人生の真理といえばこの本『夜と霧』
読書家の私を唸らせた本というのは、実はあまり多くありません。
もっともがっかりしたのはドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』。たくさんの人が絶賛する作品ですが、作品のオチは「キリスト教の救い」です。いや、キリスト教って……おれ、キリシタンじゃねえし!
ドストエフスキー作品の読み方(『カラマーゾフの兄弟』の評価)
それに対して「これは!」「これこそわたしの求めていたもの」と唸ったのがヴィクトール・フランクル著『夜と霧』です。
このコラムで書評しようとする『死と愛』は、この『夜と霧』の著者である精神科医のヴィクトール・フランクルの著作です。
「カギカッコ。」の中は本書本文からの引用です。
ヴィクトール・フランクル『死と愛』の書評、内容、評価
「創造ないし活動の中に実現化される「創造価値」。体験の中に実現化される「体験価値」自然や芸術が人生にあたえうる豊かな意味は過小評価されてはならない。」
「活動において創造価値。体験において体験価値。苦悩において態度価値。」
たとえ寝たきりになっても、死の床にあっても、態度価値において人間の違いが出るとフランクル博士は考えました。
「一瞬の高さにおいて一生涯の大きさが計られうる。ちょうど山脈の高さがもっぱら最高峰の高さにおいて計られるように、人生においても最高点が決定的なのであり、わずかの一瞬が全生涯に意味をあたえるということもありうる。」
著者のフランクル博士はユダヤ人です。そしてナチスドイツの強制収容所を経験しています。その経験から、この苦しみの意味は何だ? 人生の意味は何だ? と問い続けました。たいていは問いだけで終わるこの問題に、ひとつの結論を出したところがフランクル博士のすごいところです。
ユダヤ人問題は被差別部落問題に似ている。人間の集団は差別せずにはいられないのかもしれない。
「人間はいわば旅行案内書を手に持って生活することはできない。」
「天文学者といえども「或る一定の時間」のみの使命であって、彼の妻を看護することが大切であるならば、ただちにそれを止めなければならない。」
英雄の人生は彼の仕事(政治家とか軍人が多いですね)で語られますが、普通の人間にとって人生とは仕事のことではないみたいですね。
「失業神経症。われわれは金が欲しいのではない。人生の内容が欲しいのだ。」
「彼のなしうることに応じて臨機応変の最善の行動をすること。」
「人生そのものの意味に対する問いは無意味である。その逆で人生が人間に問いを提出するのである。人間は問いを発するべきではなくて、むしろ人生によって問われているものなのであり、人生に答えるべきなのである。答えは具体的な答えであらねばならない。」
オレの生きる意味を問うのではなく、人生がオレに何を問いかけているのか考えろ、というのですね。私アリクラハルトのいう「運命に導かれる生き方」に通じるものがあります。
運命に導かれる生き方をしよう。失意の場所で、今まで以上の幸せを探すことが運命を生きること
『死と愛』のこのへんの描写は『夜と霧』の結論に通じています。ちなみに『夜と霧』の結論というのは……
この世にもはや何も残されていなくても、心の奥底で愛する人の面影に思いをこらせば、ほんのいっときにせよ至福の境地になれることをわたしは理解した。
生きることに意味があるなら苦しむことにも意味があるはずだ。
生きることは時々刻々問いかけてくる。ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きることの要請と存在することの意味は、人により、また瞬間ごとに変化する。したがって生きる意味を一般論で語ることはできないし、この意味への問いに一般論で答えることもできない。
生きることとは、つねに具体的な何かであって、とことん具体的だ。その具体性が、ひとりひとりにたった一度、他に類を見ない人それぞれの運命をもたらすのだ。誰も、そしてどんな運命も比類ない。どんな状況も二度と繰り返されない。
運命が人間を苦しめるなら、人はこの苦しみを、たった一度だけ課される責務としなければならないだろう。人間は苦しみと向きあい、この苦しみに満ちた運命とともに、全宇宙にたった一度、そしてふたつとないあり方で存在しているのだという意識にまで到達しなければならない。
この運命を引き当てたその人自身がこの苦しみを引き受けることに、ふたつとない何かをなしとげるたった一度の可能性はあるのだ。
子供のいない女性は無意味なのか? 人生の意味を問う格好の命題
「命の意味は子孫を残すことではない。家族や子孫も結局は死に絶えてしまうであろうし、全人類も地球という星の週末には死に絶えてしまうであろう。もし有限の生命が無意味であったならば、いつ終末が来るかなどまったくどうでもよいことになってしまう。」
「もし生命が意味を持っているならば、その長短や子孫の有無とは無関係に意味を持っているのである。意味を持っていないならば、たとえ無限に子孫を残し得ても何の意味も持っていない。子どものいない女性が無意味であるとするならば、人間はその子供のためにのみ生き、その実存の意味はもっぱら次世代のうちに存ずるということであるが、各世代はこの問題を解決せずに次の世代へ押しやるから問題は延期されたに過ぎない。」
このように「子どものいない女性は無意味なのか?」問うことは、人生の意味を問う格好の命題になります。なぜならもし子供のいない女性の命が無意味ならば、たとえ子供を産んだとしても次の世代に問題解決を先送りしただけで、子供のいる女性に意味があることにはなりません。子供のいない女性にも意味があるとしなければ、子供のいる女性にも、次の世代にも、意味があることにはならないのです。
カント流にいえば「意味があると要請されている」ということでしょう。
「母となることにのみ女性の意味を見るものは、現実には母となった女性の生命から意味を取り去るのである。」
「輝くべきものは燃えることに耐えなければならない。一つの炬火が消え失せても、それが輝いたということは意味をもっていた。」
「彼の唯一性は、彼の運命に対する責任を構成する。各個人はいわば全宇宙で一人そこにいるのである。かれの運命は繰り返されない。何人も彼と同じ可能性を有せず、彼が耐えなければならないものは、すべて唯一的であり、かつ一回的なのである。」
「父親が違っていたら事態は異なっていただろうというのは、次のことを忘れている。その場合は彼はもはや彼ではなく、運命の担い手は全く別な人物であり、したがって彼の運命について云々することはもはやできない。ゆえに他の運命の可能性を問うことはそれ自身不可能であり、無意味であり且つ矛盾している。運命は人間に属している。」
「成果がなかったということは意味がなかったということを意味しない。不幸な恋愛体験を人生から抹殺するかと聞かれたら否というであろう。」
「苦悩に満ちているということは、充ちたりていないということではない。苦悩の中に成熟し、苦悩において成長する。」
この描写は強制収容所を経験し、その中から「夜と霧」を生み出した作者にして説得力のある言葉だと思います。
「ドストエフスキーは「自分は自らの苦悩にふさわしくなることだけを恐れる」と書いた。」
「人間は快不快を過大評価する。それが愚痴っぽさを生み出す。」
「自殺の決心を翻させる男。その行為が、男を無感動から引き離した。」
死と向き合う。時間こそが人生
「人間は時間を利用することを強いられる。彼の作品がトルソに終わる危険を冒さなければならない。時間的な長さではなく内容の豊かさによって判断する。」
「人間もいつ「呼び戻される」かもしれないことを常に意識していなければならない。必ずそれが終わることを知っている。」
「スリルに飢えている人間にとって最大のセンセーションを意味するものは、死である。彼は災害や死の記事を必要とする。あまりに抽象的だと彼を満足させることができないだろう。」
ウクライナ戦争を食い入るように見つめている私もこのような状態なのかもしれません。
「死ぬべきものがいつも他人……自己の死の確実性、それは彼の実存的空虚さを耐えがたいものにするのである。生命時間の終わりとしての死は、その時間を充実させなかった者にとってだけ打撃であり、直面することができない。」
トルストイ『イワン・イリッチの死』において、これと同様の描写が出てきます。
死とどう向き合うかは作家の執筆動機の筆頭。死ぬ直前の病床は誰しも一度はモチーフにしたい状況設定
「人生は到達したことに満足することが重要なのではない。常に新しい問題をもって迫ってくる人生は、われわれを決して安んじさせない。毎日毎時が新しい行為を必要とし、新しい体験を可能にするのである。」
「愛は愛された人間の死を超えて続く。愛は死よりも強い。身体的存在は死によって無に帰しても、その本質は死によってなくなるものではない。」
「自殺しないのは深い義務の感情をもっているから。たとえば母に対して生命を維持する義務があった。したがって私の命はすべてに関わらず意味をもっていたのであった。」
「人間のその一回性と唯一性。」
嫉妬は無意味。相手が誠実なら不当。不誠実なら根拠はあるが無意味
「相手が不誠実でないなら嫉妬は不当であるし、実際に不誠実であるなら嫉妬は根拠があるが、しかしやはり無意味である。何故ならば真の人間関係はもはや存していないからである。」
「嫉妬するものは彼が恐れているもの、すなわち愛の消滅を生み出すのである。彼が誠実を疑った人間を不実に追いやることによって実際にうしなってしまうこともありうる。」
たとえ走れなくなったとしても、人生には意味がある。
「老人性脱疽により足を切断された法律家が泣く。「あなたは長距離選手になるつもりでしょうか?」その言葉に勇気を取り戻す。」
「人生の意義はできるだけ敏捷に歩くことの中に存するのではなく、人生は足がなくなったからといって価値可能性もなくなるほど貧しいものではない。足を失うことによって意味や内容をすべて失うならばきわめて貧しいといわなければならない。」
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さすが「夜と霧」の作者です。読んでよかった一冊でした。