『地獄の黙示録』(映画)の翻案元(原作)
ここではジョセフ・コンラッド『闇の奥』の書評をしています。
読んでいて「なんだか『地獄の黙示録』(映画)みたいな話しだなあ」と思っていました。
そしたらまさに『地獄の黙示録』の翻案元(原作)でした。あ、やっぱりねえ……。
『闇の奥』は、「英語で書かれた20世紀の小説ベスト100」に選出されたこともあるそうです。村上春樹の小説中にも影響が見られるといわれます。ってことは「寓意」だということですね。村上春樹って寓意作家だから。
ジョゼフ・コンラッド『ロード・ジム』リベンジマッチ。卑怯者は勇気を取り戻せるか
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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『闇の奥』あらすじ・梗概
それでは内容・梗概を見ていきましょう。
蒸気船でアフリカ・コンゴの河を遡上していく語り部マーロウと商社の支配人。象牙を集める現地出張所の特派員のクルツはきわめて優秀な人物だった。ほかの一般社員全員が束になってもかなわないほど大量の象牙を集め、交換し、騙し取り、盗んだ。鉄砲を神の雷鳴と稲妻のように使ってアフリカの暗黒のジャングルの奥地で現地の王様のように君臨している。
だが、狂ってしまった。象牙集めに。そして病んでいた。
マーロウは病んだクルツを捕まえることに成功するが、クルツは「正しく生きて、死ぬ、死ぬ……わたしは闇の中に横たわって死を待っている。……恐ろしい! 恐ろしい!」
と謎の言葉を残して死んでしまいます。クルツの抱えた闇とは——?
物語のあらすじを述べることについての私の考えはこちらをご覧ください。
私は反あらすじ派です。作品のあらすじ、主題はあんがい単純なものです。要約すればたった数行で作者の言いたかった趣旨は尽きてしまいます。世の中にはたくさんの物語がありますが、主役のキャラクター、ストーリーは違っても、要約した趣旨は同じようなものだったりします。
たいていの物語は、主人公が何かを追いかけるか、何かから逃げる話しですよね? 生まれ、よろこび、苦しみ、死んでいく話のはずです。あらすじは短くすればするほど、どの物語も同じものになってしまいます。だったら何のためにたくさんの物語があるのでしょうか。
あらすじや要約した主題からは何も生まれません。観念的な言葉で語らず、血の通った物語にしたことで、作品は生命を得て、主題以上のものになるのです。
作品のあらすじを知って、それで読んだ気にならないでください。作品の命はそこにはないのです。
人間描写のおもしろさ、つまり小説力があれば、どんなあらすじだって面白く書けるし、それがなければ、どんなあらすじだってつまらない作品にしかなりません。
しかしあらすじ(全体地図)を知った上で、自分がどのあたりにいるのか(現在位置)を確認しつつ読書することを私はオススメしています。
作品のあらすじや主題の紹介は、そのように活用してください。
『闇の奥』のディテイル。
黄色は『闇の奥』から。赤字はわたしの感想です。
なぜならおれたちはあまりにも遠くまで来てしまい、普通の世界を思い出せなくなっていたからだ。原始の夜を旅していた。
原住民は……人間とは思えないというわけじゃなかった。わかるかな、そこが最悪なんだ。ああいうのも非人間的とは言えないんじゃないかと思えることがね。吼える、跳ねる、くるくる回る、恐ろし気な顔をする……だがぞっとするのは彼らもおれたちと同じように人間だと考えるときだ。自分たちもこの野性的な熱い興奮と遠いつながりを持っていると思うときだ。自分の中にもあの喧騒の恐ろしいほどの率直さに呼応するものがかすかに残っている。原始の夜から遠く離れた自分にも理解できる意味がそこにある。
コンラッドの世界は、ジャック・ロンドンの世界ととても類似しているように思います。原始の世界で本能が目覚めるといった展開をとるからです。
ジャック・ロンドン『赤い球体』生首がいぶされて回転する怪奇小説
連中がはっきりとした時間の観念を持っているとは思えない。連中はまだ時のはじまりの時代にいるんだ。時間の観念を教えてくれる経験の遺産を持っていない。
けっこうな賃金をもらっても連中には意味はないんだ。
人生を「買う」という行為だけで終わらせないために。『ロビンソン・クルーソー』
飢えという悪魔に苛まれつづけていた連中がなぜ俺たちを襲わなかったのか——巡礼どもがいかにも不健康そうに見えるのに気づいて、おれはこんなに不味そうに見えてなけりゃいいがな、と思う。黒人たちはどんな衝動にかられ、どんな動機に動かされ、どこまでやり、どんな弱さを見せるだろう。おれは彼らの中に何か自制心のようなものを見た。いったい何が自制させるんだ? 迷信か、嫌悪か、忍耐か、恐怖心か? そんなものは飢えの前には風の前のもみ殻よりも軽く吹き飛んでしまう。長引く飢えよりは愛する人との死別や、不名誉や、魂の地獄落ちのほうがまだ耐えやすい。悲しいことだが本当だ。死体がごろごろしている戦場をうろつくハイエナに自制心を求めるようなものだった。
もうあの人物の話しを聞けないだろう、と考えた。大いなる才能は槍か矢か棍棒によって消えてしまった。おれにとってクルツはひとつの声だった。豊かな才能のうち、もっとも顕著で存在感を持っていたのは語る力、その言葉——見通せない闇の奥から発する流れだったんだ。
この国にはもう象牙は一本もないだろうと思われるほどの量の象牙。
クルツも魔境に取り込まれる宿命を逃れられなかった。わたしの象牙、わたしの出張所、わたしの河、わたしの——何もかもが彼のもの。大事な点は逆に何が彼をわがものにしていたか。どれだけの数の闇の力が彼をとられていたかを知ることだ。
この闇とは暗黒大陸のジャングルに存在するものです。文明社会のものではありません。それでも我執とか恐怖は文明社会と同じように押し寄せます。分かち合う人がいないぶんだけ、より強烈にクルツをとらえます。
クルツはあの土地の悪魔どものあいだで高い地位をしめていた。君らにはわからないよ。誰にも束縛されずに歩いていく人間が、孤独をくぐり抜け、静寂を通り抜けて、原始の世界のどんな異様な場所へたどり着いてしまうことがあるか。他者の保護や助けがなければ、自分の力と能力に頼るほかない。
原始社会。神や精霊が人間と一緒に暮らしていた時代です。野蛮な魔物もリアリティをもった存在でした。
象牙を目的とした探検。原住民を手なずけての略奪。雷鳴と稲妻(銃)をたずさえてアフリカへやってきた。象牙をよこせと白人も脅迫する。
あの象牙の山は本当はわたしのものだ。会社は費用を出していない。わたし個人が危険をおかして集めたんだ。
ジャック・ロンドン『白い牙』なぜ作者はオオカミがイヌになる作品を描いたのか?
「正しく生きて、死ぬ、死ぬ……わたしは闇の中に横たわって死を待っている。……恐ろしい! 恐ろしい!」
この地上で自分の魂がした冒険について審判を下したあの優れた人物は死んだ。
ジャングルの神であるクルツが恐怖を感じて死んだことは象徴的です。文明社会では「神は死んだ」科学的に理解すれば「恐怖は迷妄」だとされますが、クルツは恐怖を感じて死にました。
不滅の魂をとくキリスト教を信じ切ることもできず、悟った心にいたることもありませんでした。
キリスト教の本質は、この肉体この意識のまま死者が復活すること、そして永遠の命を得ることができるということ
人生とはおかしなものだ。期待できるのはせいぜい自分について何ごとかを悟れるということだけだが、それは常に遅ればせな悟りであって、つまりは悔やみきれない後悔を得ることでしかない。自分が正しいという信念も、敵が間違っているという信念もない。最後に得られる知恵がそんなものであるなら、人生とは普通思われている以上の謎だということになるだろう。
人生最後の言葉、たぶん自分には言うことが何もないと気づいて屈辱をおぼえた。だからこそクルツを優れた人物と呼ぶ。彼には言うべきことがあったから。そしてそれを言ったからだ。
その言葉は「恐ろしい」というものでした。それはまるで悟っていない人物の言葉のようです。
とんちで有名な一休さんは死ぬ前に「死にとうない」と言ったとか……まるで悟っていない人物の言葉のようです、クルツのように。
何もわかっていない人が「恐ろしい」というのと、酸いも甘いも噛み分けた人物が「恐ろしい」というのでは、言葉のもつ力が違います。
原始の魂に通じた人物は「怖いものを怖い」ということができました。文明の虚飾、やせ我慢、宗教意識、哲学、科学、ダンディズム、洗脳教育……すべては役に立ちませんでした。カッコつけて、とりつくろって死ぬことをしませんでした。できませんでした。
闇の奥で酋長のようにふるまっていた白人は「おそろしい……」と呟いて死んだのです。