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史上最高の恋愛小説『マノン・レスコー』の魅力、内容、書評、あらすじ、感想

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史上最高の恋愛小説『マノン・レスコー』

古今東西、恋愛小説はたくさん書かれてきました。歴史上最高の恋愛小説といったらば、あなたは何を推しますか?

私だったら『マノン・レスコー』を一択で推薦します。史上最高の恋愛小説といえば、これ以外にありません。

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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。

「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」

「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」

※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。

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ロマン派でいこう。メルヘンっぽいのがロマン主義、実話っぽいのが写実主義

1731年の作品です。18世紀から19世紀半ばまで続いたロマン主義文学の黎明を告げる作品とされています。恋愛浪漫ですね。私は個人的にロマン主義が大好きです。ロマン派に対抗するように現れた文学上のムーブメントが写実主義、自然主義です。メルヘンっぽいのがロマン主義、実話っぽいのが写実主義ですね。正岡子規の句が好きだったらあなたは写実派。与謝野晶子の句が好きだったらあなたはロマン派です。私はロマン派です。写実小説なんか読む気になれます?

「あなたの苦悩」は「他者の苦悩」よりもあなたにとっては大きいのです。現実の生活で十分に苦労しているのに、どうして本まで現実的な、面白くもない苦しいものを読まなければならないのでしょうか。写実主義の本なんて読む意味あるのかしら? 日本の私小説が面白くないのはそのせいじゃないかと思います。

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マノン・レスコーとは? 実は男の転落っぷりが見もの

文学史に名を残した悪女マノンの性格ですが、まあ一筋縄ではいかない娼婦型です。こういう女性のタイプをファムファタールといいます。『カルメン』なんかもそのタイプです。

離婚女性におすすめしたい自由な女の書『カルメン』

マノンは、生活レベルが一定のレベル以上の時は恋人グリューを心から愛するが、貯金が一定水準を下回るととたんに肉体を餌に金持ち男からお金を貢がせようとする毒婦です。プロ娼婦ではありませんが、対価を得て誰とでも寝ちゃうタイプの女には違いありません。

しかし金銭にがめついというわけではなく、ただ無邪気に「遊びたいだけ」の女です。お金のためのお金ではなく、気持ちよく遊ぶのには金がいるからお金が無くなると自分の唯一の商品(肉体)を店頭に並べてしまうという娼婦タイプの人間です。

じゃあ、どうしてこんな女が「文学史に残るいい女」に思えるのか? というと、ただただ恋人側のグリューがボロボロに破滅していくからです。男の転落するさまがすさまじく、「男がそこまで打ち込むのなら。それほどの女か」と、マノンを永遠のヒロインにしているというわけです。

 

大塚美術館の「この男」と話しが似ています。女にこれほどの幸せそうな顔をさせるほどの男なら「いい男」に違いあるまい、というわけですね。

日本一おもしろい美術館『大塚美術館』。全部ニセモノ、けれど感動は本物

小説でいい女を描くのは難しいのですが、たったひとつ方法があるとすればそれはその女に狂った男の姿を描くことではないでしょうか。

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娼婦型ファムファタール。男を狂わすのは「いい女」の証明書・保証書

男を狂わすというのはいい女の証明書のようなものです。トロイのヘレナや、殷の妲己楊貴妃など歴史の上では、そのような傾国の美女は以前から存在していました。

しかし創作小説の上で、娼婦型の人物が登場したのはアヴェ・プレヴォオのマノン・レスコーがはじめてだとされています。毒婦型とでもいいましょうか。

「椿姫」とか「カルメン」など、女に翻弄される男の物語はたくさんありますが、すべてはマノン・レスコーの後発組です。椿姫などはマノン・レスコーの焼き直しじゃないか、という気さえします。

それでいて後発の「椿姫」や「カルメン」などを寄せ付けない破滅っぷりを騎士グリューが見せてくれるものですから、原典にして最高峰の恋愛小説だと言えるのです。

それにしても現実ってすごいですね。マノンが娼婦型では小説最初でも、歴史の中にはいくらでも娼婦型がいるんだから。しかしロマン文学には、写実文学をきっぱりと超えてもらわなければなりません。今こそ『マノン・レスコー』の出番です。

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翻訳文学。翻訳者によって違う日本語のリズム感

私はこの史上最高の恋愛小説を三人の翻訳家の訳で読んでいるのですが、青柳瑞穂さんの訳がもっともよかったです。同じ内容でも表現が違ったり、言葉のリズム感が違ったりしますので、訳者は選んでください。その際、参考になるのは出版年齢です。さすがに明治時代に和訳されたものは日本語が古くて読みにくいと思います。

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作者アベ・プレヴォとは?

『マノンレスコー』は、男が女にひたすら恋をして、世の掟や宗教的な戒律をひたすら破って恋のために没落していくという物語です。女が好き勝手に恋愛をしたりお金を使ったりすることで、男が振り回されるという話しですね。女の自由奔放な生き方を束縛しようとするのが普通の男ですが、騎士グリューはマノンのすべてを認めて受け入れてともに転落していきます。この転落っぷりが見ものです。

作者アベ・プレヴォというのは僧プレヴォという意味だそうです。作者はカトリックの聖職者なのです。しかし「マノン・レスコー」は破戒僧なら別ですがまともな聖職者が書くような小説じゃありません。行為しなかったとしても、書いたということはそういう感情を作者はもっていた、ということに他なりません。「心に行った姦淫は、実際に行ったのと同じである」とイエスも言っていなかったっけ?

作者の体験を小説に反映させているそうです。どんな聖職者だ。キリスト教の戒律はどうなった。

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恋愛の狂気『マノン・レスコー』のあらすじ

物語のあらすじを紹介することについて

あまりにマノンを愛しすぎているために、いちばん不幸な人間になった男……『マノン・レスコー』の主人公は実はマノンではありません。世界の果てまで行こうとも、マノンの後を追っていこうとする騎士グリューこそが真の主人公です。見るべきなのは、マノンの魅力ではなく、恋の魔力にボロボロになっていくグリューの姿です。

グリューはマノン・レスコーと出会い彼女の魅力のとりこになってしまいます。グリューはりっぱな階級の出身でマノンは家格のつりあわない下層階級の女でした。しかしグリューはそんなこと気にもとめません。マノンとグリューは恋愛関係になり、パリで結婚する約束をしましたが、親の承認が得られず、結婚できませんでした。パリでの同居生活は順調に見えましたが、やがてお金が尽きてしまいます。するとマノンはパリでの豪華な遊びのために、Bという金持ちを家に連れ込んでしまいます。そのことにグリューは衝撃を受けます。愛し合っていたと思っていたのに……。

マノンを独り占めしたいBの策略で、グリューは実家に連れ戻されてしまいます。父親は若気のいたりの恋愛をあざ笑います。しかし売春婦もどきの浮気な女との恋愛をあざわらう周囲の人たちの嘲笑に負けず、グリューは自分の恋愛をつらぬきます。

「かえしてもらいたいのは彼女なんです」

「あいつはマノンの心を獲得なんかしません。マノンがぼくを裏切るなんてことがあるでしょうか。ぼくを愛さなくなるなんてことがあるでしょうか」

「ぼくはBの家に火をつけるんです。そして不貞のマノンもろとも黒焦げに焼いてやります

いいところのボンボンだったグリューは恋愛の狂気を知ってしまいました。他はいたって真面目なのに、ことマノンがらみの行動だけは正気ではなくなっていきます。

マノンはBに囲われています。Bは、マノンの愛情に比してしかるべき金を払うといいます。囲い込みの愛人になったということですね。それに対してグリューは僧門に入ろうとします。僧門といっても仏教じゃありません。キリスト教です。世をすてて隠遁し、家柄にふさわしい宗教者への道を歩もうとします。

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聖職者? いいかげんにしろこの性職者!

グリューは聖職者として一年ほど宗教修行を積みますが、マノンと再会と同時に、修行してきたことはもろくも崩れ去ります。

「みなすべて愚かしい空想だった。宗門の幸福など、おまえの視線にあったら、ぼくの心の中に一分だって居座っていることなどできない」

「マノンのために、キリスト教界のどんな司教の位だって棒にふるつもりだった」

あれあれ。いいかげんにしろこの性職者め(笑)。

「マノンのうそつきめ。ああ、うそつきめ。うそつきめ!」

マノンは遊び事には熱狂的な女でした。贅沢と快楽のためにはグリューの愛を平気で犠牲にします。なるほどBに囲われて豪勢な生活はしていたが、彼と一緒で楽しい思いなどただのいっぺんもなかったというマノンの言葉をグリューは信じます。

「もし金を払わずに遊び楽しむことができるのならば、マノンは一文だってほしがらなかったろう。中ぐらいの財産さえあれば、おそらく彼女は世界中の誰よりも私を選んだであろう」

「ぼくのこころを取ってくれ。きみに捧げることのできるただひとつのものだ」

マノンのために身を持ち崩して転落していくことを、グリューはすこしも怖がっていません。むしろそのことに喜びを感じています。

このように娼婦型の女にのめり込んで身を持ち崩していく男の話しなのですが、ここまでやるとだんだんグリューがかっこよく見えてきます。あくまでも恋に身を捧げ、愛を貫き通そうとする男のようにも見えるからです。

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貴族の雇用。おんなの浪費が経済をまわしている。

「恋愛は穢れのない情熱であるはずなのに、どうして罪づくりで不幸とふしだらの原因になってしまったのだろう」

マノンのためにグリュワは節約生活を送ります。自分のためのお金はつかわず、すべてをマノンの浪費のために使おうとするのです。二人の生活を少しでも長引かせるためでした。

「腹が減るのが何よりの心配なのだ。なんという下劣な根性でしょう。ぼくは空腹なんてこわくなかった。だからこそ、みずから飢えに身をさらしたのだ」

そこまでして二人の生活費を節約したグリューでしたが、なんと使用人に財産を持ち逃げされてしまうのです。

使用人を雇うのをやめて人件費をカットしろよ、というのが現代的な考え方ですが、この時代の貴族階級は使用人を使うのが習い性、義務のようなものだったのでしょう。ノブレス・オブリージュと考えなければ、理解できません。他の作品でも同じですが、どんなに貧乏設定でも貴族には使用人がいるものなのです。

そして生活費がなくなると、たちまちマノンは金持ちの男のところに走ってしまうのでした。

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美人局の恋愛至上主義者。

マノンは身体を売ることを何とも思っていませんが、グリューはそうではありません。マノンの貞操が大事でした。しかしグリューもマノンをつなぎとめておくためにもどうしてもお金が欲しいのです。すると折衷案は、結果として美人局(つつもたせ)のようなことになってしまいます。肉体を餌にお金を出させて、最後の一線を超える前にずらかるわけです。こうしてグリューとマノンは美人局という犯罪に手を染めていきます。

金持ちを騙して金を持ち逃げしようとしたところ、逮捕されてマノンはオピタル(売春婦矯正施設)に送られてしまいまた。マノンへの仕打ちを聞いてグリューは怒り狂って暴力を振るいます。そして牢獄に閉じ込められてしまいます。グリューが金をだまし取ろうとしたお金持ちは権力者でした。

「われわれの至福は快楽の中にある。あらゆる快楽の中で最も楽しいものは恋の快楽である。恋のよろこびはわれわれをもっとも幸福にしてくれる」

「ぼくにそのよろこびを味あわせてくれるのは、たったひとつしかない(マノンだ)」

恋愛を諦めれば助けてやるという父親に対して、グリューは「恋愛こそすべてだ」と堂々と意見します。みごとなまでの恋愛至上主義ですね。

「僕の過失を引き起こしたのはみんな恋のしわざです。宿命的な情熱のしわざです。僕の罪悪というのは、これなんです」

「ぼくは善良な心をもっているから、不良になってしまった」

そして親身になってくれた院長にピストルをつきつけてマノンを助け出すために脱獄するのでした。そして親身になってくれる金持ちの前に身を投げ出し、涙を流して足元にすがりつくようにして、恥も外聞もなくマノンを助け出そうと哀訴嘆願します。

「人間は自由のためにはどんなことでもする」

心を動かされた有力者の協力を得て、マノンをオピタルから出すのにグリューは成功します。その代償に門衛を殺し、逃避行がはじまるのです。恋のためにとうとう殺人まで犯してしまうのでした。

「どこまで行くのですか?」「世界のはずれまでだ。マノンと永久に離れないですむところまでだ」

なさけないグリューがときどきカッコよく見えるのが『マノン・レスコー』なのです。

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貯蓄残高ではなく残りの人生時間こそが大切(お金よりも時間)

「富というものは自分の欲望の満たし方によって計算する必要がある」

グリューはいいます。グリューは常にお金に悩まされますが、彼にとって大切なのはマノンで、お金ではありませんでした。最近はホリエモンなどが「貯蓄の残高ではなく残りの人生の時間こそが大切(お金よりも時間)」とか言ったりしていますが、グリューも同じです。グリューにとって富とはマノンと一緒に過ごす時間のことでした。

時間こそが命。命とは時間のこと。ミヒャエル・エンデ『モモ』と映画『TIME』の共通点

しかしグリューがそれほどまでに思っても、お金が尽きるとマノンはまた言い寄ってくる他のお金持ちと寝ることも辞さない態度を見せます。別の女を自分の代わりにグリューによこすということまでするのです。グリューは自分の恋愛がバカにされたかのように感じて怒ります。

「おれときたらご提供できるのは愛ばかり、誠実ばかり。女どもはおれの貧乏を軽蔑し、おれの一本気をなぶりものにする」

そしてあてがわれた女には見向きもせず、密会中のマノンに会いに行くのでした。

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傷ついた男の心は、逆に女の心を傷つけようとさえする

「きみはぼくを死ぬほど苦しめておいて、今になって涙を流したってもうおそすぎるよ。人間って自分が裏切った不幸な男のためなんかに、そんなにやさしい涙は流さぬものだ」

純情な恋愛を踏みにじられて傷ついたグリューの心は、逆にマノンの心を傷つけようとさえします。

「恩知らず、不貞な女。浮気で、残酷な恋人。おまえのそのあさましい根性がわかったからには、おさらばだ。卑怯者め

しかし瞬発的な怒りも長続きしません。最後は常に愛情が勝ってしまうのです。みじめにマノンにすがりつきます。

「きみのやったことには何だってぼくは賛成なんだ。きみはぼくにとって全能だ。きみはぼくの恋がたきと一夜を明かすことによって、永久にぼくを亡き者にするつもりなのかどうか言ってくれ」

「彼女のあらゆる欠点に目をふさぐためには、彼女に惚れているというだけでじゅうぶんだった」

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恋の賊。恋賊。恋に狂って恋賊になった男

マノンは美人局の容疑で、また牢獄に入れられます。グリューがマノンの貞操を守ったままお金だけ奪おうとするから、どうしても美人局にならざるをえないのです。

「きみを牢獄からひきだすことができなかったとしたら、ぼくの命なんか犬にくれてやる」

「マノンを自由にし、救いだし、その仇を奉ずるには私の命が必要だった」

グリューは味方してくれそうなものを総動員して、手に手に武器をかざしながらオピタルめがけて打ち寄せる計画を立てます。もはや「賊」です。恋の賊。恋賊ですね。

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家族か、恋人か。どちらをとるか?

家族か、マノンか、選択を迫られて、グリューは躊躇なくマノンを選びます。

「あんなに優しい、あんなに愛すべき女はけっしてあるものじゃありません。マノンがどうしてもアメリカへやられるなら、ぼくは一刻も生きているわけにはいかないからです」

グリューは自分に愛情ある父親に切々と訴えます。

「愛情がどんなものか、苦しみがどんなものか、一度だって経験したものなら……やがて僕が死んだのをお聞きになったら、たぶんあなたはまた僕の父親らしい感情をもつようになるでしょう」

もはや恋愛のためにグリューは死を覚悟しているのでした。

マノンが更生するための懲罰の地、アメリカへの移送中に護送車を襲って奪還しようとしますが、仲間に裏切られ、襲撃を断念します。そしてみじめにも護送人夫に賄賂を払ってマノンに会わせてもらいストーカーのようにマノンについていくのでした。

あまりにみじめっぷりに「自分と一緒に転落するのはやめてくれ」というマノンにグリューはいいます。

「ちがう。ちがう。きみと一緒にいてふしあわせなのは、ぼくにとってねがったりかなったりの運命なんだ」

ここまでいえる男が、どれほどいるでしょうか。これが『マノン・レスコーが』名作だというゆえんです。

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恋愛狂気。

護送されたアメリカで、そまつな小屋で二人は一緒に暮らします。アメリカで、贅沢と快楽のない貧しさの中で、マノンはグリュウを静かに受け入れています。贅沢しようにも、まだアメリカは未開の地でした。マノンは禁固や流刑でからだが弱っていましたが、グリューとのあいだにしばしの幸福がおとずれます。

「おお、神さま。僕はもうこれ以上あなたに何もお願いしません。もうぼくはマノンの心をしっかり握っています。これさえできたら他に何もいらないと……」

村の共同体にも二人は受け入れられます。そこであらためて正式に結婚しようすると、マノンが正式な人妻でないことを知った司政官は、マノンに恋する甥っこにマノンをあたえようとするのでした。未開当時のアメリカでは司政官は全権を握っていたのです。

グリュウはマノンに指一本でもさわらせないと怒鳴り散らします。これまで恋愛沙汰で起こった、いちばん血みどろな、いちばんものすごい場面をアメリカで演じてやろうと肚を決めます。またグリューの恋愛狂気がはじまりました。マノンのためには殺人も辞さないところまで恋愛狂気はいってしまっています。

マノンに惚れている司政官の甥と決闘し、その甥を殺してしまうのです。これでもはやアメリカの共同体にはいられません。全能の司政官の甥です。グリュワの死刑は確実でした。この恐怖は切実なものであるとはいえ、グリュウの不安のもっとも大きな原因ではりませんでした。

マノンが、マノンのことが、マノンの危急が、マノンを失わねばならないことが、私を混乱させて、私の眼前を真っ暗にし、ために私はどこにいるのかわからないくらいだった。

マノンという語感がママン(ママ)に似ているせいもあるのかな。言葉が切々と響いてきます。

ね、グリューがカッコよく見えてきたでしょ?

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死ねば恋愛ってもんじゃない。死で終わらない恋愛小説

 

「マノン、ぼくらはどうしよう」「逃げるのよ、いっしょに」

しかし未開のアメリカで街を離れてどうやって生きていけるでしょうか。

グリューは自殺も考えました。しかし踏みとどまります。

「マノンを救うために、どんなにひどい苦しみもぎりぎりまで我慢するとしよう。我慢したのが無駄だったとわかるまで死ぬのを延ばそう」

町を逃げて荒野を行く過酷な逃避行の中で、マノンは死んでしまいます。これまでの禁固や流刑や逃亡で体が弱りきっていたのです。

絶望したグリューは彼女の死体を埋めて、呆けたようにそこで死を待ちました。

ところがなんと死んだと思い込んでいた司政官の甥は生きていて、横恋慕からグリューと決闘したてん末を正直に司政官に話し、男らしく自分の罪を認め、グリューは許されたのでした。

緩慢な死を願いますが死ねずにグリューの健康は回復するのです。グリューはフランスに帰ることにしました。さんざん迷惑をかけた父は死んでいました。

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曾根崎心中。心中は最高の恋愛のかたちだろうか

こうしてグリュウは生き残ります。

世の中では「心中」こそ「身分違いの恋」の究極のかたちだと思われているのに、どうして後追い自殺をしない『マノン・レスコー』が史上最高の恋愛小説だと言えるのでしょうか。

それはグリューの転落ぶり、みじめさが、一緒に死ぬよりも恋に生きたと感じるからです。一緒に死ぬなんてきれいごとでむしろ簡単じゃないかと思ってしまうほど、騎士グリューはみじめなほど転落してこの恋愛と心中します。

「心中もの」たとえば本邦で有名な『曽根崎心中』も、売春婦お初と、徳兵衛の恋で男女の設定が似ていますが、マノンレスコーの方が凄い恋愛小説だと思うのは、徳兵衛が彼女のためにまったく何も戦わないから、です。徳兵衛はお初のために命をはったり何かを犠牲にしたりしません。いくら二人が来世で結ばれると信じて心中しても、徳兵衛はグリューほど恋愛に生きていません。この恋愛の成就のために世の中とたたかうのは無理だとはじめから諦めてしまっています。また徳兵衛の死の動機ですが、友人に裏切られて金をだまし取られ商人にとって一番大切な信用を失ったことで、自分のプライドのために死ぬようなところがあります。お初は愛のために死んだふうにも見えますが、それも女郎屋からぬけだせない運命をはかなんでというところもあります。恋愛のためだけに死んだとは思えないところがあるのです。

むすばれない恋は、死ねばいいってものではありません。ただ来世にむすばれることを信じて心中すれば最高の恋というわけではないのです。マノンのために戦い、マノンために命をすて、マノンのためどんな屈辱にもたえるグリュウの姿が、わたしたちを感動させるのです。

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『パルムの僧院』既婚者の自由恋愛のハチャメチャさ

『マノン・レスコー』は1731年刊行のフランス文学ですが、その100年後の1839年刊行のフランス文学『パルムの僧院』とくらべても、『マノン・レスコー』の凄さ、普遍性がわかるでしょう。

『限りなく透明に近いブルー』ラリった人物が読んでいる『パルムの僧院』の意味

こちらのコラムでも批判していますが、『パルムの僧院』では、何かが決定的に欠けています。夫は何のために存在しているのだろう。結婚っていったい何だろう? そんなことを考えさせられます。貴族社会では、既婚者どうしが恋愛するのはあたりまえ。結婚相手ではない人との不義の子もあたりまえという風に『パルムの僧院』では描かれています。読んでると「あんたたちにとっていったい結婚って何なのよ。結婚する意味あるの?」と言いたくなるんですね。いっそ子供は社会全体で育てることにして、結婚なんて制度は意味ないからやめてしまったらどうよ? と言いたくなります。『パルムの僧院』での既婚者の自由恋愛の乱脈ぶり。結婚って意味あるの? 結婚なんかやめちまえ。という世界観にくらべると、『マノン・レスコー』のグリューはより現代的で、普遍的だといえるのではないでしょうか。『パルムの僧院』は、100年前に書かれたマノンレスコーにくらべて、現代にも通じる何かが決定的に欠けています。

※結婚に関する私の著作です。ぜひお読みください。

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夏目漱石『こころ』心が弱すぎる。

文学というのは、世相を反映した文化的なものです。たとえば人前での全裸や排泄が恥ずかしいと感じるのは、文化的なものだと思います。そういう文化の中で生まれ育っているからそう感じるだけで、周囲のみんなが人前で全裸で排泄する文化だったらすこしも恥ずかしいと感じることはないだろうと思います。野生動物は全裸や排泄を恥ずかしがったりしないのがその証拠です。

文学もたぶんに文化的で、かつて多くの文明で「既婚者どうしの恋愛はあたりまえ」でした。『源氏物語』なんかも男性サイドから見れば人妻と自由恋愛をしています。『パルムの僧院』では女性サイドからも人妻でありながら自由恋愛しています。既婚者の自由恋愛どころか、奴隷とかレイプなんてあたりまえという時代は、人類史でそうとう長く続きました。そういう時代の文学を見ると、奴隷や乱暴があたりまえのように描かれています。悪いことのようには描かれていません。しかし現在私たちはこういうものに共感することはできません。文化が違っているからです。

夏目漱石の『こころ』のように、女を友達に奪われちゃったから自殺する、とか、それを気にやんで自殺するという明治の設定に、もはや私たちは共感できません。「人間として弱すぎる。バッカじゃないの!」 としか思いません。真実の友情とか恋愛とは、それじゃないだろうとさえ思います。これはもう違う文化に生きているから、としか言いようがありません。

しかし違う文化に生きているはずなのに、グリューのマノンによせる思いには、300年近くたった今でも圧倒的に共感できるところがあるのです。人間として普遍的なものを描いているから、と言えるのではないでしょうか。

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騎士グリューの態度には近代人が共感できるものがある

このように作品は古びるものなのですが、グリューの態度は、現代の私たちを圧倒的に共感させる何かを持っています。

マノンが男をとっかえひっかえしようとするのを、グリューは全力で止めるのです。マノンの貞操をまもりつつ、自分はあてがわれた女に見向きもせず、世のルールを恋愛のために破って、世間とたたかい、ねがったりかなったりの運命だといわんばかりに没落していく男の姿が、現代人の目から見ても、ひじょうに共感できるのです。

心中せずに生き残った主人公グリュー。恋に狂ったことも含めて、マノンの死もふくめて、すべては神の御業、と考えれば、聖職者の男が書いた小説だということも納得できることでした。すべてのことに神がやどる、と考えるのならば。何もかもが神が何かを教え諭そうとしていると考えるのならば。

『マノン・レスコー』。騎士デ・グリューの恋愛のためにすべてをなげうつ転落ぶりが、史上最高の恋愛小説と呼べるだけのものがあります。

普通は後発作品に追い抜かれ、先発作品は古びて消えてしまうものなのです。しかし『カルメン』や『椿姫』など、ファム・ファタールの後発作品にも、追い抜かれることなく魅力がうせることがないのも、マノンが魅力的というよりは、騎士グリュウの恋狂いっぷりの見事さと、その恋情の普遍的な魅力にあるのだと思います。

物語は、演出法は、進化する。思想は深まっているし、作劇術は進化している

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(本文より)知りたかった文学の正体がわかった!

かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。

しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。

世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。

すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。

『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。

その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。

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