薄いガラスが絶妙なバランスで存在していたのに割れてしまった「瞬間」とか。はじめて好きな異性と触れあったときの戸惑うような期待と不安の混ざり合った「刹那」とか。
抱きしめてしまった後と触れる前の感情は全く違う。水と氷は違う。それらは静止して確立しているもの。
でも移行していこうとする「際」「瞬間」は決して静止していない。その「際」「一瞬」は決して定義づけができない。名づけることができない。その感覚の当事者ですら意識できない流れ……でも確実に存在しているもの。心に強烈に焼きついているけれど、捕らえられない一瞬。何故ならそれはすぐに次の確固たる状態に「流れて」しまうから。
さまざまな感情、状態、状況が混じり合ったその一瞬を、とても幻想的で色気があると感じていた。とても色っぽく、とても儚げ。錯覚にも似た危うい時間。そんな一瞬一瞬に、彼はとても魅力を感じていた。
そんな「流れるロマン」を描きたい。ツバサはそう思って、机に向かっている。
「ねえ、聞いてる」
受話器の向こうでミカコが尋ねた時、脳内の幻想を追いかけるのに夢中で、はじめて何も聞いていなかったことに彼は気づいた。部屋で次の芝居の戯曲を書いていたら、ミカコから電話がかかってきたのだった。
いや、そうではない。原稿を前にして、アスカのことを考えていたのだ。虚構の戯曲に悲しみをうつしかえることで、どうにかこうにか生きていた。書きたいことは、それしかなかった。
「あ、ああ。それでいいよ。全部、きみにまかせた」
キリヤの引退決意は、どれだけ懇願しても覆らなかった。生まれ育った沖縄に戻り、のんびりと余生を過ごすのだという。そんな生き方もありかもしれない。
「頑張ろうね、ツバサ」ミカコは言った。頑張る? 何のために? 彼は自分に問いかける。誰のために? どうしておれは生きているんだろう。何のために生きているんだろう。アスカが自由であるようにと願ったのも本心、束縛したかったのも本心だ。
「もちろん頑張るよ」
彼は静かにいった。自分に言い聞かせるように。
「だけど、おれは頑張るのと犠牲にするのとは違うと思っている。おれは自分をより豊かにするために頑張りたい。自分の中の自分のために頑張りたいんだ。自分をいじめるような生き方はもうしたくない。頑張っている時間すらも愛したいんだ」
何をしても、何もしなくても、どうせ同じこと……たしかにそうだろう。そういう考え方もできる。でも流されるのではなく、あらがいたかった。しかたがないと諦めるのではなく、力の限りたたかうこと。それがおれの生き方だ。幼いあの頃とはもう違うのだから。
電話を切るとツバサは書棚から一冊の本を取り出した。指で文字を読むように表紙のタイトルを撫でた。窓辺に椅子を運んで、ミナトセイイチロウの本を開いた。
本を開くことは、冒険の旅に出るようなものだ。
キリヤのさよなら公演のための戯曲をつくるにあたって、彼ははっきりとミナトを意識していた。ミナトの本を読んでいると、まるで目の前にミナトがいて対話しているようにさえ感じることがある。これは自分のために書かれているのではないか。そう思うことさえあった。
ミナトに憧れて、ミナトを追いかけて、ここまで来た。ミナトがおれのロマンをつくったのだ。
世界に心を閉ざした母親が、ただ一人、愛読していた作家。おれの世界をつくりあげた男。ミナトセイイチロウのロマンの世界に、自分の世界を重ねてみよう。
失敗したっていいんだ。キリヤさんもそういってくれた。たとえかなわなくても力いっぱい挑戦すれば、それで偉大な作家の偉大さを本当に知り、その業績を心から尊敬することができるだろう。不完全燃焼の嫉妬のような悪感情で苦しまなくてもすむ。ねじ曲がった人生をもうおれは送りたくない。
胸に爽やかな風が吹き抜けてくれればそれでいい。
おれとは何だろう。
おれとは、叫びだ。
アスカが教えてくれた。多くの人たちにおれは心をもらった。その心を誰かに返せただろうか。誰かの心に、おれの魂は生きているだろうか。
もう一度、机に向かうとツバサは原稿に向かった。作品の主人公である写真家は、もちろん恩師であるキリヤをイメージしている。
写真家『そのアフリカの呪術師は言うんだ。人の世にいつもはびこるのは『呪(じゅ)』や『怨(おん)』だ、と。確かに『怨』や『呪』の感情は、人間そのものといってもいい、普遍的な感情かもしれない。
けれどそれと同じぐらい不変の光を放つものに『生きる希望』や『夢』があるとぼくは思っている。
現実が辛かった幼い頃、『生きる希望』や『夢』は、ぼくの荒涼とした心をいつもギリギリのところで救ってくれた。その頃ぼくは心では安定した幸福を求めているのに、同じような辛い境遇の人間としか本音のところでは共鳴できない、そんなふうだった。『怨み』と『夢』が心の中に共存していた。
だけど安らかになれた今、『希望』や『夢』は変わらずに求めつづけているけれど『呪(じゅ)』や『怨(おん)』はもう望まないな。
気持ちはとてもわかる。その時の心境も、状況も、そこから逃れる一手も。ぼくと無関係な世界だとは思わない。
怨みも妬みも全てを含めて人間だもの。ぼくはいろいろな感情のつまった雑多な人間だもの。そういった気持ちを認めるし、へんな言い方をするけれど『評価』もする。だけどそのフィールドを求めたり、その中で自分を抱きしめて自己満足にひたる気持ちは今はもうないなあ。
人がおちいりやすいのは『怨み』や『嫉妬』だけれど、不変かつ普遍に求めているものは『生きる希望』『夢』だと思うんだ。それは自由と幸せを求める心そのものだもの。傷ついても前に進んでいく力の源だもの。
皆、それぞれ自分が人生の主役だから。自分なりのアレンジで『生きる希望』や『夢』をかき立てられた時に、その人の人生が輝くんじゃないかなあ』
キリヤにも、マリアにも、アスカにも、ミカコにも、父や母にも、そして自分自身にも。
生きることへの恋と残響を、作品に込められたらいい。