「冒険ロマンは現代ものではやりづらい」過去の舞台を借りて冒険ロマンを表現する。
このページではアニメ『ワンピース』の元祖といっていいかもしれませんスティーヴンソン『宝島』について書いています。
『宝島』は1883年に出版されました。海賊の物語の成立については、100年前の時代を借りて表現したようです。
騎士物語の『ドン・キホーテ』と比較すると面白いことが見えてくるかもしれません。『宝島』も『ドン・キホーテ』も100年以上前の過去の時代背景をかりて作品世界を表現しています。
「冒険ロマンは現代ものではやりづらい」作者はそう思っていたのではないでしょうか。「現代もの」としては冒険ロマンを表現できなかった。ここに私は何か冒険というものの宿命を見る思いがするのです。
※筆者自身による読み聞かせはこちらでどうぞ。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
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海賊もの『宝島』は『ワンピース』とどこが違うのか?
スティーヴンソン『宝島』は、ごく単純にいうと海賊が宝島を探しに行く話です。これだけならアニメ『ワンピース』と同じですね。
しかし主人公は宿屋の息子、普通の少年です。悪魔の実など食べていません。その宿屋の客に海賊が現れたことからお宝をめぐる冒険に巻き込まれていくのです。
『ワンピース』の見せ所が、お宝をめぐる冒険の途中で出会った人との心の交流、旅立ちの別れにあるとすれば、『宝島』は全く別の作品です。
どちらかというと『ワンピース』は『銀河鉄道999』とかに近い作品なのでしょう。旅をする途中で寄った惑星(島)で出会いと別れがあるという作風です。
スティーブンソン「宝島」は、航海の途中で人と出会ったり別れたりしません。そもそも他の島に立ち寄りません。
「誰が一番ケンカが強いかゴッコ」もやりません。
どちらかというと『ワンピース』は天下一武道会(「誰が一番ケンカが強いかゴッコ」)がある『ドラゴンボール』とかに近い作品なのでしょう。
『宝島』では、宝島へと航海する船の中で内部分裂が起こります。
「まともな社会側」と「海賊側」に分かれて、船の支配権をめぐって争いが起こります。
それが活劇です。しかしせいぜい銃で撃ったり、ナイフで刺したりする程度。
「誰が一番ケンカが強いかゴッコ」とは無縁のありふれた格闘シーンしかありません。
だったら『宝島』の何が面白いのでしょうか?
欲望に忠実な海のコック(ジョン・シルヴァー)が、愛嬌で世の中を渡っていく男の生きざまが面白い。
『宝島』の面白さは、船のコック=ジョン・シルヴァーのキャラクターにあります。
使用人としてヒスパニオラ号に乗り込んだジョン・シルヴァーは実は海賊でした。
こいつのキャラクターが、欲望に忠実で、有利な方につくお調子者の無節操なコウモリ男すぎて面白いのです。
愛嬌だけで世の中をわたっていくタイプのクズ野郎です。
普段は、雇い主を立てる礼儀正しい使用人なのですが、ひとたび「お宝」を目の前にすると乱暴な海賊に豹変します。
しかし「お宝」争奪戦にまけて「まともな社会側」が圧倒的に有利になると、揉み手をして勝者にすり寄っていきます。
その様子が面白いのです。ちっとも男らしくないのですが、どこか憎めないのです。
(強いものにごまをするのはあたりまえじゃないか。そんなことをわからねえのか。べらんめえ)というような人間の卑屈さ滑稽さ丸出しというキャラクターです。
海賊の一群を率いるのですが、その日暮らしで未来の見通しが立たない海賊たちを統率するのにほとほと苦労して、「まともな社会側」となんとか妥協できないか画策します。
社会生活にも未練を残した中途半端なヤンキーみたいな男です。
語り部のジム少年の命を必死に救おうとしますが、実は縛り首から逃れるための人質でした。そのことを少年にさえ見抜かれてしまいます。
ころころと欲望の側に転ぶ無節操ぶりを少年にさえ「また寝返ったんだね」と冷ややかな目でからかわれてしまいます。
笑ってしまうような滑稽なやつ。それがジョン・シルヴァーです。
そういう愚かでみじめで爆笑ものの、どこか憎めない海賊シルヴァーこそが、『宝島』の面白さの源泉です。
改めて読んで見ると、お宝をめぐる冒険物語そのものは意外と単調で、ハラハラドキドキするようなシーンもそれほど多くはありません。
日本の演出過剰なアニメに慣れた読者だと、ドタバタ活劇シーンですら、工夫の足りない単調なシーンに思えてしまうでしょう。
海賊の宝探しの冒険物語を最初にやった小説だから、それで高名なのでしょうか。
最初にやった? 果たして『宝島』がお宝さがしの最初の小説でしょうか? すくなくとも『ワンピース』より古いことは間違いありませんが。。。
私はそうではないと思います。アーサー王の聖杯伝説だってお宝探しの冒険物語です。
決して『宝島』の冒険は、宝探しの海賊物語のはじまりではありませんでした。
やはり愛嬌だけで世をわたる海賊ジョン・シルヴァーこそが、作品に不滅の命をあたえているのでしょう。
冒険ロマンは現代ものではやりづらい。『宝島』も『ドン・キホーテ』も過去の時代背景をかりている
作品の冒頭に「お買いになるのをためらっている読者に」という作者の献辞が載っています。
超訳すると、こんな感じです。
「古いロマンスが古いスタイルで語られるとき、その昔私が心をひかれたように、現代の賢い少年たちも心惹かれるというのなら、たいへんけっこうなこと、さあお聞きなさい。
でも勤勉な少年たちが今やあこがれを失い、冒険の物語にもはや関心がないというなら、これまた仕方のないこと。
わたしも海賊も墓場に急ぐことにいたしましょう。これらの作者と作中人物とが眠っているあの墓場に」
作者スティーブンソンも、今さら海賊物語なんて古いけれどと承知の上で書いているのです。
これはちょっと今さら騎士物語なんて古いけど……と恥じらいつつはじまる『ドン・キホーテ』に似ています。
すこし両者を比較してみましょう。
『宝島』は1883年に発表されています。
しかし作品の背景となる時代は18世紀。1760年代だとみなされているということです。
現代ものとしては書いていないのですね。100年前の過去の舞台を借りて書いています。
その理由はやはりカリブの海賊が17-18世紀に横行していたという背景を借りたかったことにあるのでしょう。
現代もので海賊を登場させるのは、すでに違和感があったのです。
それに対して『ドン・キホーテ』は1605年に出版されています。『宝島』より200年も前の作品です。
中世の騎士に憧れた主人公が「宝のような何か」を求めて冒険の旅に立つことは同じストーリーです。
しかし中世は1500年頃には終わっているのです。
現代もので騎士を登場させるのは、ちょっと違和感があったのです。
そこを『ドン・キホーテ』ではちょっと頭のおかしい人物ということにしてクリアしていますが、両者に共通していえることは、100年以上前の時代背景を借りなければ、冒険ロマンを表現できなかった、ということではないでしょうか。
「現代もの」としては冒険ロマンを表現できなかったところが両者に共通しています。
ここに私は何か冒険というものの宿命を見る思いがするのです。
宝探しよりも面白い。蝙蝠男のジョン・シルヴァー
『宝島』の原題は『海のコック』だったそうです。
サンジのことではありません。海賊ジョン・シルヴァーのことです。
ジョン・シルヴァーは、ヒスパニオラ号に船のコックとして乗り込むからです。
作者の意図としてはじめからジョン・シルヴァーの特異なキャラクターが本作の魅力だとわかっていたのでしょう。
ジョン・シルヴァーは「まともな社会側」を裏切って海賊をすると決めた後も、無教養な水夫だけでは操船できないから、ギリギリまで操艦上手な船長に船をまかせると冷静なことをいいます。
ラム酒ばかり飲んで先を見通せない海賊どもとはどこかひとりだけ違っています。ちゃんとした教育も受けているのです。
それでもお宝を目の前にすると人が変わります。
自分の都合のいい方につくことに節操がない日和見の人物なのです。
『ワンピース』で描かれる海賊の誇りなんてものはありません。
絞首刑から自分が助かるためなら、靴でもなめるでしょう。
欲望に忠実な「人でなし」です。
そして最後は「海賊側」は「まともな社会側」に敗れます。
するとちゃっかりジョン・シルヴァーは本当は自分は「まともな社会側」なんだと、これまでの恩義をちらつかせて、勝者の側の一員として帰国するのです。
チャンスと見るや凶暴な海賊に豹変したくせに、負けるとおだやかで礼儀正しいつつましげな海のコックに戻るのです。
伊達政宗みたいなタイプでしょうか。チャンスとみれば天下を狙うが、負けたら要領よく愛想よく部下として生きていくタイプです。
愛嬌がジョン・シルヴァーを助けていたのでしょう。
あなたの身の回りにもいませんか? 愛嬌で世の中を渡っていく、要領のいい人が?
わずかな寄港のあいだにション・シルヴァーはわずかな金を盗んで消えていきました。
海賊として絞首刑されるのを恐れていたのです。
ション・シルヴァーはどうなったのでしょうか?
これからも放浪し、海賊として生きていったのかもしれません。
でも実際には、妻子のもとに帰ったのかもしれません。
そう思わせるようなところを持った男でした。
いつでも社会生活の側に戻れるタイプの海賊でした。
去り際にチンケな金を盗んでいくところが、いかにも小物なジョン・シルヴァーらしくて、笑ってしまうのです。
小物だなあ、とつくづく笑えます。
スティーブンソン。短い人生を悔いなく生きようとした人
病弱だった作者のスティーブンソンは転地療養という名の旅に生きて、44歳でサモアで死んだそうです。
短い人生を悔いなく生きようとした人だったと思います。
現在はネット社会です。
パソコンひとつ持って世界中を旅しながら仕事している人が少数ながら存在します。
スティーブンソンは「物語」という執筆業をしながら世界中を旅してまわっていました。
才能があったのでしょう。
病弱な人だったけれど、それでもどこか宝島のような楽園を探して旅を続け、旅の途中でなくなったのでしょう。
私たち放浪のバックパッカーの偉大な先輩のひとりです。
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このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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物語のあらすじを述べることについての私の考えはこちらをご覧ください。
私は反あらすじ派です。作品のあらすじ、主題はあんがい単純なものです。要約すればたった数行で作者の言いたかった趣旨は尽きてしまいます。世の中にはたくさんの物語がありますが、主役のキャラクター、ストーリーは違っても、要約した趣旨は同じようなものだったりします。
たいていの物語は、主人公が何かを追いかけるか、何かから逃げる話しですよね? 生まれ、よろこび、苦しみ、死んでいく話のはずです。あらすじは短くすればするほど、どの物語も同じものになってしまいます。だったら何のためにたくさんの物語があるのでしょうか。
あらすじや要約した主題からは何も生まれません。観念的な言葉で語らず、血の通った物語にしたことで、作品は生命を得て、主題以上のものになるのです。
作品のあらすじを知って、それで読んだ気にならないでください。作品の命はそこにはないのです。
人間描写のおもしろさ、つまり小説力があれば、どんなあらすじだって面白く書けるし、それがなければ、どんなあらすじだってつまらない作品にしかなりません。
しかしあらすじ(全体地図)を知った上で、自分がどのあたりにいるのか(現在位置)を確認しつつ読書することを私はオススメしています。
作品のあらすじや主題の紹介は、そのように活用してください。
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