執事=サラリーマン、と読むと理解しやすい物語
カズオ・イシグロ(石黒一雄)という日本人(日系人)が、ノーベル文学賞をかっさらっていきました。村上春樹などと比べて日本ではほとんど無名なのに……やはりこれは日本人ではなくイギリス人がとったノーベル文学賞と理解した方がいいようです。
偉大な執事とは何か?
受賞作『日の名残り』の主旋律は「偉大な執事とは何か?」という問いかけにあります。「執事? オレには関係ないね」と切り捨てることなかれ。執事=サラリーマン、と読めば、ほとんどの現代人に当てはまる物語だ、ということができるでしょう。
その執事という業務が斜陽産業であるために「日の名残り」という残光のようなタイトルとなっています。それを大英帝国の残光というように解釈する人もいるようですね。本当の執事はイギリスにしかいないそうですから。
『日の名残り』の魅力、内容、あらすじ、評価、感想
執事とは知性でも眼力でもなく品格。イギリスの国土は、自分の美しさと偉大さをよく知っていて、大声で叫ぶ必要を認めません。
品格の有無を決定するものは、みずからの職業的あり方を貫き、それに耐える能力。なみの執事はほんの少し挑発されただけで職業的あり方を投げ捨てて、個人的な在り方に逃げ込みます。パントマイムを演じているのと変わりません。ちょっとつまづくとたちまち中の演技者がむき出しになるのです。偉大な執事は外部の出来事には動じません。
執事はイギリスにしかおらず、他の国にいるのは、名称はどうであれたんなる召使いだ。
→ 執事という職業人を私は見たことがありません。メイドならありますけど、秋葉原あたりで(笑)。本作の魅力のひとつに執事がご主人様のことを執事目線で語る、という文体にあります。はじめから脇役であることが決まっている人間が執事です。いわば『日の名残り』は脇役の物語なのでした。
過ち自体は些細かもしれないが、その意味するところの重大さに気づかなければならない。
この世界は車輪。偉大なお屋敷を中心に回転している。中心で下された決定が順次外側へ放射され、いずれ周辺に行き渡る。この文明を担っておられる当代の偉大な紳士にお仕えすることが執事の職業的野心。
→こういうところを、当代の一流企業にお勤めすることがサラリーマンの職業的野心、と読み替えましょう。そうすれば本作は急に身近なものとなり、読みやすくなります。
半沢直樹などサラリーマンもののドラマもあるため、サラリーマンを脇役と思わない人もいるかもしれませんが、サラリーマンは誰か他人のためにご奉仕する所詮は脇役の存在です。だってそうでしょう。スペースXやテスラの会社員Xのことを物語の主人公だとあなたは思いますか? あきらかに主人公はイーロン・マスクでしょう。そうです。執事はサラリーマン同様、しょせんは初めから脇役の存在だということはわかりきっています。そのなかで執事がどんな生きがいを見つけるか、は、サラリーマンがどんな生きがいを見つけるかに通じるものがあるのです。
お屋敷は「まがいもの」か? そう思う人もいる。
私は国家の大事のまっただなかで執事を務めることができた。凡庸な雇主に伝え、それでよしとしている執事には決して知りえない特別の満足を味わう権利がある。
→ 大企業ならではの満足がある。中小企業の会社員とは違うのだ、と読み替えましょう。さて、本当にそうでしょうか。その答えは物語のラストにわかります。
世界の大問題について自分なりに考え、自分なりの意見を持つことなど、現実の生活に追われている一般庶民にはたして可能でしょうか。ここの村人たちはそれを持っているという主張はおそらく空想に過ぎぬでしょう。
→じっさいに自分の意見を持てないのは執事自身なのでした。実際にそのようなシーンがあります。外の世界では世界大戦が行われているのですが、執事はただ日々の執事業務に忙殺されるばかりです。それでも自分が世界の中心にいる幻想を持っているのでした。
外交政策について意見を求められた執事は発言を控えます。それを見た貴族たちは嘲笑します。議会政治は国の意思決定を執事や数百万の仲間に委ねようとしている。さまざまな困難に少しも解決策を見いだせないのは、母親の会に戦争の指揮をとってくれと頼んでいるようなものだ。
→ 執事の仕事は専業主婦の仕事に似ていると感じました。この文脈は主婦などにも該当するでしょう。
結婚の申し込みを受けた女中頭。「このお屋敷二十数年もお仕えした私が辞めようというのですよ。それに対する感想が、いまおっしゃったそっけないお言葉だけですか?」しかし執事は仕事が忙しいとそっけないままでした。
あなたを困らせたくて、辞めることもそのための計略のひとつぐらいに考えていたのでしょう。私は夫を愛せるほどに成長したのです。
→ よく少女漫画などに、止めて欲しくてプロポーズをされたことをほのめかすものの、止めてもらえずにそのまま結婚してしまう悲恋が描かれますが、アレですね。
ときにみじめになる瞬間がないではありません。私の人生は大きな間違いだったことかしら、と。もしかしたら実現していたかもしれない別の人生を、たとえばあなたといっしょの人生を考えたりするのですわ。
→ これは誰しもが考えることではないでしょうか。もしも人生が二度あれば、と。
時計を後戻りさせることはできません。
聞いた言葉を噛みしめるのに一瞬を要しました。私の胸中にはある種の悲しみが喚起されておりました。その瞬間、私の心は張り裂けんばかりに痛んでおりました。
→ 執事は「ありえたかもしれない別の人生」に恋焦がれて涙を流します。これまで品格を保ってきた人生=執事が崩れそうになった瞬間でした。もしかして執事人生は失敗だったのではないか、と心の奥底ではわかってしまったのです。
自分を愛してくれた女性とも、執事の品格のまま他人行儀に接して別れるのでした。
→ だからといって生涯執事は簡単に変わることなどできませんでした。最後まで執事の品格のままで、かつて自分を愛してくれた女性と別れます。
もてる力を振り絞って卿にお仕えして、そしていまは……ふりしぼろうにも、もう何も残っておりません。振り絞ろうにも、もう力が残っておりません。
おやおや、あんた、ハンカチがいるかね?
→ 執事が泣いたという直接の描写はありません。ただ「ハンカチはいるか?」と会話相手が言うだけです。抑揚のきいた文章ですね。
ダーリントン卿は、自分が過ちをおかしたと言うことがおできになりました。少なくとも選ぶことをなさいました。しかし私は選ばずに信じたのです。卿の判断を信じました。お仕えしているあいだ、自分が価値あることをしていると信じていただけなのです。
自分の意志で過ちをおかしたとさえ言えません。そんな私のどこに品格などがございましょうか?
→ ダーリントン卿は、第一次世界大戦後のドイツを苦しみから救おうと、ベルサイユ条約の厳しすぎる賠償金の減免運動をしています。しかしドイツにはヒトラーが誕生し、避けたかった再戦は避けられず、戦後、ダーリントン卿はナチスの協力者という烙印を押されてしまいました。つまり「世界の中心」どころか「よけいなことをした、必要のない場所」だったと卿本人も認めたのです。
昔ほどうまく仕事ができない? みんな同じさ。いつかは休むときが来るんだよ。もう若いとはいえんが、それでも前を向き続けなくちゃいかん。引退してから、楽しくて仕方がない。人生、楽しまなくちゃ。
→卿=会社、と捉えれば、この物語はサラリーマンの悲哀に通じるものがあります。会社の命令に忠実にまい進した忠犬は、己の欲望を隠し、周囲のことが何も見えず、期待される会社員像を演じきって、挙句の果てに会社は倒産。自分が何のために生きてきたのかわからなくなってしまうのでした。
サラリーマン(執事)としては超一流でも、人間としては三流の人物
解説にこうあります。
「信じていた執事としての美徳は、恋い慕っていた人の恋心もわからぬ程度の、人間としての鈍感さにすぎないと判明する。彼が忠誠をささげた卿は、戦後、対独協力者として葬り去られる程度の人物に過ぎなかった」
結局、サラリーマン(執事)としては超一流でも、人間としては三流の人物なのでした。それは職業人のスキルとトレードオフなもので、仕方がないのかもしれません。
むやみに冗談を言うことが好きなアメリカ人の雇主のために、ジョークの練習をしよう。
物語のラストはこのように締め括られます。この主人公は最後まで執事としてしか生きられないのでした。もう国家を担うプライドもなく、他国人に雇われてご機嫌をうかがうだけの召使いにすぎません。
作中に何度も描かれる「執事の品格」とは何でしょうか。それは人間個人としての願いや欲望を隠して見せないところにあると感じました。それはサラリーマンも同じでしょう。
人間らしさを隠し続けているうちに、習い性となり、やがてはそんなものは初めからなかったかのようになってしまうのです。軍人が人を殺すのを何とも思わなくなるように。そういう人生もアリとは思いますが、私自身はそういう生き方はしたいとは思いません。
自分の歌を歌え。集団よりも個を優先する生き方【トウガラシ実存主義】
私の掲げる「トウガラシ実存主義」は、会社とか国とかに自分の価値観を預け切ってしまうのではなく、自分の歌を歌うことです。この物語の執事もトウガラシ実存主義にはやく気づいていれば苦い人生の味をあじあわなくてもすんだのに、と感じました。
カズオ・イシグロも「(執事のような生き方は)やめとき」とは直接訴えかけないものの「どうですか、みなさん。よく考えて」というスタンスです。それはつまりは「踏みとどまりな」と言っているようなものです。
執事のプライドとは、会社員の会社に対するプライドのようなものです。自分の雇主(会社の業務)は特別だと思い込む人がいます。しかしそうじゃ思わない人もいる。すべては自己満足の世界です。会社が自分の世界のすべてになってしまう人と、会社の外にも世界があることを知っている人、あなたはどちらになりたいでしょうか?
この物語の主人公の執事は、おそらく後者のようになりたかったと自分の本当の気持ちに気づきながらも、あまりにも遅すぎて、前者のようにしか生きられなかった人物なのでしょう。
そこには何かの教訓があるはずです。