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『嵐が丘』(エミリー・ブロンテ)のあらすじ、評価、感想、書評

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『嵐が丘』(エミリー・ブロンテ)のあらすじ、評価、感想、書評

ここでは『嵐が丘』(エミリー・ブロンテ)のあらすじ、評価、感想、書評をしています。お姉ちゃん(シャーロット・ブロンテ)の『ジェーン・エア』を読了したので、次は妹の本を読んでみようというわけです。

少女マンガの元祖。シャーロット・ブロンテ『ジェーン・エア』の内容、魅力、あらすじ、書評、感想

もし目が言葉の働きをするのなら、どんな愚か者でも、私がのぼせあがっていることくらい見抜けたことだろう。彼女もついに気づいて視線を返してきた。

→小説『嵐が丘』は1847年に出版されました。イギリスの小説です。著者はエミリー・ブロンテ。主人公はヒースクリフという色の黒い孤児です。ジプシー系とされています。ひろい子、もらい子として嵐が丘と呼ばれる屋敷の子となります。ヒースクリフは長男ヒンドリーには敵視されイジメられ、長女キャサリンには愛されるという複雑な少年時代を送りました。

彼女はただただもっとましな男がいるのを知らないばかりにこんながさつな男に身をまかせたのだ。男はかろうじて我慢できるかどうかというほどやりきれない男だった。

→ヒースクリフの育ての家への復讐は自分の結婚や、息子の結婚までも利用したものでした。金と結婚で家を乗っとるのです。

ヒースクリフをいじめてずいぶん調子にのったものでした。まだ自分が間違ったことをしていると気づくだけの分別がなく、奥さまもかばうようなことは一切なさらなかったのです。

ただ死ぬのが怖くてたまらないというのでした。この女もあたしくと同じでまず死なないのではないかと思いました。

笑いものにされちゃ、がまんならねえ。おぼえてろよ!

→嵐が丘の長男ヒンドリーに下男あつかいされてヒースクリフは復讐を誓います。それは嵐が丘を乗っとって家の主人になるというものでした。

自尊心のつよい人間は、自分で悲しみをうむのよ。

どうやってヒンドリーに復讐してやろうかと考えているのさ。最後にそれさえうまくいくならいくらでも待つ。その前にやつが死なないことを祈るばかりだ。

ヒースクリフに対するヒンドリー様の扱いといいましたら聖人でも悪魔と化しかねないと思うほどでした。彼はヒンドリーが救いようのないまでに身を持ち崩していく姿を眺めて喜んでおりました。そして日毎に、ますます陰惨に、凶暴になっていったのでございます。

→ヒンドリーは酒とギャンブルに身を持ち崩し、とうとう嵐が丘はヒースクリフのものとなるのです。

キャサリンはほんとうにプライドばかり高かったので、少しは懲りて謙虚になるまでは、何か悩みを抱えていても同情する気にもなれなかったのでした。

お嬢さんはとてもわがままなんですよ!

→ヒースクリフに愛されるキャサリンは今ふうのヒロインではありません。嵐が丘はいちおう恋愛小説に分類していいのですが、ヒロインは今ふうの可愛くて優しい女性ではありません。わがままな性格です。ヒロインらしくないヒロインです。そこはジェーン・エアと共通しています。

やれやれ、これじゃ救いようがないわね。この人は動きがとれなくなって、たちまち破滅する運命だよ。

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イジメる者は性格が悪く、イジメられたものも性格が悪くなる

この子はあなたが嫌いなんです——あなたさまが好きな人はいません。

→ヒースクリフをイジメるヒンドリーはもともと性格が悪く、イジメられたことでヒースクリフも性格がねじ曲がってしまいました。

あたしには今だけが問題なのよ。

あなたはめちゃくちゃで居心地の悪いお宅を逃げ出して、裕福で上品なお宅へおいでになるのですからね。

→作中に嵐が丘という屋敷(アーンショー家)の他に、スラッシュクロス屋敷(リントン家)が登場します。両家は婚姻によって結ばれるのですが、ヒースクリフによって両家とも不幸の連鎖へと貶められてしまいます。こんなジプシー拾ってこなきゃよかったのに(笑)。

ヒースクリフの方があたし以上にあたしだからなのよ。魂というのは何でできているか知らないけど、彼の魂とあたしの魂は同じものなの。ところがリントンの魂は月の光と稲妻、霜と火ぐらい違うの。

あたしが人生で大切に思っていたのはヒースクリフだったの。たとえほかのものはみんななくなっても彼は消えない。他のすべてが残っていても彼が消えてしまったら、宇宙は巨大なあたしとは無縁の存在になってしまうでしょう。ネリー、あたしはヒースクリフなのよ。彼はいつでも、どんなときにも、あたしの心の中にいるの。彼はあたし自身なのよ。

→ わがままなキャサリンは「あたしはヒースクリフなのよ。彼の魂とあたしの魂は同じものなの」なんて言いながらも、ヒースクリフではなく、リントン家の長男エドガーと結婚するのです。家格を考慮してのことでした。そのことでヒースクリフは家出してしまいます。復讐を誓って。

ヒンドリーとのあいだに決着をつける。

この家の財産目当てで結婚するぐらいのことはやりかねないわ。それでもあたしはあの人の心の底からの友だちだから、知らん顔でいるでしょうね。

キャサリン。お前がおれをどれほどひどい目に合わせたかをおれは忘れていない。おれが別に復讐を考えたりもしないだろうとのんきにかまえているとしたら、その逆だということを思い知らせてやるよ。

エドガーとケンカすればどう? そして彼の妹を騙しちゃいなさいよ。

→わがままなキャサリンはスラッシュクロス家の長女イザベラとヒースクリフの結婚をたくらむのでした。ヒースクリフの幸せをいちおう考えているのだけれど、本当の意味ではそれほど深く考えていない(自分のことしか考えていない)というような愚かな態度をとります。

あなたの血管には氷のような血しか流れていないんだわ。

ヒースクリフと切れるか、それとも私を棄てるか?

あたしをほっといてちょうだい。

外へ出たい。また少女にもどりたい。野蛮人みたいに粗暴になって、何にも束縛されずに自由になって……いじめられても笑ってて、狂ったようになんかならない人間に。

なぜ二言や三言のことで頭に血がのぼって、ひどい喧嘩になったりするのかしら?

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ヒースクリフとキャサリンの愛は、男女の愛とは違う愛

墓場の真ん中に立って、出て来い幽霊なんて、おたがいに叫んだじゃないの。もし今あたしが誘ったら、あなた、行く勇気がある?

→ 嵐が丘は復讐小説ですが、恋愛小説としてもいちおう読むことができます。ただしキャサリンとヒースクリフの愛は男女の愛とは違う愛です。キャサリンはヒースクリフを魂の友(ソウルメイト)として愛しますが、結婚しようとはしません。悪事に協力するような愛であり、悪事を叱るような愛ではありません。

あたしは一人で寝ているのは嫌だわ。あたし、あなたがそばに来てくれるまでは眠れない……ぜったいに。

ヒースクリフさんは狂っているのですか? そうでなければ、悪魔なのですか?

悪魔がおれに彼を殺しておれの人生計画をめちゃめちゃにしろとささやくんだ。

→登場人物たちはキャサリンとヒースクリフに振り回されてずっと不幸の連続です。つねにトラブルに直面していて、幸せのところがないのでした。さて作者は大団円をどう持ってくるのでしょうか?

キャサリンの病気はエドガーのせいだっていうの。そしてエドガーの首根っこをつかまえるまでは、代わりにあたしを苦しめてやるっていうの。

ヒースクリフの一家とはなるべく没交渉にする。

キャサリンにとっちゃ、あんな男の価値は、飼い犬や馬とたいしてかわりゃしないんだ。あの男にはおれとちがって愛されるに値するものはない。ないものを、彼女が愛せるわけがなかろう。

この人の言うことなんか一言だって信じちゃダメよ。嘘つきの悪魔なんだから。人間じゃないの。彼はエドガーを絶望に追い込もうとしているんだから。

あなたを抱きしめていたいわ。あたしたちがどちらも死んでしまうまで。あなたがどんなに苦しんだって知らない。あたなの苦しみなんか、どうだっていいわ。あなたはどうして苦しまずにいられるの? あたしは苦しんでいるのに。あたしのことなんか忘れちゃう? あたしが土の下に入ったらうれしい?

あいつは天国じゃない。キャサリン。おれが生きている限り、おまえが眠らないように。おれから憑いて離れるな。いつまでもおれから離れるな。姿はどうでもいい。おれを狂わせてくれ。

→ 姿はどうでもいい、という言葉は後に幽霊が登場することの伏線となっています。後日、キャサリンの幽霊が現れて、幽霊でもいいからおれから離れるなとヒースクリフは叫びます。『嵐が丘』の恋愛パートはそのような愛なのです。ふつうの恋愛小説とは全く違う愛を描いているのです。

激痛には激痛で報いて、おなじレベルにひきずりおろしてやる。あの人が最初に傷つけたんだから、あの人に最初に謝らせなくちゃ。

嵐が丘の客だった男が、いまではご主人になりました。

おれ以外の人間にはやさしくなぞさせん。これの愛情を独り占めしてやる。おれの息子がやつらの子供たちを雇い、親父のものだった土地を耕して給金をもらう勝利の瞬間を見たいのだ。

→ キャサリンを病死で失ったヒースクリフは嵐が丘に戻ってきて、復讐心を爆発させます。憎しみの連鎖で嵐が丘館はめちゃくちゃとなり殺伐としています。

あたしのものだったら、うんとかわいがってあげるんだけどなあ。

流す涙はすべてご自分のため。ほんとうに冷たい、身勝手な方だこと!

おれは棺の蓋を開けてみたんだ。ひさしぶりにキャサリンの顔を見ると、そこを動きたくなくなった。

→ ヒースクリフはキャサリンの遺体と対面します。ヒースクリフの愛は幽霊とか遺体でもいいという愛なのです。

おれはもう一度、この腕に彼女を抱いてやるぞ。たとえ彼女が動かなくても、眠っているだけなのだと考えよう。

おれたち二人の上に土をかけてくれ。耳のすぐそばでため息が聞こえた。血のかよっている生身の人間があたりにいないことはわかっていた。

→嵐が丘といえば、この棺あばき、幽霊シーンが有名です。「だからすごい愛なのだ」とあなたなら思えるでしょうか? 私はちょっと……です。そんな愛、と思います。

あたしは何とかして、好きなんだって、仲良しになりたがっているんだってことをわかってもらいたいのに。

→キャサリンの娘キャシーは、憎しみの連鎖でめちゃくちゃだった嵐が丘に愛情を咲かせようとします。キャシーの愛情が勝つか、ヒースクリフの復讐心が勝つか、が作者の最終的な気持ちを表現するでしょう。

ヘアトンはもうあんたの言いなりになんかならないわよ! そしてあたしと同じであんたを嫌うようになるわ!

ヒースクリフと女の人がいるんだよ、あそこの丘のふもとに。

この静かな大地に眠る人々の中に静かに眠れないものがいようなどと誰が想像するだろうかと考えていた。

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作品のメインテーマ。キャシーの愛情が勝つか、ヒースクリフの復讐心が勝つか?

名高い作品ですが、それほど名作か? というのが率直な感想でした。ぜんぜんヒロインぽくない自分勝手な女の子キャサリンと、復讐鬼ヒースクリフの心の結びつきが作品の核心部分ですが、二人の愛はありきたりの男女の愛とはまったく違うものです。恋人というよりは無二の親友。心の友というものをエミリー・ブロンテは描こうとしました。心の友だったら誰と結婚しても関係ないとキャサリンは思っていますが、ヒースクリフは決してそうではありませんでした。しかし心の友だったら相手が遺体でも幽霊でも関係ないというところは二人とも同じ気持ちでした。

ヒースクリフの心には最後に復讐心が残るか、愛が残るか? ヒースクリフの心はキャサリンのところにかえっていきました。つまり愛が残りました。

ヒースクリフの憎悪が勝つか、キャシーの愛情が勝つか? 嵐が丘の正当な血をうけたヘアトンが選んだのは、キャシーの愛情でした。つまり愛情が勝ったのです。

人は人に傷つけられるものです。心というのはときに思いもかけない方向へと向かってしまうものです。自分でも制御できないことがあります。

『嵐が丘』はそういう物語だったのです。

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(本文より)知りたかった文学の正体がわかった!

かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。

しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。

世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。

すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。

『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。

その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。

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主人公ツバサは小劇団の役者です。

「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」

恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。

「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな

アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。

「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」

ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。

「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」

惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。

「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ

劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。

「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も

ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。

「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」

ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。

「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」

「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」

尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自信が狂っていなければ、の話しですが……。

妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ

そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。

「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」

そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。

「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」

そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。

「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」

「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って

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