ダウンタウン松本人志の引退(芸能活動休止)。女遊びはそんなに罪なのか
日本で一番売れているお笑いタレントの松本人志さんが芸能活動を自粛しました。セックスパーティーのようなものがあったとされ、それをすっぱ抜かれたのが原因です。
かつて私は「総理大臣なんて魅力(のある仕事じゃ)ない。ちょっと女をつくっただけで叩かれて失脚しちゃうような地位に、男がそんなに魅力を感じるわけないじゃないか」というコラムを書いたことがあります。
菅総理大臣SNS辞任。死んだ魚の目をした大人(すがすがぼうちょうすが)
しかしもはや芸能人でさえ派手な女遊びは許されない時代なんですね。しかし女遊びってそんなに罪なことでしょうか。
ここでは松本人志芸能活動自粛を通じて感じたこと。遺伝子DNAの生存戦略について書いています。
男性の遺伝子DNAの生存戦略
遺伝子レベルでみると性欲というのは遺伝子DNAが自己の複製を残そうとする生存戦略に他なりません。そして男性のDNAというのは基本的にはバラマキ戦略をとるようにできています。なぜならその方が生存戦略上有利だからです。ひとりの女性とたくさん子どもをつくっても免疫上は同じなので、ひとつの大きな疫病によって子供は全員死んでしまうかもしれません。しかしたくさんの違う女性と子供をつくればそれぞれ違う免疫を獲得できるため、大きな災厄に遭っても利己的遺伝子は生き残れるかもしれません。
女性の遺伝子DNAの生存戦略
女性の遺伝子DNAの生存戦略も同じです。免疫上、生存に有利なように動くことは男性と変わりません。似た免疫を持つ男よりも、違う免疫を持つ男に女性は惹かれるそうです。それはつまり子どもの免疫が強くなることを意味します。自分と同じ免疫タイプの子だったら死んでしまうような疫病が来ても、自分と違う免疫タイプの子だったら生き残れるかもしれません。
妊娠中は他の男の子を生めないために、相手を厳選する必要が生じる
本当はいろんな免疫タイプの子どもを残せればベストなのですが、女性の場合、長い妊娠という問題によって男性とは事情が変わります。妊娠中は他の男の子を生めないためにどうしても相手を厳選する必要が生じるのです。
また妊娠中、子育て中は動きが制限されるために、そのあいだ、食べ物を持ってきてくれる人を必要とします。これが一夫一婦制のはじまりとされています。女性が乱交していると、誰の子かわからないため男性は食べ物を持ってきてくれません。確実に自分の遺伝子を残すためには、確実に食べ物を持ってきてくれる男性を確保する必要があります。そのための戦略が「ひとりの人としか交わらない」というもの。それなら子供は確実に「ひとり」の子どもに違いありません。男性側も自分の子どもに間違いないと確信するから、大切にしてくれるし、せっせと世話をしてくれるというわけです。
多くの女性はイケメン好きなのに、なんで世の中はイケメンばかりじゃないのでしょうか? 容姿は似ますからイケメンの子はイケメンである可能性が高いはずなのに。
その答えはもうあなたにもわかったでしょう。イケメンはあなたとあなたの子どもの面倒を見てくれないからです。ブサメンであっても子供のことを大切にしてくれる男の方がいいという女性のDNA戦略が、この世界をつくりあげているのですよ。
女性のDNA戦略はそのような「ひとりの人に大切にしてもらう」戦略が主流なのですが、なかには「世話してもらえなくてもいいから優秀な遺伝子が欲しい」戦略をとる女性もいます。優秀な男性はたいてい売れ済み(結婚してる)ですから、そういう女性は不倫をします。そしてこの「不倫」というのは主流戦略の女性から徹底的に叩かれます。その行為は自分の戦略秩序を乱すものだからです。
※※「不倫」と「結婚」を描いたこのコラムの筆者の小説です※※
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主人公ツバサは小劇団の役者です。
「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」
恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。
「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな」
アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。
「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」
ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。
「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」
惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。
「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ」
劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。
「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も」
ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。
「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」
ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。
「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」
「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」
尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自信が狂っていなければ、の話しですが……。
「妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ」
そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。
「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」
そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。
「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」
そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。
「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
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男女の遺伝子DNA戦略の対立とせめぎ合い。子供を産む側が主導権を握る
男性の場合、妊娠期間がないために、太古の遺伝子バラマキ戦略がそのまま残っているところがあります。生物学的にはその方がいいわけですから、男性遺伝子はそのようにつくられています。
しかしこの男性遺伝子のスタンスは、女性遺伝子の「ひとりの人としか交わらず、子供の世話をみてもらう」戦略とは合致しません。
ここでどちらが主導権を握るでしょうか? もちろん子供を産む側です。つまり女性です。
女性サイドに総スカンされると、男性は自分の遺伝子を残すことができませんので、妥協するしかありません。つまり一夫一婦制を容認するということです。こうして世界中の大半の地域では一夫一婦制が標準となりました。そうでない地域もありますが、そういう一夫多妻の地域は男性の権力が女性よりも圧倒的に上という文化でしょう。力づくで男性遺伝子の要請を優先させているのです。こういうのを男根主義といいますね。
ボス猿の転落。転落させたのは女性遺伝子DNAの生存戦略
松本人志さんのセックスパーティーに嫌悪の情を述べるのはたいてい女性です。そして良識ある企業。良識ある企業はたいてい男女同権です。男女同権の世界では女性の意見に配慮しないわけにはいかないのです。
松本さんの芸能活動自粛報道を見ていて、一夫一婦制というのは女性がつくったのだなあ、とつくづく思います。はっきり言って松本人志は極悪人ではなく、男の欲望に素直だっただけでしょう。そしてそれを可能にする権力があった。その権力とは業界の先輩後輩文化と、中田敦彦さんが指摘した「審査員という権力」に他なりません。
しかし男の遺伝子(松本DNA)の勝手を、女性遺伝子の生存戦略が認められなかった。批判が燎原の火のごとくひろがって手が付けられなくなった、というのが今回の騒動だと思います。
ボス猿の転落です。転落させたのは女性遺伝子DNAの生存戦略なのだと私は思います。
すべてを決めるのは「子どもを産む側」。すべての人間は時代の子
こうして男は飼い慣らされていくのですよ。飼い慣らされた人の子は飼い慣らされた人になる可能性が高いのです。
モテ男の東出昌大さんも女遊びを咎められて袋叩きにあいました。今でも男性遺伝子DNAの要求のままに生きているバラマキ系の男がすくなからず残っていますが、やがては絶滅危惧種になるでしょう。
カサノヴァのような生き方をするのは、今後はだんだん難しくなっていくでしょう。女性の権力が大きくなればなるほど。なぜならすべてを決めるのは「子どもを産む側」だからです。
すべての人間は時代の子なのです。