海外で盗難に遭って無一文になったらどうするか
たとえばおれが海外で財布を盗まれるなどして無一文になったら、どうすればいいだろうか。
せいぜい街から空港まで遠くても30kmぐらいが普通だから、おれの場合は「空港まで走る」という選択肢もあるかもしれない。
しかしポカラで盗まれてカトマンズまで走るのは無理だ。
すると断食するか、持ち物を売るか、大道芸でもやって投げ銭をもらうしかない。
しかし断食はせいぜい数日しか持たない。
持ち物を売るといっても昔と違ってメイドインジャパンであってもそう高くは売れないだろう。世界は豊かになっているのだ。
たとえばiPhoneのスマホも、ノースフェイスのザックも、サーモスの水筒も、いまや誰だって持っている。
売れるものなんてほとんど何もないかもしれない。それに持ち物は遠からず尽きる。
一番現実的なのは大道芸である。無一文になったら、いっそ大道芸でもやろうか。
「ところでおれに何の芸があるだろう?」
と、ここで持ち芸を考えるのは、ダメなタイプの旅人だ。
芸なんてどうだっていい。必要なのは勇気だ。
大道芸に必要なのは芸の質ではなくて「踏み出す勇気」
無一文になった海外放浪中の旅人に必要なのは芸ではない。人前でやろうという「はじめの一歩を踏み出す勇気」だ。
芸の質とか考えたら、何もできなくなってしまう。
そんなものは何もなくてもいい。とにかくやってみよう。
その勇気こそが必要な全てだ。
すくなくとも芸はあるけど勇気がないよりもよっぽどマシなことである。
ここを間違うと「まずは芸の質を磨かなきゃ」という間違った選択をしてしまう。
若者が世に出ようとするときにも同じ間違いを犯しやすい。「まずは自分の芸を磨かなきゃ。世に出るのはそれからだ」そう思ってしまうのである。
しかし芸が完成する頃、君はもう若さを失っているであろう。
あるいは芸なんてものは永遠に完成しないかもしれないのだ。
この場合でも必要なのは勇気である。
お金持ちよりも貧乏の方が人生楽しい
大道芸に必要なのは勇気なのだ。それは日本国内であっても同じことかもしれない。
その勇気があれば旅に出られるし、勇気がなければ旅に出る前に「自分の芸を磨こうとしてしまう」のだ。
必要なのは勇気……
無一文という状況がきみにその勇気をあたえてくれるかもしれない。
私がお金持ちよりも貧乏人の方が人生楽しいと主張しているのは、こういうことなのだ。
窮したときに、自分でも思ってもみなかったような勇気が湧いてくることがある。
その勇気で人生を切り開いていけば、無一文でも人生は楽しい。
もう一度言う。
一歩を踏み出す勇気にくらべたら、芸の質なんてどうでもいいことだ。
ヘタウマという言葉もある。
すかした野郎の上手な芸より、愛嬌たっぷりの下手くその方が、大道芸では金を集めるかもしれない。
大丈夫だ。
「日本人が異国で無一文になって困っている」という状況だけでもうすでに芸になっているから心配するな。