聖書の話し? 神の言葉?
「あなたの肉体と同様に、魂もまたわたくしの所有に帰し、そのことで深く苦しむことがあろうと、あなたの感覚と感情とはわたくしの権威に従うべきものとする」
「わたくしは残酷のきわみに走ることが許され、肉体の損傷に及ぶことがあろうと、あなたは黙ってそれを耐え忍ばなければならない」
唐突にこれらの言葉を読んだら、いったいどこからの引用だと思うでしょうか?
おそらく聖書、とくに旧約聖書からの引用だと思う人が多いのではないでしょうか。アブラハムは大切な息子イサクを神への生贄に捧げろ、という神からの不条理な命令にしたがって息子の肉体に刃物を突き立てようとします。
「わたくしの存在以外に、あなたは何ひとつ所有するものはない。あなたにとって、わたくしはすべてである。あなたの命であり、未来であり、幸福であり、不幸であり、苦悩であり、そして歓喜なのである」
「わたしくはあなたの主権者であり、生と死をつかさどる主人である」
モーセに十戒を授けた旧約の神の言葉のようです。しかしこられは聖書の一説ではありません。
オーストリアの作家ザッハー・マゾッホが、ワンダという女性との間に交わした『契約書』の中の一節です。
聖書というのは神との契約の書(古い約束=旧約、新しい約束=新約)ですが、マゾッホは自分の女王様と契約を交わすことをプレイとして好みました。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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アスリートはマゾヒスト? マゾヒズムって何だ?
この稿の筆者はランナーです。たいていの友人・知人はわたしのことを「走る人」と認識しています。世界中のマラソン大会を走ってきました。トレイルランニング(徹夜で走ります)やウルトラマラソン(100kmを走ります)も走っています。
シリアス・ランナーである私は、よくこう聞かれたものでした。
「きみって、マゾなの?」
走る姿が、自分を痛めつけているように、周囲からは見えるみたいです。
「いや違う……と思うよ」
モヤモヤした気持ちでいつもそんな風に答えていました。自分の中に自覚があったわけではありません。
マゾ(マゾヒスト)というものがよくわかっていなかったからです。よくわかっていないものに対して「自分はそれだ!」なんて断言できるわけがありません。
※シリアスランナーであるこの稿の筆者の著作です。ぜひお読みください。
たとえばボディービルダーのような筋トレマニアはストイックに自分の筋肉を傷めつけてパンプアップしていますが、彼らはマゾなのでしょうか? そんなことを言いだしたら、あらゆるスポーツマンはマゾヒストだという気がします。
マゾヒズムっていったいどういう性倒錯なのか、調べてみました。
サドの作品にみられる傾向のことをサディズム。マゾッホの作品にみられる傾向のことをマゾヒズムという
マゾッホのもっとも有名な作品は『毛皮のビーナス(毛皮を着たビーナス)』ですが未読です。なんか表紙がグスタフ・クリムトの『ユディト』(ユディトというのは敵将の寝首を掻いたユダヤ人女性です。男の首を持った美女という絵は、たいていサロメかユディト)ですけど関係あんの?
読むことができた『聖母』に関する論評はこちらをご確認ください。
『聖母』マゾッホ文学をマゾヒズム文学として読むと理解できない
私は卒業論文でサドを論じて(厳密には三島由紀夫の『サド侯爵夫人』を論じている)文学修士になっているので、マゾヒズムに関してド素人ではありません。
サド侯爵の作品にみられる傾向のことをサディズム。マゾッホの作品にみられる傾向のことをマゾヒズムといいます。クラフト=エビングというドイツの精神科医が命名しました。
どうして読書が『聖母』だけで終わらなかったのかというと……性的な描写がほとんどなかったからです。そこが謎でした。サドは解剖学の本のように露骨でしたから。『聖母』だけが特別で『毛皮のビーナス』には性的な描写があるのか? あるいは日本の編集者の自主規制なのか、それが気になりました。
読んだのは『マゾッホという思想(平野嘉彦)』『マゾッホとサド(ジル・ドゥルーズ)』です。黄色い下線は二冊の本の内容・引用です。矢印以下は、わたしの感想になります。
マゾッホは二十歳で大学の講師をつとめる秀才でした。
神のいない世界を創造するサド侯爵がインテリなのは想像がつきます。しかしそうでもなさそうなマゾッホもインテリでした。通説では「マゾヒストはインテリや社会的地位の高い人が多い」といいますが、元祖マゾッホはインテリでした。そして社会的に成功した作家でした。
フェティシズムのことをマゾヒズムと命名してもよかったほど毛皮フェチ
もっとも有名な作品が『毛皮を着たビーナス』であるのは偶然ではありません。マゾッホのビーナスは毛皮を着ていなければならなかったのでした。それほどマゾッホは毛皮にこだわりを見せます。
ほとんどヘンタイです。マゾヒズムということばをフェティッシュの意味に位置付けてもよかったほどの毛皮偏執者でした。
女王様は、毛皮を着て、美しいことが条件でした。暴力ではなく、存在の及ぼす影響力によって奴隷を有するのです。
毛皮を着た残虐な女に鞭打たれる。野獣の毛皮が野獣の体臭を発散していた。
奴隷は熊や盗賊の真似をする。毛皮をまとい鞭を手にした豊満な女性によって駆り立てられ、鎖につながれ、賞罰と侮辱と激しい肉体的苦痛を被らされる。
→ 女王様はみごとにみんな揃いも揃って毛皮を着ています。SMクラブだとレザーを着ているイメージがありますが、元祖マゾッホはレザーフェチ・ラバーフェチではなく毛皮フェチでした。
マゾッホがこうなったのには美しい叔母の存在があったようです。
夫を裏切っておいてあとで虐待する肉感的な毛皮に包まれた伯母。あるときは王女風の貂の毛皮をまとったり、あるときはブルジョワ風の兎の毛皮をまとったり、田舎風の羊の毛皮をまとったり……なんやかやと毛皮を着ています。そんなにそそるかな毛皮!? ヘンタイじゃないの!?
加虐・嗜虐。苦痛快楽症=アルゴラグニア
サディズムとマゾヒズムは同じもののネガとポジだという説があります。サドとマゾというのは容易に反転することが多いからです。
たとえば男性読者がSM小説を読んでいる場合、途中までは責めている男性目線(加虐趣味)だったのに、いつしか責められている女性の立場(嗜虐趣味)で読んでいた、というような場合がSMの反転に該当します。
また苦痛快楽症と訳されるアルゴラグニアという症状もあります。苦痛の定義は「嫌なこと避けたいこと」ですが、それを快楽(好きなこと欲しいこと)としてしまう矛盾した精神嗜癖です。
死の擬態を演じるマゾヒズム。
アルゴラグニアとは、死は「嫌なこと避けたいこと」のはずですが、それを快楽(好きなこと欲しいこと)としてしまう性癖です。キリスト教聖者への拷問が、この芽を大きく育てたのではないかと思います。
快楽原則と涅槃原則。死の衝動。すべての生の目標は死である。
反復脅迫。不快な経験をたえず反復する症状
反復脅迫。不快であるはずの行為を反復しないではいられない不可解な脅迫。不快な経験をたえず再現することによって、その刺激に慣れようとする、みずからにほどこす減感作療法のごときもの。
この反復脅迫も自分を傷つけるマゾヒズムの一部とされています。
※「反復脅迫」について触れたこの稿の筆者の小説です。ぜひお読みください。
「もう終わったこと。関係ないでしょ。昔のことなんて」
反復脅迫。心が壊れてしまいそうなほど傷を受けた者は、二度と同じ傷を受けないように心に充分な防壁ができるまで悪夢を何度も何度も心の中で繰り返すのだという。傷を傷と感じなくなるまで、痛みを痛みと感じなくなるまで何度も何度も自分を傷つけるのだ。
「歪んでるよね。でも好き」……
十戒の神との契約は、奴隷契約書だったと言わんばかりに
契約に書かれたことは守らなければならない。それはなぜでしょうか。
それはもともと契約というものが神との契約から発達したものだからです。神との約束をたがえるわけにはいきません。
マゾッホは崇拝すべき対象(女王様)と、契約をとりかわすことを好みます。
奴隷契約書には、気まぐれ暇つぶしに女王は奴隷を虐待する権利を有すると書かれています。
マゾッホの場合、奴隷契約書や残った手紙の方が、マゾヒズムが露骨に強烈です。
サドの場合、自分は牢獄内にいますので、小説の中の出来事はすべて100%非現実でした。世界から孤立し厚い壁に囲まれた城の奥まったところでサドの主人公たちは世界を再構築しようとします。
しかしマゾッホは現実に作品を反映させようとし、作品に現実を反映させようとします。
冒頭にも書きましたが、まるで旧約の神の言葉かと見まがうばかりの「自己の放棄の要求」「わたしの他に意志をもたないと誓え」など、ひじょうにキリスト教の構図に似た契約書です。旧約の神様は「信じた時に奇跡が起こる」反面「信じない者は容赦なく滅ぼす」というおそろしい神さまです。
B’zは『愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけない』という歌で「信じるものしか救わないせこい神さま拝むより、僕とずっと一緒にいる方が気持ちよくなれるから」と歌っています。旧約の神のことですね。
もしもマゾッホの契約書が旧約の神との契約に擬されているのだとしたら、まるで神との契約は、奴隷契約だったのだといわんばかりです。
サディズムとマゾヒズムは違うもの
サディズムとマゾヒズムが表裏一体の鏡のようなものであることを一部認めているものの、ドゥルーズは「(サドの)サディズムと(マゾッホの)マゾヒズムは違うもの」だと主張します。
マゾッホのマゾヒズムの場合、女王様と奴隷がいるが、教師は打たれている方です。養育し、説得し、契約に署名させる訓育者なのは鞭打たれている男性の側(マゾッホ)でした。
「わたくしには無理な仕事ではないかと心配ですが、愛するあなたのためなら、やってみましょう。こんなことがわたくしの楽しみにならないように、気をつけてくださってね」
女王様が奴隷をたしなめていたのではありません。たしなめていたのは奴隷の方です。たとえば「必ず毛皮を着るように」というふうに奴隷が女王様をたしなめるのです。さすが毛皮フェチ。
奴隷の方が女王を育成し、仮装させ、口にすべき苛烈な言葉を教え込むのです。
この構図はサドにはありません。サドの作品にはどのような立場であれ「実践的な哲学者」が登場するばかりです。犠牲者の方が拷問者の口を借りて喋っている構図はマゾッホ独特のものです。マゾヒズムの女性拷問者はマゾヒズムの内部にいるからです。
「男をその奴隷としてしまうこの毛皮に包まれ鞭を手にした女は、いかなる場面であれこのわたくしによる創造物」だとマゾッホ自身も書き残しています。
サドの登場人物が非人間的で、哲学を語るためだけの登場人物に見えるのは、現実に反映することをバスティーユ牢獄によって阻まれているからかもしれません。マゾッホは現実につながっていました。
サディストは、マゾヒストを犠牲者に選ばないし、マゾヒストはサディストを自分の虐待者に選ばないということなのです。
【無限ループ】サディストとマゾヒストが出会ったら? クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った。
こんな笑い話しがあります。
サディストとマゾヒストが遭遇した。マゾヒストが「いためつけてくれ」という。するとサディストが「ごめんこうむる」という。
この小話の面白さがわかるでしょうか? サディストは奴隷の要求を叶えないことでサド心を満足しています。するとマゾはイジメられていることを感じてエクスタシーを感じます。するとサディストはその心を打ち砕こうと今度はいためつける行動に出るのです。するとマゾヒストは痛めつけられたことでエクスタシーを感じます。するとサディストはそれを止めて……と無限ループにおちいります。
似たような話に「クレタ人は噓つきだとクレタ人が言った」というのがあります。
クレタ人は嘘つきなんだからこのセリフはウソです。つまりクレタ人は正直ということになります。正直だとするとクレタ人は嘘つきだというのは本当です。つまりこのセリフはウソということになります……と、無限ループにおちいります。どこまでいっても終わることがありません。
キリスト教によってめざめたマゾヒズム
「聖人たちの伝記をむさぼるように読みふけり、殉教者たちがこうむる拷問の数々を読んでいると、熱に浮かされたような状態に投げこまれたものだ」
マゾッホ自身がそう告白しています。
三島由紀夫は『仮面の告白』の中で、弓に射られて恍惚の表情を浮かべるセバスティアヌス(サン・セバスチャン)を見て男色(ゲイ・ホモ)の心をうずかせたとしていますが、同じ絵を見ても「ゲイ・ホモ」だったり「マゾヒズム」だったり人によって触発されるものが違うんですね。
おまえは自立した存在として私に向き合おうとしている。あわれな愚か者よ。波は、月の光に照らされるときに、たまゆら、よりあざやかにきらめくからといって、尊大にも思い上がったりするだろうか。
始まりと終わりがあるキリスト教的世界観に対して、始まりもなければ終わりもない世界観です。
わたしは先の『聖母』の評論で、キリスト教世界観に決定打をあたえた書としてダーウィン『種の起源』をあげましたが、ショーペンハウアーとダーウィンは、マゾッホに直接的な影響を与えているようです。
サドにスピノザ思想(汎神論。自然が内なる要因である決定論。キリスト教の神の否定であり、サドが神の代わりに呼ぶ「自然」)が見られるように、マゾッホにプラトン主義(一者の光。すべてはひとつ神秘主義)が見られる。
マゾッホはみずから啓蒙主義者をもって任じていた。汎スラブ主義がマゾッホを駆り立てている。自身は小ロシアのツルゲーネフと呼ばれる。
カフカ『変身』主人公グレゴール・ザムザはマゾッホのアナグラム
そもそもサドと並び称されるマゾッホの作品にわいせつな描写がまったくなかったので、それは日本の編集者の自主規制なのか、それが知りたかったのです。
しかしマゾッホの小説に猥褻な描写は存在しません。雰囲気の小説。示唆の芸術でした。
登場人物の心境に立ち入らないかぎりエロスはありません。マゾッホのエロスは心で感じるものです。
サディストは制度を必要とする狂気、マゾヒストは契約関係を必要とする狂気でした。
エホバでない神(=自然)の世界を、牢獄の妄想の中で創造しようとしたサド。
それに対してマゾッホは「男をその奴隷としてしまうこの毛皮に包まれ鞭を手にした女は、いかなる場面であれこのわたくしによる創造物」だといいます。
サドがつくろうとしたのは世界観でした。しかしマゾッホはヴィーナスをつくろうとしました。そしてその異教の女神と契約しようとしたのです。
わたし以外は信じるな、というエホバ神から見ると、これもたいへんな背教ということになります。
カフカの有名な小説『変身』の主人公グレゴール・ザムザは『毛皮のビーナス』のゼヴェリーンからグレゴール、ザッハー・マゾッホからザムザ、というアナグラムだそうです。気味の悪い虫に変身してしまって周囲から虐待される『変身』カフカもまたマゾヒストだったんですね。
みんな……ヘンタイだなあ。
まあ、ヘンタイについてこれだけ語れるわたしも十分にヘンタイかもしれません。あるいはキリスト教に取りつかれているのかな?
やはり冒頭の問いかけに対する答えは「イエス」なのでしょうか??
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このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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