- サディストとマゾヒストが出会ったらどうなる?
- サドの作品にみられる傾向のことをサディズム。マゾッホの作品にみられる傾向のことをマゾヒズムという
- 『聖母』マゾッホ文学をマゾヒズム文学として読むと理解できない。サドの聖女。マゾッホの聖母
- マゾヒズムの語源となった作家ザッハー・マゾッホとはどんな作家?
- 性描写はモンタージュ。ヘンタイ作家の脳髄性欲
- 『聖母』あらすじ。異端のカルト宗教の教祖に惚れた男の物語
- 人間の自然な本性、本質的な衝動が罪の源だなんて……反キリスト教的な主張
- 屈辱の社会性。十字架に口づけするように、聖母の足に口づけする
- 妖精嗜好(フェアリータ)という性倒錯をもつマゾッホ
- <脳髄から発する性欲>マゾッホ文学をマゾヒズム文学として読むと理解できない
- マゾッホの小説よりも、彼の私生活、契約書のほうが、意味が大きい
- フェティシズムのことをマゾヒズムと命名してもよかったほど毛皮フェチ
- 加虐・嗜虐。苦痛快楽症=アルゴラグニア
- 反復脅迫。不快な経験をたえず反復する症状、減感作療法
- 神との契約、十戒は、奴隷契約書だったと言わんばかり
- サディズムとマゾヒズムは違うもの
- 【無限ループ】サディストとマゾヒストが出会ったらどうなるか? クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った。
- キリスト教によってめざめたマゾヒズム
- きみってマゾなの? その問いかけに対する答えは「イエス」なのか
サディストとマゾヒストが出会ったらどうなる?
「あなたの肉体と同様に、魂もまたわたくしの所有に帰し、そのことで深く苦しむことがあろうと、あなたの感覚と感情とはわたくしの権威に従うべきものとする」
「わたくしは残酷のきわみに走ることが許され、肉体の損傷に及ぶことがあろうと、あなたは黙ってそれを耐え忍ばなければならない」
唐突にこれらの言葉を読んだら、いったいどこからの引用だと思うでしょうか?
おそらく聖書、とくに旧約聖書からの引用だと思う人が多いのではないでしょうか。アブラハムは大切な息子イサクを神への生贄に捧げろ、と神から不条理ともいえる命令を受けましたが、従容と従って息子の肉体に刃物を突き立てようとしました。
「わたくしの存在以外に、あなたは何ひとつ所有するものはない。あなたにとって、わたくしはすべてである。あなたの命であり、未来であり、幸福であり、不幸であり、苦悩であり、そして歓喜なのである」
「わたくしはあなたの主権者であり、生と死をつかさどる主人である」
まるでモーセに十戒を授けた神の言葉のようです。しかしこれらは聖書の一説ではありません。オーストリアの作家ザッヘル・マゾッホが、ワンダという女性との間に交わした『契約書』の中の一節です。最近ではザッハー・マゾッホとも呼ぶことが多いようですね。
聖書というのは神とイスラエルの民との契約の書ですが、マゾッホは自分の女王様と自分とで、くだんのような契約を交わすことをプレイとして好みました。
筆者はランナーです。たいていの友人・知人はわたしのことを「走る人」と認識しています。世界中のマラソン大会を走ってきました。徹夜で走るトレイルランニングや、100km以上を走るウルトラマラソンも走っています。シリアスランナーである私は、よくこう聞かれたものでした。
「きみって、マゾなの?」
走る姿が、自分を痛めつけているように、周囲からは見えるみたいです。
「いや違う……と思うよ」
モヤモヤした気持ちでいつもそんな風に答えていました。自分の中にマゾヒストの自覚があったわけではありません。マゾ、マゾヒストというものが当時はよくわかっていなかったから返事のしようがありませんでした。よくわかっていないものに対して「自分はそれだ!」「それじゃない」なんて断言できるわけがありません。
たとえばボディービルダーのような筋トレマニアはストイックに自分の筋肉を傷めつけてパンプアップしているわけですが、彼らはマゾなのでしょうか? そんなことを言いだしたら、あらゆるスポーツマンはマゾヒストだという気がします。
そこで、自分がその疑惑もあるマゾヒズムっていったいどういう性倒錯なのか、言葉の語源となったマゾッホの作品を通して調べてみることにしました。
サドの作品にみられる傾向のことをサディズム。マゾッホの作品にみられる傾向のことをマゾヒズムという
マゾッホのもっとも有名な作品は『毛皮のビーナス(毛皮を着たビーナス)』ですが、手に入らずまだ読んでいません。ネットで調べた毛皮のビーナスの表紙がグスタフクリムトの『ユディト』でした。ユディトというのは敵将の寝首を掻いたユダヤ人女性です。強そうな男の首を持つ美女という名画は、たいていサロメかユディトのどちらかです。内容を暗示している気がしてなりませんね。
代わりに読むことができたのは『聖母』です。ここでは聖母そのものよりも、マゾッホの性的嗜好について考えていきます。
『聖母』マゾッホ文学をマゾヒズム文学として読むと理解できない。サドの聖女。マゾッホの聖母
マゾヒズムの語源となった作家ザッハー・マゾッホ。これと対になっているのがサド侯爵です。
サド侯爵に関しては、キリスト教の規範に、禁止されている性欲をぶつけて戦ったアンチクリストという目線で見なければ、彼の文学は理解できないことをすでに『サド侯爵夫人論』で述べたところです。
鞭打ちの描写は加虐趣味というよりは、キリスト教の美徳は報われないことを実証するためといったほうが本質的なところをついています。聖女と呼ばれるような美徳の女性が、無意味に辱められ虐げられているシチュエーションこそが重要だったのです。
それでは並び称されるマゾッホの聖女はどんな扱いを受けているのでしょうか? 『聖母』を読んでみました。
マゾヒズムの語源となった作家ザッハー・マゾッホとはどんな作家?
1836から1895を生きたオーストリアの作家です。キリスト教に決定打をあたえたダーウィンの種の起源が1859年の発行なので、彼と同時代の人物です。『聖母』の出版は1886年。
「地質学者たちがわたしを放っておいてくれればいいのに! 聖書の行の終わりごとに、彼らのハンマーの音がガンガン響く」
ダーウィンの進化論によって、神が人間をつくったということが決定的に疑われ、聖書の神のことばへの疑いがガンガン響いていた頃に、『聖母』は書かれました。
科学という新しい宗教を信じる人たちが増えていく中、マゾッホは信仰を失うことを「魂の危機」と見なしていたようです。『聖母』の主人公マルドナは、イエスに変わる新しい救世主、新しい宗教の教祖です。新しい救世主は美しい女でした。
性描写はモンタージュ。ヘンタイ作家の脳髄性欲
父を殺し母と交わったオイディプスは、世の中から消えてしまいたいほどの恥辱を感じていたのに、エディプスコンプレックスと名付けられたことで、恥ずべきエピソードを後世に残すことになってしまいました。さぞや意外だったことでしょう。
エディプス・コンプレックス。「親父を乗り越える系の話し」は無数にある
それと同じようにマゾッホも作家としての名声とは別に、元祖マゾヒストという一種のヘンタイとして名前を歴史に残すことになります。さぞや意外だったことでしょう。
ところが読んでみると、それほどヘンタイ作家の書いたものとは思えません。もしもマゾッホがマゾヒズムという性倒錯の元祖として自分の名前が後世に残ると知っていたら、もっと遠慮容赦なく性倒錯の描写を、その道の先駆者らしく書き残したことでしょう。しかし本人はまさかそんな風に不滅の名前を手に入れるとは思ってもいませんでした。だから筆は抑え気味です。
古い文学作品によくあるように、性描写はモンタージュで露骨なところはありません。モンタージュというのは、抱きしめたところで場面が変わり、次の場面では翌朝になっていることでセックスを暗示するような手法です。この点、サド侯爵の方は表現が露骨すぎてまるでエロくなく、むしろ生体解剖しているかのようです。まったく性的にそそられないところは同じですが。ふたりともただの性欲ではなく、脳髄から発している何かが加味されているためでしょう。
『聖母』あらすじ。異端のカルト宗教の教祖に惚れた男の物語
マゾヒスト文学という先入観で読んでいるので、いろいろなところが非常に意外に感じました。さえないモテない中年男性が主人公かと思いますよね? ところが語り手のサバディルは勇気もあってイケメン。自然を愛する男です。しかしマルドナという美女と出会って運命が狂っていきます。
マルドナはカルト宗教の教祖です。カトリックに代表される既存のキリスト教の教えをマルドナは否定します。それは最後の審判の日、イエスではなく女が人々を救うという異端の宗教でした。その女が聖母と呼ばれます。
キリスト教の本質は「この肉体この意識のまま死者が復活すること、そして永遠の命を得ることができるということ」にあります。しかしマルドナの教義は「肉体はよみがえらず、魂だけがよみがえる」という異端の教義なのでした。
そして信者たちの上に女王のように君臨しています。ちょっと「オウム真理教」を彷彿とさせます。麻原彰晃は信者の複数の女性を愛人にして、真理勝者の血を授けることを功徳にしていたといいますから。
そしてキリスト教がアンチテーゼとして登場します。マゾッホもサド的な展開でしょうか? その歪んだ性欲でキリスト教とたたかおうとするのでしょうか? 読み進めてみましょう。
人間の自然な本性、本質的な衝動が罪の源だなんて……反キリスト教的な主張
マルドナのカルト教団は、性には奔放で自由でした。離婚できないカトリックとは違い、離婚も簡単です。そして結婚も簡単です。たとえば性のような人間の本質的なよろこびを否定しない宗教でした。性欲を罪とし、禁欲を求めるのがクリスト教でした。だから自分の自由を縛るものとしてサドが叛逆したわけです。動物が同じようにもっている本質的な衝動が罪の源だなんて……マルドナはサドと同じように性欲を否定しません。無理に押さえつけず、寛大に扱う。現世の欲望を抑え込むのではなく、最初から考えに入れるというのがマルドナの宗教でした。
マルドナの教団は秘蹟や聖人も信じないものです。カトリックとはまったく別の宗教でした。崇拝するのは神によってえらばれた聖女です。キリスト教は肉の部分を恥じ隠し否定しようとしました。肉欲を敵視し軽蔑しました。それがまちがいのもとだという考え方の新興宗教なのでした。人間が追い出された楽園というのは、人間の自然な本性のことだとマルドナ教団は説きます。そしてかつての無垢な境地に立ち返れと訴えます。自然なるものを恥じるな。聖母は人間を楽園へと連れ戻す存在だ、と。
屈辱の社会性。十字架に口づけするように、聖母の足に口づけする
宗教団体のカリスマであるマルドナは、神に選ばれたものとして超然とした態度をとります。立派な男サバディルは、マルドナに普通の男として扱われること、男女対等な存在を望みますが、かなえられません。
自分がいったい誰なのか? 自分が無駄と感じなさい。
マルドナはサバディルに問いかけます。わたしの中の神を敬いなさい。全能の神に対する聖母のとりなしが必要だと訴えます。そしてサバディルは踏みつけにされました。マルドナはキリスト教信者の誇り高さを泥にまみれさせるのです。サバディルもついには平伏し、靴にキスします。
わたしたち日本人は土下座には慣れ親しんでいます。しかし、靴をなめろ、というのはあまり日本人にはなじみのない屈辱ではないでしょうか?
よくマンガで傲慢な悪役が「オレの靴をなめろ」と言って、怒ったヒーローにぶっ飛ばされるのがお約束ですが、アレです。アレが普通に登場します。
屈辱というのは文化的なものなので、靴をなめる=屈辱、という記号が頭にインプットされていないとなかなか頭に血がのぼるところまでいかないのではないでしょうか。もしわたしが誰かに「オレの靴をなめろ」と言われたら、そのズレた感覚に失笑してしまうかもしれません。ぷぷぷ。
キリスト教の文化では十字架に口づけするということがあります。聖書にはイエスの足に口づけする描写もあります。その感覚で足に口づけしろという感覚なのでしょう。足というのは家畜の糞などを踏んだ体のうちでもっとも不潔な場所です。その不潔な場所にひれ伏して、足や靴にくちづけする。つまり不潔なことを強制できるという力をもっているということでしょう。
想像してみましょう。靴に唇を押し当てている時の感覚を。やる方(ひざまずく側)、やられる方(キスされる側)にも身を揉むような快楽があるのかしら? 想像して心の何かがうずいたら、マゾヒストの芽があなたの心の中にもあるということです。
妖精嗜好(フェアリータ)という性倒錯をもつマゾッホ
男としてマルドナに見てもらえないサバディルは不満をもっています。そこにつけこんだのがソフィアという女でした。ソフィアは自分の貫通の罪をマルドナに罰せられたことから恨みを抱いていました。離婚してから交わるのは自由だが、結婚した状態で夫以外と交わることは許されていないという教義だったからです。
ソフィアはマルドナに復讐するために、マルドナが好意をいだいているサバディルを籠絡することにしました。最初はソフィア自らが関係を結びますが、サバディルの心まで得ることはできませんでした。次に若く美しいニンフォドーラをサバディルに当てがいます。サバディルはニンフォドーラに惹かれます。
これだって妖精嗜好(フェアリータ)というりっぱな性倒錯じゃないでしょうか?
マゾッホの作品には、想像しているマゾヒズム描写がなかなか出てこなくて、期待通り、思った通りの展開とはなってくれないのでした。
聖母マルドナは、ニンフォドーラを愛したことで自分を裏切ったサバディルを、教祖としての力を使ってキリストさながらに十字架に釘付けにし、ついには心臓に釘を打ち込んて殺してしまいます。
世の法律でマルドナは裁けません。悪魔のような魅力で裁判官を籠絡しているからです。逃亡しつつ、マルドナは泣き崩れるのでした。
<脳髄から発する性欲>マゾッホ文学をマゾヒズム文学として読むと理解できない
やはりサド文学をサディズムとして読むと理解できないように、マゾッホ文学をマゾヒズムとして読むと理解できないのだろうと思います。だいいち被虐趣味というほど虐待をよろこんではいません。そして裸になったり、まぐわったりするような、露骨な描写はありませんでした。もっとサドは露骨でした。
宗教の教祖であるマルドナは現世の法に裁かれますが、なんと裁判官までひざまずかせて、足に口づけさせてしまうのです。裁判官はマルドナの罰金を肩代わりして、貢物までもってくるのでした。そして密会をよろこび、ひれ伏して、跪いて、足にくちづけするのでした。
作家マゾッホ本人も複数の女性に対し奴隷のように隷従したそうです。インテリにマゾが多いといいますが……サド侯爵もとてつもなくインテリ(衒学的)なので、ここでは性欲は脳髄から発すると言っておきます。サディズムとマゾヒズムは裏と表なので。
性器を刺激してエクスタシーを得るといったいとなみにくらべると、ひじょうに精神的なものです。人間という高等動物にしか、このようなエクスタシーはないのではないでしょうか。脳髄から発した何かを否定して忘れ去ろうとした宗教と、それを真正面から見つめた文学というのは、やはりどこかで対決する運命なんだろうと思います。
マゾッホの小説よりも、彼の私生活、契約書のほうが、意味が大きい
私は大学の卒業論文でサドを論じて(厳密には三島由紀夫の『サド侯爵夫人』を論じて)文学修士になっています。サド侯爵の作品にみられる傾向のことをサディズム。マゾッホの作品にみられる傾向のことをマゾヒズムといいます。クラフト=エビングというドイツの精神科医が命名しました。
さて、私のマゾヒズムをめぐる読書がどうして『聖母』だけで終わらなかったのかというと……本書には性的な描写がほとんどなかったからです。そこが謎でした。サドは解剖学の本のように露骨でしたから。『聖母』だけが特別で『毛皮のビーナス』には性的な描写があるのかしら? あるいは日本の編集者の自主規制なのか、それが気になりました。
そこで読んだのは『マゾッホという思想(平野嘉彦)』『マゾッホとサド(ジル・ドゥルーズ)』です。
マゾッホは二十歳で大学の講師をつとめる秀才でした。神のいない世界を創造するサド侯爵がインテリなのは想像がつきます。しかしそうでもなさそうなマゾッホもインテリでした。通説では「マゾヒストはインテリや社会的地位の高い人が多い」といいますが、元祖マゾッホはインテリでした。そして社会的に成功した作家でした。
フェティシズムのことをマゾヒズムと命名してもよかったほど毛皮フェチ
もっとも有名なマゾッホの作品が『毛皮を着たビーナス』であるのは偶然ではありません。マゾッホのビーナスは毛皮を着ていなければならなかったのでした。それほどマゾッホは毛皮にこだわりを見せます。ほとんどヘンタイです。マゾヒズムということばをフェティッシュの意味に位置付けてもよかったほどの毛皮偏執者でした。
女王様は、毛皮を着て、美しいことが条件でした。暴力ではなく、存在の及ぼす影響力によって奴隷を有するのです。
毛皮を着た残虐な女に鞭打たれる。野獣の毛皮が野獣の体臭を発散していた。
奴隷は熊や盗賊の真似をする。毛皮をまとい鞭を手にした豊満な女性によって駆り立てられ、鎖につながれ、賞罰と侮辱と激しい肉体的苦痛を被らされる。
→ 女王様はみごとにみんな揃いも揃って毛皮を着ています。SMクラブだとレザーを着ているようなイメージがありますが、元祖マゾッホはレザーフェチ・ラバーフェチではなく毛皮フェチでした。
マゾッホがこうなったのには美しい叔母の存在があったようです。
夫を裏切っておいてあとで虐待する肉感的な毛皮に包まれた伯母。あるときは王女風の貂の毛皮をまとったり、あるときはブルジョワ風の兎の毛皮をまとったり、田舎風の羊の毛皮をまとったり、
なんやかやと憧れの女性は毛皮を着ています。そんなにそそるかな毛皮!? ヘンタイじゃないの!?
加虐・嗜虐。苦痛快楽症=アルゴラグニア
サディズムとマゾヒズムは同じもののネガとポジだという説があります。サドとマゾというのは容易に反転することが多いからです。たとえば男性読者がSM小説を読んでいる場合、途中までは責めている男性目線(加虐趣味)だったのに、いつしか責められている女性の立場(嗜虐趣味)で読んでいた、というような場合がSM的な反転に該当します。
また苦痛快楽症と訳されるアルゴラグニアという症状もあります。苦痛の定義は「嫌なこと避けたいこと」ですが、それを快楽、好きなこと欲しいことにしてしまえば、避けたも同然でしょう?
反復脅迫。不快な経験をたえず反復する症状、減感作療法
反復脅迫とは、不快であるはずの行為を心の中で反復しないではいられない不可解な衝動のことです。不快な経験をたえずイメージ再現することによって、その刺激に慣れようとするのです。みずからにほどこす減感作療法のようなものです。この反復脅迫も自分を傷つけるマゾヒズムの一部とされています。
神との契約、十戒は、奴隷契約書だったと言わんばかり
契約に書かれたことは守らなければならないとされています。それはなぜでしょうか。
それはもともと契約というものが神との契約から発達したものだからです。神との約束をたがえるわけにはいきません。
マゾッホは崇拝すべき対象(女王様)と、契約をとりかわすことを好みます。契約書には、気まぐれ暇つぶしに女王は奴隷を虐待する権利を有すると書かれています。
マゾッホの場合、書いた小説よりも、奴隷契約書や残った手紙の方が、マゾヒズムが露骨に強烈でした。
サドの場合、自分は牢獄内にいますので、小説の中の出来事はすべて100%非現実でした。世界から孤立し厚い壁に囲まれた城の暗く奥まったところでサドの主人公たちは世界を再構築しようとします。しかしマゾッホは、作品に現実を反映させようとしました。現実に作品世界を反映させようとしました。
マゾッホの契約書は、冒頭でもふれましたが、まるで旧約の神の言葉かと見まがうばかりのものです。「自己の放棄の要求」「わたしの他に意志をもたないと誓え」など、ひじょうにキリスト教の精神構図に似た契約書です。
旧約の神様は「信じた時に奇跡が起こる」反面「信じない者は容赦なく滅ぼす」というおそろしい神さまです。
B’zは『愛のままにわがままに僕は君だけを傷つけない』という歌で「信じるものしか救わないせこい神さま拝むより、僕とずっと一緒にいる方が気持ちよくなれるから」と歌っています。この神さまは旧約聖書の神さまのことですね。神社の神様のことではありません。
もしもマゾッホの契約書が旧約の神との契約に擬されているのだとしたら、まるで神との契約は、奴隷契約だったのだといわんばかりです。
サディズムとマゾヒズムは違うもの
サディズムとマゾヒズムが表裏一体の鏡のようなものであることを一部認めているものの、ドゥルーズは「(サドの)サディズムと(マゾッホの)マゾヒズムは違うもの」だと主張しています。
マゾッホのマゾヒズムの場合、女王様と奴隷がいるが、この場合の教師はむち打たれている方です。養育し、説得し、契約に署名させる訓育者なのは、虐待されている側なのでした。
「わたくしには無理な仕事ではないかと心配ですが、愛するあなたのためなら、やってみましょう。こんなことがわたくしの楽しみにならないように、気をつけてくださってね」
女王様が奴隷をたしなめていたのではありません。たしなめていたのは奴隷の方です。たとえば「必ず毛皮を着るように」というふうに奴隷が女王様をたしなめるのです。さすが毛皮フェチですね。
奴隷の方が女王を育成し、仮装させ、口にすべき苛烈な言葉を教え込むのです。
この構図はサドにはありません。サドの作品にはどのような立場であれ「実践的な哲学者」が登場するばかりです。犠牲者の方が拷問者の口を借りて喋っている構図はマゾッホ独特のものです。主役は打つ方ではありません。打たれる方が主役なのです。
「男をその奴隷としてしまうこの毛皮に包まれ鞭を手にした女は、いかなる場面であれこのわたくしによる創造物だ」
とマゾッホ自身も書き残しています。
サドの登場人物が非人間的で、哲学を語るためだけの登場人物に見えるのは、小説に現実を反映させることを監獄によって阻まれているからかもしれません。しかしマゾッホは現実につながっていました。それが彼の契約書です。
サディストはマゾヒストを犠牲者に選ばないし、マゾヒストはサディストを自分の虐待者に選ばないのです。
【無限ループ】サディストとマゾヒストが出会ったらどうなるか? クレタ人は嘘つきだとクレタ人が言った。
こんな小話があります。
サディストとマゾヒストが遭遇した。マゾヒストが「いためつけてくれ」という。するとサディストが「ごめんこうむる」という。
この短い小話の面白さがわかるでしょうか? サディストは奴隷の要求を叶えないことでサド心を満たしています。するとマゾヒストはイジメられていることを感じてエクスタシーを感じます。するとサディストはその心を打ち砕こうと今度はいためつける行動に出るのです。するとマゾヒストは痛めつけられたことでエクスタシーを感じます。するとサディストはそれを止めて……と脳髄から発した欲望は無限ループにおちいります。
似たような無限ループ系の話しに「クレタ人は噓つきだとクレタ人が言った」というのがあります。
クレタ人は嘘つきなんだからこのセリフはウソです。つまりクレタ人は正直ということになります。正直だとするとクレタ人は嘘つきだというのは本当です。つまりこのセリフはウソということになります……と、無限ループにおちいります。どこまでいっても終わることがありません。
キリスト教によってめざめたマゾヒズム
「聖人たちの伝記をむさぼるように読みふけり、殉教者たちがこうむる拷問の数々を読んでいると、熱に浮かされたような状態に投げこまれたものだ」
マゾッホ自身がそう告白しています。
三島由紀夫は『仮面の告白』の中で、弓に射られて恍惚の表情を浮かべるセバスティアヌス、サンセバスチャンを見て男色、ゲイの心をうずかせたとしていますが、同じ絵を見ても「ゲイ・ホモ」だったり「マゾヒズム」だったりと、人によって触発されるものが違うんですね。
おまえは自立した存在として私に向き合おうとしている。あわれな愚か者よ。波は、月の光に照らされるときに、たまゆら、よりあざやかにきらめくからといって、尊大にも思い上がったりするだろうか。
わたしは先の『聖母』の書評で、キリスト教世界観に決定打をあたえた書としてダーウィン『種の起源』をあげましたが、ダーウィンとショーペンハウアーは、マゾッホに直接的な影響を与えているようです。
マゾッホはみずから啓蒙主義者をもって任じていました。自身は小ロシアのツルゲーネフと呼ばれて、汎スラブ主義がマゾッホを駆り立てていたそうです。
きみってマゾなの? その問いかけに対する答えは「イエス」なのか
そもそもサドと並び称されるマゾッホの作品にわいせつな描写がまったくなかったので、それは日本の編集者の自主規制なのか、それが知りたかったのです。
しかし解説本を読んでも、マゾッホの小説に猥褻な描写は存在しませんでした。雰囲気の小説。示唆の芸術でした。登場人物の心境に立ち入らないかぎりエロスはありません。マゾッホのエロスは心で感じるものです。
サディストは制度を必要とする狂気、マゾヒストは契約関係を必要とする狂気でした。
エホバでない神(=自然)の世界を、牢獄の妄想の中で創造しようとしたサド。それに対してマゾッホは「男をその奴隷としてしまうこの毛皮に包まれ鞭を手にした女は、いかなる場面であれこのわたくしによる創造物」だといいます。
サドがつくろうとしたのは世界観でした。しかしマゾッホはヴィーナスをつくろうとしました。あるいは聖母を。そしてその異教の女神と契約しようとしたのです。わたし以外は信じるな、というエホバ神から見ると、これもたいへんな背教ということになりますね。
カフカの有名な小説『変身』の主人公グレゴール・ザムザは『毛皮のビーナス』のゼヴェリーンからグレゴール、ザッハー・マゾッホからザムザ、というアナグラムだそうです。気味の悪い虫に変身してしまって周囲から虐待される『変身』カフカもまたマゾヒストだったんですね。
みんな……ヘンタイだなあ。
まあ、ヘンタイ論についてこれだけ語れるわたしも十分にヘンタイかもしれません。あるいはキリスト教に取りつかれているのかな?
「きみって、マゾなの?」
やはり冒頭の問いかけに対する答えは「イエス」なのでしょうか??