ここではヘルマン・ヘッセ『車輪の下』の書評をしています。黄色は本書から、赤字はわたしの感想です。
ヘルマン・ヘッセの他の書評はこちらをご覧ください。
『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ。白人が見た仏陀。解脱する方法
ヘルマン・ヘッセ『郷愁』個人には自分を完成する責任がある。地域や先祖のせいにはできない。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
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『車輪の下』のあらすじ
物語のあらすじを述べることについての私の考えはこちらをご覧ください。
私は反あらすじ派です。作品のあらすじ、主題はあんがい単純なものです。要約すればたった数行で作者の言いたかった趣旨は尽きてしまいます。世の中にはたくさんの物語がありますが、主役のキャラクター、ストーリーは違っても、要約した趣旨は同じようなものだったりします。
たいていの物語は、主人公が何かを追いかけるか、何かから逃げる話しですよね? 生まれ、よろこび、苦しみ、死んでいく話のはずです。あらすじは短くすればするほど、どの物語も同じものになってしまいます。だったら何のためにたくさんの物語があるのでしょうか。
あらすじや要約した主題からは何も生まれません。観念的な言葉で語らず、血の通った物語にしたことで、作品は生命を得て、主題以上のものになるのです。
作品のあらすじを知って、それで読んだ気にならないでください。作品の命はそこにはないのです。
人間描写のおもしろさ、つまり小説力があれば、どんなあらすじだって面白く書けるし、それがなければ、どんなあらすじだってつまらない作品にしかなりません。
しかしあらすじ(全体地図)を知った上で、自分がどのあたりにいるのか(現在位置)を確認しつつ読書することを私はオススメしています。
作品のあらすじや主題の紹介は、そのように活用してください。
父親の内面は俗物そのものだった。若いころにもっていた心情の豊かさをすっかり失ってしまった。隣人の誰かと名前や住所を交換したとしても特に支障はなかっただろう。
→タイトル『車輪の下』の意味は、こういうことだそうです。車輪は有為転変をあらわします。人間を圧し潰そうとする運命の車輪。車輪の下敷きになるとは落ちぶれるという意味です。主人公ハンス・ギーベンラートはこの車輪の下で苦しみあえぐことになります。
非日常的なこと、より自由なものや、洗練されたものに対する羨望から発した本能的な敵意がひそんでいたが、それはその街のみんなが心の秘めているものだった。
→地方の秀才ハンスは周囲のルサンチマンの標的となっています。
平板な人生と、意識されないままになっている悲劇。
彼らは国家の費用で勉学にいそしみ、人生の最も長い部分をお上に対し、それまでにこうむった恩恵のお返しをすることになる。
→『車輪の下』では後に『荒野のおおかみ』を書いたヘッセらしく、自分のやりたいことを貫いてルンペン化するピッピー人生と、興奮も感動もすくない平凡なスクエアとが常に対比されます。
バイク映画の最高傑作『イージー・ライダー』ワイルドにトリップする映画
ハンスの望まれている未来は教師か神父になるかしかありませんでした。学校の教師になることは自分のような去勢された人間を大量生産することだったし、神父になることも掟にしたがう人間をつくることにほかなりませんでした。
子どもの頃の美しく自由で野性的な喜びがずっと彼方に遠ざかってしまったように思った。
少年時代に体験した思い出は、その後体験したどんなできごとにもない強い色彩と思わせぶりなにおいをともなっていた。あのころは謎めいたことや奇妙な事柄がたくさんあり、不思議な人々がいた。しかし今はもう何も覚えていなかったし、こうした世界は自分から失われてしまった。その代わりに何か生き生きとした価値ある事柄を得たわけでもないのに。
そう、今とは違っていたよ。ここでは誰がそんなこと知ってる? 退屈なことばかり。陰険な奴ばかりだ。あくせく勉強して、骨身を削って、ヘブライ語のアルファベット以上のことは知らないんだ。きみだってそうだろう。
→『車輪の下』は学校によって去勢される少年の物語です。幼いころに感じていたワンダーな世界が、毎日夜遅くまでラテン語を勉強して釣りとか散歩を禁止されていくうちに失われてしまいます。それを作者は嘆きます。
教師の義務であり国家から委託された仕事とは、うら若い少年の生来の粗削りな力と欲望を制御して根絶し、その代わりに静かで節度ある国から承認された理想を植えつけることだった。学校によるこうした努力がなかったら、現在では満足した市民や努力家の公務員になっている人々も、そのどれほど多くが実をむすばないまま、あれこれ夢みる人間になってしまったことだろうか。
→さすがヘッセ。いいこと書いてますね。夢を追うのもいいけれど、実を結ばないまま破滅してしまうこともあります。それを導くのが大人の仕事で「よかれと思って」いいことをしていると考えるのが教育者です。しかしハンスやヘルマンのような才能あるものにとっては、花を咲かせようとしている芽を摘み取られているような気になるのでした。
人間の中の何か荒々しいもの、動かないもの、非文明的なもの、まずそれを打ち砕かなければならない。危険な炎は消して踏みつぶさなければいけなかった。自然のままの人間は、何か予測不可能なもの、不透明なもの、敵意に満ちたものである。学校は人間の自然を砕き、打ち負かして、力で制限を加えなければいけない。学校の使命は、上から認められた基本方針に従って人間を社会の有用な一員とし、それを訓練することで、やがては兵舎での入念な鍛錬を成功させるのだ。ハンスは放浪や遊びをみずからやめてしまった。
→ひとことでいえばそれは≪詩人の心≫でしょう。そのまま詩人の心を消し去ることができれば社会に適応できたでしょうが、それを失いたくなかったらたたかわなければなりません。
野生の呼び声、凶暴な魂は、掟によって統治する国家や学校にとっては危険極まりないものなのでした。
学校は感じやすい若者の心を何年にもわたってベブライ語やギリシア語こそが人生の目標であると思わせ大真面目に勉強に取り組ませる。ときおり出奔してしまう野生児をのぞいて。
政府は一人一人の違いを公平かつ徹底的に一種の精神的なユニフォームやお仕着せによって平均化してしまうのである。
→上司の命令を忠実に実行する兵士。それが学校教育の理想の姿です。兵士にとって自分の意志をもつことは好ましいことではありません。突撃しろと命令されたら盲目に突撃する人間こそが求められているのでした。ここでは軍隊の理想を自分の理想と同一化することが求められます。そして生きのびたいなどの自分の欲は放棄してしまう人間こそが求められているのでした。
生徒たちは道さえ踏み外さなければ生涯の終わりまで国家によって養われ、住む場所をあたえられる。それがまったく無償というわけではないかもしれないということについては誰も考えたりしない。
→無償というわけでないかもしれない、というのは、なにもお金を払うということではありません。やりたいように過ごせるはずだった自分の真の人生を掟をまもるために差し出す、という意味です。これはお金の負担よりも取り返しのつかないことです。
学業なんて日雇い労働だよ。きみはこれらの勉強が好きでもないし自発的にやっているわけでもない。そうじゃなくて先生や両親が怖いだけなんだ。一番や二番になったからってそれがどうなる?
→人は恐怖によって行動します。落第など人と違う烙印を押されてしまうことが恐怖で学校に行ってやりたくもない学科にしがみつくのです。
偉大な小説は、彼を抑圧し屈辱を与えているまわりの世界とは別のもっと偉大な世界を彼に見せてくれるのだった。
謹慎処分以来強いられるようになった孤独。教師や同級生に対する苦々しげな憎しみに満ちた詩集。
天才とは手に負えない悪者で教師を尊敬せず十四歳で喫煙をはじめ十五歳で恋愛沙汰を起し禁止された本を読み生意気な作文を書き教師たちを時折あざけるようににらみつける者。
教師の課題は極端な人間を育てることではなく、ラテン語や計算のできるよき小市民を育成することにあるからだ。どちらがどちらの魂や人生の一部を台無しにし汚しているか。
→ここでのよき小市民というのは、スポイルされた人間という意味です。自分の望みをかなえるためには反社会的な行動にも出るオオカミではなく、敷かれたレールの上を文句を言わずに淡々とあゆむおとなしい仔羊さんのことです。
学校や時代が変わっても掟と精神のあいだの闘争はくりかえされ、国家と学校が価値ある深遠な精神を叩き殺し根元で折り取ろうと息を切らして努力している。
→これがヘッセが『車輪の下』でいいたかったことではないでしょうか。よっぽど学生時代に窮屈な思いをしたものと思われます。『車輪の下』が日本で多く読み継がれているのも、このテーマが日本人にとっても切実だからでしょう。
多くのものは静かな反抗のなかで消耗し、破滅していくのだ。
「きみ、手を抜いちゃいかんよ。さもないと車輪の下敷きになってしまうからね」
→車輪の下敷きになるとは落ちぶれるという意味です。主人公ハンス・ギーベンラートはこの車輪の下で苦しみあえぐことになります。
どこにいきつくことになろうとどうでもよかった。少なくとも命令や掟よりも彼の意志の力の方が強いことを見せつけられたのだ。
反抗と堕落によって引き起された出奔。
→反省室でおとなしく反省していろ、という命令や掟に対して少年ができた反抗は「出奔」「放浪」でした。なぜ放浪が叛逆になるのかというと、まともな社会は定住・定職を求めてくるからです。
どうしてもっとも感じやすく危うい少年時代に毎日夜遅くまで勉強しなければならなかったのか。どうしてウサギを取り上げ、同級生を意図的に遠ざけ、釣りや散歩を禁じ、子どもを疲労困憊させるようなみずぼらしい虚栄心からくるカラッポでちっぽけな理想を植え込んだのだろう。
いまや過度にしごかれた仔馬は道端に倒れ、もう役に立たない状態だった。
→主人公ハンスは、なまじっか繊細な精神を持っていたために、神経症になってしまいます。すべての学問的努力は無駄でした。地方の人々の期待を裏切ってしまいます。
たくさんの他の生徒たちが、すでに同じような特訓に耐えたではないか。
当時はまったくいまと違っていた——すべてがもっと素晴らしく、明るく、生き生きとしていたのだ。それなのにもう長いこと頭痛以外のものに触れることがなかった。
欺かれ暴力的に奪われた子供時代が長い間抑えらえていた泉のように突然あふれだしてきたのだった。
愛の恐れと情欲、苦悩と快感。もっともよい指導を受けた青年でさえ、そこを通り抜ける案内人はもたず、みずからの力で道と救いを見出すほかはないのだ。
日本昔ばなし『赤神と黒神』。勉強ができるよりも、出世するよりも、女にモテる方がいい。
エンマとふれあう。思い出がどうしてこんなに美しく力強いのか。かつての幸福とは両立しない何かが自分の中で目ざめた。本気で相手にされていなかった。鎮まることのない愛の思いから来る心の乱れ。にがいものを多く含んでいた。巨大な燃える眼。
恋人への憧れに苦しみ、枕にうめきながら顔を押しつける。
機械工になった。みじめな気分だった。あれほど難儀して熱心に頑張り、小さな楽しみをあれほど犠牲にし、誇りや名誉心を持ち、希望に満ちた夢をみていたのにすべてが無駄だった。すべては同級生より遅れ、みんなに笑われながら、一番下の見習いとなって作業場に入るためだったのか。
心の奥で何かが痛み出し、不鮮明なイメージや思い出、恥や自己非難などの陰気な洪水が彼を襲ってきた。ハンスは大きなうめき声をあげ、泣きじゃくりながら草の中に身を沈めた。
→幼いころの自分、本来の自分に立ち返っただけなのに、周囲は落伍者のように見てきます。そんな中でハンスは生きる目的をさがしますが、とうとう呪縛から逃れることはできませんでした。
ハンスはすでに冷たく静かになっていた。黒い川をゆっくりと谷の下流に向かって流れていた。ハンスがどうして川に落ちたのか、知る者は誰もいなかった。
→あえて作者は自殺とも事故ともわからない書き方をしています。要は破滅した。それだけわかえればどちらでもよかったのです。
学校の先生たちもハンスが破滅するのに手を貸したんですよ。
ギーベンラート氏(父親)は慣れ親しんだ小市民の暮らしに向かって歩みを進めていった。
忠義の士が褒め称えらえているのは、下々がそれをのぞんでいるからではなく、お上がのぞんでいるから
ヘッセ自身はハンス・ギーベンラートとヘルマン・ハイルナーの双方に投影されているそうです。
主人公はもちろんですが、ヘルマンはヘルマン・ヘッセと名前が同じですものね。そうだろうと思っていました。
ヘッセは学校の規律に従って規格品のような優等生になることは到底できなかった。
ヘッセの弟は工場の事務員として一生を送るが、五十歳を過ぎてから自殺してしまった。
勉強よりも友情によろこびを見出し、やがて授業についていけなくなり、神経症となる。
学校で自分が学んだのはラテン語と嘘をつくことだけだった。それほどまでに学校では自分の個性を殺すことを余儀なくされた。
エジソンとかアインシュタインとかヘルマン・ヘッセとか、学校生活があわない天才っているものですね。
あまたある物語の中で忠義の士が尊重されるのは、国や社会が「忠義の士」を求めているからではないでしょうか?
三国志の関羽とか孔明とか、武蔵坊弁慶とか、義とか忠が褒め称えらえているのは、下々がそれをのぞんでいるからではなく、お上がのぞんでいるからだと思います。
そういうことに気づかなければ、外からあたえられた価値観を自分の中に取り込んで本当の自己を放棄して生きていけばいいのです。それはそれで楽なのでしょう。楽だから多くの人がその道を選ぶのです。
しかし気づいてしまったら、もはや後戻りはできません。屈辱の中に生きるか、出奔するか、国や社会の中でそれでもたたかいつづけるかしかありません。
ハンスはそれができずに死んでしまいました。死ななければ長い年月の後、父親のギーベンラート氏と同じような小市民の暮らしをする目立たない人間になっていたに違いないと思います。
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このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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