このページでは、ハ・ワン著『あやうく一生懸命生きるところだった』について書評しています。
この本は定年退職して暇をもてあましているような老人は読むべき本ではありません。なぜってもう遅いから。
時間は飛び去り、もう戻ってくることはありません。
「時間貧乏」という言葉があります。『あやうく一生懸命生きるところだった』は「お金持ちの時間貧乏よりも、お金持ちじゃなくても時間リッチの方がいい人生だ」と考える人たちを応援してくれる本です。
著者ハ・ワンさんは韓国人の男性。しかし日本人が書いたかと思うほどわたしたちに違和感のない内容です。民族や国籍に関係なく、人間であれば誰もみな同じような悩みを抱くんだなあ、ということがよくわかる内容となっています。国籍を超えて共感できるってことは「人間全般そんなものだ」といえるのではないでしょうか。
著者の職業はイラストレーター。そう書くと職業作家のように聞こえてしまいますが、本を読めばプロのクリエーターというよりは、セミリタイアしたニートみたいな人だということがわかります。本にイラストが載っていますが、下手くそ……イラストでは食えなさそうですが、エッセイストとしてはセンスがあると思いました。
『あやうく一生懸命生きるところだった』は、私の人生を変えた本『旅に出ろ。ヴァガボンディングガイド』に非常に似たところのある本です。同じ系譜の本だといえるでしょう。
この本の著者、おれじゃないか? と何度も思ってしまう本でした。ウソだと思うなら、このブログの過去記事を読んでみてくださいね。
- 今日から、必死に生きないと決めた
- 努力はぼくらを裏切る。思い通りにならないのが世のため人のため
- やる気はすり減る。やる気は愛だ
- この社会には「人生マニュアル」がある。
- もう「金持ち」になるのはあきらめた
- ほかに選択肢はないという「執着」は、閉じた心の盲信
- 人生には自分の力ではどうにもできない部分がかなり多い
- 自分探しは「なぞなぞ」のようなもの
- 年を取ってから遊ぶだなんて!
- 自由を売ったお金で、自由を買っている矛盾に満ちた人生
- 「何もしない」とは、究極の贅沢
- 「やらかさなかった」後悔は後を引く。もっと下手こいていこう。
- ブルーオーシャン戦略とは何か?
- ないなら、ないなりに暮らせばいい
- マイペース。他人のスピードにあわせようとするから、つらくなる。
- 「幸せ探し」でなく「不幸探し」をしてしまっている人たち
- 「挫折マーケティング」「比較マーケティング」「嫉妬マーケティング」戦略
- 若い頃には戻れなくていい。大切なのは「結果」ではなく「物語」
- お金持ちの時間貧乏よりも、時間リッチの方がいい
今日から、必死に生きないと決めた
とくにビジョンもなく、40歳で会社に辞表を出してしまった韓国人著者ハ・ワン。会社勤めとイラストレーターの二足のわらじを必死にやってきたのに、幸せになるどころか、どんどん不幸になっている気がしたからでした。
そう思う人はたくさんいると思いますが、実際に仕事を辞める人は少数派でしょう。失敗したときのことを考えると勇気が出ませんよね。「答えのない無駄な人生を楽しんで生きることができるか?」という命題にたいして、自分の人生で実験する勇気はありませんが、他人が代わりにやってくれるならその体験談を読んでみたいと思いませんか。
『あやうく一生懸命生きるところだった』は、そういう本です。出世することもできず他人をうらやみ何もない自分は負け組だと思う……。しかし自分が何のレースに負けたのか、それさえも筆者はわかりません。
このレースはいったい何のレースだったのでしょうか。お金を稼ぐレースだったのか、マイホームを持つというレースだったのか、出世レースだったのか。
もし出世レースだとしたら一生安泰な公務員になるのと自分のお店をもつのでは、どっちが勝者でどっちが敗者なのでしょうか。何のためのレースなのかゴールがわからないくらいなら、棄権しても大きなケガはないかもしれません。
努力はぼくらを裏切る。思い通りにならないのが世のため人のため
努力に対する見返りはイコールであることはまずないと自分の経験から筆者ハ・ワンはいいます。見返りはいつだってすこし少なかったり、多かったりするものです。周囲の人にとっても自分自身にとっても。
努力に対する見返りはいつだって気まぐれだという現実は、認めるしかありません。ときとして努力はぼくらを裏切ります。
陸上の為末大選手が「ぼくはぜったいにウサイン・ボルトよりも必死に練習した」とどこかの本に書いていました。しかし金メダルを獲ったのはボルト選手です。努力はときとして裏切るのです。
やる気はすり減る。やる気は愛だ
やる気もときとして裏切られます。やる気はすり減ります。やる気は愛です。
愛情は誰かに強要されるものではありません。やる気も同じです。企業に強要されるものではありません。
「やる気のないやつは去れ!」社長はいいます。「やる気」の証明は残業です。定時退社はやる気ゼロと見なされます。しかし残業代は出せません。自分をしっかりともっていないと、時にわたしたちは会社にやる気を搾取されてしまいます。
ゴールのわからないレースに巻き込まれると、私たちは自分の時間を搾取され、ついには夢を失ってしまうのです。
この社会には「人生マニュアル」がある。
誰が書いたのかわかりませんが、この社会には「人生マニュアル」があります。誰もがその「人生マニュアル」に合わせて生きていこうとします。なぜでしょうか?
そうしないと不安だからです。自分だけが取り残されたような気になるからです。
自分の人生なのに、自分の気持ちなのに、どうして他人の評価によって大丈夫だったり、大丈夫じゃなかったりするのでしょう?
みんなが正しいと信じる価値観に、同意しない者への同調圧力は、社会の中でものすごいものがあります。
それは韓国でも、日本でも、どこの国でも同じです。
映画『えんとつ町のプペル』原作者の西野亮廣さんが、こんなことをいっていました。
「夢を追いかけている人が嫌われるのは、子供の頃はみんな夢があったのに大人になる過程で折り合いをつけて捨ててしまう。そういう人たちが今でも夢を追いかけている人を見ると、その夢が輝いてしまうとあの時夢を捨てた自分が間違いだったということになってしまうから捨てろ捨てろ臭い臭いと攻撃するのだと思う」
だから主人公を「ゴミ人間」に設定したそうです。臭い臭いと攻撃される夢追い人はゴミ人間だから。ゴミ人間はみんなが捨てたものを持っている夢を追いかけている人の姿だったんですね。
夢という多様性を捨てて、マニュアルどおりの同一価値観の人生を歩むと、多様性の世界が我慢ならなくなってしまいます。夢を捨てた自分の決断が間違っていたことにならないために全力で夢を潰しにかかってくるのです。
マニュアルにしたわがない夢追い人は迫害されるのです。
しかしハ・ワンさんはいいます。
これまで欲しがってきたものは全部、他人が提示したものだった。本当に恥ずかしいのはマニュアルしかなく、自分の指針がないことじゃないか?
もう「金持ち」になるのはあきらめた
『あやうく一生懸命生きるところだった』の著者ハ・ワンさんは、マニュアル通りのお金が目標の人生を生きてきたが、馴染み切ることができませんでした。
幸福な人=お金持ち、ではなかったはずなのに、テレビCMに乗って、お金もち=幸福、というイメージが韓国にも広がったそうです。
大量生産・大量消費こそまさに資本主義のコマーシャリズムなのですが、大多数の人たちはそれが見抜けません。
著者は自分をよく観察し、「何かをしたい欲望がある」のではなく「何もしたくないという欲望」があることに気づきます。
そして会社をやめました。給料がなくなり、収入は激減しました。今でもお金が恋しくなることがあるけれど、やみくもに「金持ち」を目指すのは正しくないと考えます。
もうお金持ちになるのはあきらめました。「何もしたくないという欲望」をかなえるのに、さほどお金は必要ありません。
若い頃は年の半分は海外で豪遊する生活を夢見ていたのに、はからずもミニマリストになっている自分に筆者は苦笑します。
車なし、家なし、嫁なし……。
この著者に共感する人は、国籍問わずたくさんいると思います。
ほかに選択肢はないという「執着」は、閉じた心の盲信
そもそも何がゴールかわからない人生を生きているというのに、会社に執着するとかお金に執着するとか、その心持は正しいスタンスでしょうか?
たとえば司法試験に合格する以外生きる道はないとか、この会社以外は就職しても意味がないとか。ほかの選択肢はないと盲信してしまうのは、閉じた心で周りが見えなくなっているからではありませんか。
たった一つ、この道だけが唯一の道だと信じこむことを「執着」といいます。
執着すると、世界が閉ざされて、周りが見えなくなってしまいます。他の選択肢がいろいろあることが、見えなくなってしまうのです。
たとえば、恋焦がれた人に、何度か告白してダメならば、勇気をもっていさぎよく諦めるのが正しいでしょう。
あなたは「ぼくには彼女しかいない。彼女はぼくにとって世界一の女性だ」と断言します。でも私は「そうじゃない。そう思い込んでいるだけだ」と思います。
もっといい女、あなたにふさわしい女はいくらでもいます。あなたにそれが見えないのは執着しているからです。恋人じゃなくても、進路でも、就職先でも、すべて同じことです。道はひとつではありません。ひとつの道にこだわりすぎるのは、他の道をあきらめていることと同じです。
投資でいう「損切り」ができないと大損してしまうことがあります。投資ならお金を失うだけで済みますが、「損切り」できないと人生を失います。
いさぎよく吹っ切る勇気、失敗しても新たなことにチャレンジする勇気が必要なんですね。
× × × × × ×
主人公ツバサは小劇団の役者です。
「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」
恋人のアスカと結婚式を挙げたのは、結婚式場のモデルのアルバイトとしてでした。しかし母の祐希とは違った結婚生活が自分には送れるのではないかという希望がツバサの胸に躍ります。
「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな」
アスカに恋をしているのは確かでしたが、すべてを受け入れることができません。かつてアスカは不倫の恋をしていて、その体験が今の自分をつくったと感じています。それに対してツバサの母は不倫の恋の果てに、みずから命を絶ってしまったのです。
「そのときは望んでいないことが起きて思うようにいかずとても悲しんでいても、大きな流れの中では、それはそうなるべきことがらであって、結果的にはよい方向への布石だったりすることがある。そのとき自分が必死にその結果に反するものを望んでも、事態に否決されて、どんどん大きな力に自分が流されているなあと感じるときがあるんだ」
ツバサは幼いころから愛読していたミナトセイイチロウの作品の影響で、独特のロマンの世界をもっていました。そのロマンのゆえに劇団の主宰者キリヤに認められ、芝居の脚本をまかされることになります。自分に人を感動させることができる何かがあるのか、ツバサは思い悩みます。同時に友人のミカコと一緒に、インターネット・サイバーショップを立ち上げます。ブツを売るのではなくロマンを売るというコンセプトです。
「楽しい、うれしい、といった人間の明るい感情を掘り起こして、その「先」に到達させてあげるんだ。その到達を手伝う仕事なんだよ。やりがいのあることじゃないか」
惚れているけれど、受け入れられないアスカ。素直になれるけれど、惚れていないミカコ。三角関係にツバサはどう決着をつけるのでしょうか。アスカは劇団をやめて、精神科医になろうと勉強をしていました。心療内科の手法をツバサとの関係にも持ち込んで、すべてのトラウマを話して、ちゃんと向き合ってくれと希望してきます。自分の不倫は人生を決めた圧倒的な出来事だと認識しているのに、ツバサの母の不倫、自殺については、分類・整理して心療内科の一症例として片付けようとするアスカの態度にツバサは苛立ちます。つねに自分を無力と感じさせられるつきあいでした。人と人との相性について、ツバサは考えつづけます。そんな中、恋人のアスカはツバサのもとを去っていきました。
「離れたくない。離れたくない。何もかもが消えて、叫びだけが残った。離れたくない。その叫びだけが残った。全身が叫びそのものになる。おれは叫びだ」
劇団の主宰者であるキリヤに呼び出されて、離婚話を聞かされます。不倫の子として父を知らずに育ったツバサは、キリヤの妻マリアの不倫の話しに、自分の生い立ちを重ねます。
「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も」
ツバサの母は心を病んで自殺してしまっていました。
「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」
ツバサはミカコから思いを寄せられます。しかし「結婚が誰を幸せにしただろうか?」とツバサは感じています。
「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」
「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」
尊敬する作家、ミナトセイイチロウの影響を受けてツバサは劇団で上演する脚本を書きあげましたが、芝居は失敗してしまいました。引退するキリヤから一人の友人を紹介されます。なんとその友人はミナトでした。そこにアスカが妊娠したという情報が伝わってきました。それは誰の子なのでしょうか? 真実は藪の中。証言が食い違います。誰かが嘘をついているはずです。認識しているツバサ自信が狂っていなければ、の話しですが……。
「妻のことが信頼できない。そうなったら『事実』は関係ないんだ」
そう言ったキリヤの言葉を思い出し、ツバサは真実は何かではなく、自分が何を信じるのか、を選びます。アスカのお腹の中の子は、昔の自分だと感じていました。死に際のミナトからツバサは病院に呼び出されます。そして途中までしか書いていない最後の原稿を託されます。ミナトの最後の小説を舞台上にアレンジしたものをツバサは上演します。客席にはミナトが、アスカが、ミカコが見てくれていました。生きることへの恋を書き上げた舞台は成功し、ツバサはミナトセイイチロウの後を継ぐことを決意します。ミナトから最後の作品の続きを書くように頼まれて、ツバサは地獄のような断崖絶壁の山に向かいます。
「舞台は変えよう。ミナトの小説からは魂だけを引き継ぎ、おれの故郷を舞台に独自の世界を描こう。自分の原風景を描いてみよう。目をそむけ続けてきた始まりの物語のことを。その原風景からしか、おれの本当の心の叫びは表現できない」
そこでミナトの作品がツバサの母と自分の故郷のことを書いていると悟り、自分のすべてを込めて作品を引きついて書き上げようとするのでした。
「おまえにその跡を引き継ぐ資格があるのか? 「ある」自分の中にその力があることをはっきりと感じていた。それはおれがあの人の息子だからだ。おれにはおれだけの何かを込めることができる。父の遺産のその上に」
そこにミカコから真相を告げる手紙が届いたのでした。
「それは言葉として聞いただけではその本当の意味を知ることができないこと。体験し、自分をひとつひとつ積み上げ、愛においても人生においても成功した人でないとわからない法則」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
× × × × × ×
人生には自分の力ではどうにもできない部分がかなり多い
「ときとして努力はぼくらを裏切ります」に加えて「人生には自分の力ではどうにもできない部分がかなり多い」ということがあります。すべてが自分の選択にゆだねられていると考えるのは間違いです。
「『すべては自分次第』と教えた教育」の影響で、脳のOSがそのように初期設定されてしまいました。
「やる気」を出させるために「すべてはおまえ次第だ」としてきたスポ根精神は、生徒の「ヤル気」を掻き立てるだけなら、いいアイディアでした。
しかし現実はそうではありません。
昔は戦争に巻き込まれて夢どころか生命まで奪われてしまった人たちがたくさんいました。「すべてがおまえ次第」ではありませんでした。どうにもできないことが世の中にはたくさんあります。
私(アリクラハルト)は世界中を旅してきましたが、いろんな場所を旅した時のことを動画に撮っておけばよかったなあと思うことがあります。現在、YouTubeに世界中を旅する動画を上げて爆発的な視聴回数を稼いでいる人たちがいますが、私の旅も動画が残っていたら「すばらしい世界」をみんなと共有できたのに……。そう思うのです。しかし当時YouTubeというプラットフォームは存在していませんでした。だから動画を撮ってはいないのです。残念ですが、私よりも前の世代にも「そのように思っている人」がたくさんいるでしょう。手持ちのデバイスで動画が撮れる以前から人類は存在し、旅をしてきました。「すべてがおまえ次第」では必ずしもないのです。むしろ成功とは「たまたま」「偶然」「ラッキーだった」という要素の方が強いのではないでしょうか。成功したIT企業家などは、素直にそのように考えている人が多いようです。
その上で、『あやうく一生懸命生きるところだった』では、人生に正しい選択なんてない、と力強く断言しています。そりゃそうだ。だってゴールが明確じゃないんだから。
何かトライして、結果は誰にもわかりません。成功することも、失敗することもあるでしょう。人生のすべてをコントロールしようと考えてはいけません。この事態は、あなたのせいではないのです。
イラストレーターらしく、筆者は絵をうまく描くコツは手の力を抜くことだといいます。力んでいると、柔軟でないと、いい絵は描けないそうです。
私はマラソンをやっているので、いっていることの意味がよくわかりました。
リラックスランニング。脱力とピーキングが謎のベストタイムの理由
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※雑誌『ランナーズ』の元ライターである本ブログの筆者の書籍『市民ランナーという走り方』(サブスリー・グランドスラム養成講座)。Amazon電子書籍版、ペーパーバック版(紙書籍)発売中。
「コーチのひとことで私のランニングは劇的に進化しました」エリートランナーがこう言っているのを聞くことがあります。市民ランナーはこのような奇跡を体験することはできないのでしょうか?
いいえ。できます。そのために書かれた本が本書『市民ランナーという走り方』。ランニングフォームをつくるための脳内イメージワードによって速く走れるようになるという新メソッドを本書では提唱しています。「言葉の力によって速くなる」という本書の新理論によって、あなたのランニングを進化させ、現状を打破し、自己ベスト更新、そして市民ランナーの三冠・グランドスラム(マラソン・サブスリー。100km・サブテン。富士登山競争のサミッター)を達成するのをサポートします。
●言葉の力で速くなる「動的バランス走法」「ヘルメスの靴」「アトムのジェット走法」「かかと落としを効果的に決める走法」
●絶対にやってはいけない「スクワット走法」とはどんなフォーム?
●ピッチ走法よりもストライド走法! ハサミは両方に開かれる走法。
●スピードで遊ぶ。スピードを楽しむ。オオカミランニングのすすめ。
●腹圧をかける走法。呼吸の限界がスピードの限界。背の低い、太った人のように走る。
●マラソンの極意「複数のフォームを使い回せ」とは?
●究極の走り方「あなたの走り方は、あなたの肉体に聞け」
本書を読めば、言葉のもつイメージ喚起力で、フォームが効率化・最適化されて、同じトレーニング量でも速く走ることができるようになります。
あなたはどうして走るのですか? あなたよりも速く走る人はいくらでもいるというのに。市民ランナーがなぜ走るのか、本書では一つの答えを提示しています。
× × × × × ×
どんなレースに出ても自分よりも速くて強いランナーがいます。それが市民ランナーの現実です。勝てないのになお走るのはなぜでしょうか? どうせいつか死んでしまうからといって、今すぐに生きることを諦めるわけにはいきません。未完成で勝負して、未完成で引退して、未完成のまま死んでいくのが人生ではありませんか? あなたはどうして走るのですか?
星月夜を舞台に、宇宙を翔けるように、街灯に輝く夜の街を駆け抜けましょう。あなたが走れば、夜の街はイルミネーションを灯したように輝くのです。そして生きるよろこびに満ち溢れたあなたの走りを見て、自分もそんな風に生きたいと、あなたから勇気をもらって、どこかの誰かがあなたの足跡を追いかけて走り出すのです。歓喜を魔法のようにまき散らしながら、この世界を走りましょう。それが市民ランナーという走り方です。
× × × × × ×
自分の人生を最高のものにしようなんて欲は、手放してしまいましょう。
そしてリラックスして人生を生きましょう。
自分探しは「なぞなぞ」のようなもの
自分探しは「なぞなぞ」のようなものかもしれません。
本来、楽しむことが目的の「なぞなぞ」ですが、答えを探すことばかりに死にものぐるいになって、問題を解く楽しさを忘れてはいませんか?
年を取ってから遊ぶだなんて!
筆者はキリギリスになりたかったそうです。ただビビッてアリでいただけ。
この気持ちはなんとなくわかりますよね。
日本のブレイク前の芸人を見ていると、感じます。ネタで食えないからアルバイトで苦労しています。でも芸人としてブレイクしたいと頑張っているのです。キリギリスとして生きたいから、その夢を追いかけているのです。しかし不安だらけです。いい歳になっても、売れなければ、ずっとアルバイト暮らしです。どっちが本職だかわからなくなってしまいます。
サラリーマンを選んでいれば裕福には暮らせたはずです。そのかわりアリのような生活です。日々の忙しさにかまけて夢のことなんてとっくに忘れてしまいました。
今のために遊びたい。今のために生きたい。ハ・ワンさんはそういっているのです。
「何のためにお金を稼いでいるの?」という質問に「老後の資金」と答える人は注意が必要です。老後の自由のために、今現在の自由を売り払っている人は、きっと楽しい老後なんて送れないと思います。
なぜだかわかりますか?
自由を売ったお金で、自由を買っている矛盾に満ちた人生
自由な時間を過ごすにはコストがかかります。電気代ガス水道代など生きていくにはお金がかかります。
サラリーマンの給料は自由と引き換えに得たものです。会社員は自分の時間と引き換えにお金をもらっています。
筆者ハ・ワンは思います。若い頃の自由を売って貯めたお金で、中年以降の自由を買ったようなものだ、と。
サラリーマンが自由を売って稼いだお金を必死に蓄える理由は、将来、自由に暮らすためです。自由を売って稼いだお金で、結局また自由を買うのです。
なんて皮肉なことでしょうか。
大学で学ぶために授業料を払う必要からバイトに明け暮れて忙しくて大学に行かない日々……これと似たような矛盾です。
大学に行かなければバイトする必要もなく自分の時間が残るのに、大学に籍を残すためにバイトに明け暮れせっせとお金を大学に収めて貧乏なままで、何らの勉強することなく若い時間だけが過ぎ去っていく……。
勉強したいわけではなくてただ卒業証書が欲しいだけだからこんなことになるのでしょう。
カネで買います卒業証書。卒業証書、売ってください今すぐに。
自由をとるか、お金をとるか。
お金との恋愛では自由を相手に差し出しました。自由との恋愛ではお金を相手に差し出しています。
ぜったいにどちらかを選択しなければならないのでしょうか。
両者に何とか折り合いをつける手もあるにはあります。
季節労働者・フリーターになるとか、有給休暇を目いっぱい使うとか。
しかし年齢が上がると社会の同調圧力もましてきます。
どちらか一方を選ばなければならないとしたら、あなたならどちらを選ぶでしょうか。
お金をとるか、時間をとるか。
この問題は哲学の問題ではなく、個々の「残された時間(寿命)」と「貯蓄残高」の比較で決定されるものだと思います。
その上で筆者ハ・ワンさんは『あやうく一生懸命生きるところだった』と退職して、時間を選んだのでした。
恋愛では現在の相手と向き合い、相手への気配りを忘れないことが大切です。お金を振って自由という恋人を選んだのだから、自由をよりいっそう愛さなければならないと筆者は感じるのです。
「何もしない」とは、究極の贅沢
自由を愛するといっても、何もしない時間を愛することができますか?
この稿の筆者(アリクラハルト)は、何もしない時間を愛するのはなかなか難しいものがあります。自分の賭けたものに自分の情熱を燃やす自由は心から愛せますが、何もしない自由は退屈でしかありません。
しかし『あやうく一生懸命生きるところだった』筆者ハ・ワンさんは、それができるといいます。むしろ「何もしない」とは究極の贅沢だと感じているようです。『したくないことはしない』に考え方は似ていますね。
ハ・ワンは、自分の時間を欲しがっていた理由は、何もしたくなかったからではないか、と自分を分析するのです。時間さえ取り戻せば、あとは自分の考え方次第です。時間は何でもできる自由にも化けますし、何もしない自由にも化けることができるからです。
人を苦しめるのは、いつでも人です。人間関係に疲れたら、ひとりの時間は治癒の時間のようなものです。
焦る必要はありません。どのみち決まった目的地なんてないのですから。
「やらかさなかった」後悔は後を引く。もっと下手こいていこう。
筆者ハ・ワンは、夢や望みを「恋愛」にたとえて表現する達人です。
幼い頃あれこれ思い描いた夢は、何も行動しなかったから何の痛みも味わうことなく過ぎ去ってしまいました。なのに、なぜだか胸の奥が重苦しく感じます。
永遠にこの世に生き続ける人がいないように、永遠に会社に通い続ける人なんていません。いつかはみんな退職します。そう思っているのに、人と違う生き方を選んだ自分に自信を持ち切ることができません。
仕事にあまりにも多くのことを望みすぎていないか? 筆者は自分に問いかけます。
勉強という一本道だけを提示する大人たち。勉強というのはいい会社に就職する道にしか繋がっていません。夢ではなく成功を教える教育です。
正解社会。その正解を歩まない限り後ろ指をさされてしまうのです。夢を見て別の道を歩もうとすると四方八方から大人たちがタックルを仕掛けてきました。韓国でも。
しかし会社で一生懸命に働いても、どんどん不幸になっていくような気がします。
「幸せ」ってこういうことだったのでしょうか?
人生には自分の力ではどうにもできない部分がかなり多いものですが、それでも不幸な自分をすべて他人のせいにはできません。
やりがちなのは親のせいにすること。自分は「物書き」になりたかったのに、親から圧力をかけられて「公務員」になってしまった。こんなはずじゃなかったのに……とか。
自分の罪とは「人のいうことを素直に効きすぎた罪」「勇気を出して反抗できなかった罪」「自分の人生を誰かにゆだねてしまった罪」です。
夢を見ようとするならば、勇気と反抗心をもたなくてはなりません。
とくに親の敷いたレールには要注意です。親不孝者にならない限り、自分の夢を試すことさえできません。夢を見れば大目玉を食らうからです。
わたしたちはなぜ「ひとつの正解」に群がるのでしょうか。過度な競争は、消耗し共倒れになります。
ブルーオーシャン戦略とは何か?
それを避けるのには「ブルーオーシャン戦略」があります。ブルーオーシャンとは「競争者のいない領域」のことです。
需要も少ないが供給も少ないために需要があるという戦略です。
もしもあなたがデブでブスな女性だったとします。デブでブスな女性はダイエットして整形して美人になりたがりますが、手術する前によく考えましょう。美女世界は「レッドオーシャン(過度な競争社会)」です。需要も多いが供給も多い。
しかし世の中にはデブでないと燃えないデブ専、ブスでないと燃えないブス専という人たちが少数派ながら確実に存在しています。もしかしたら「そのまま」「ありのまま」の方が高く売れるかもしれません。
万人ウケする商品を狙って作っても売れるとは限りません。それなら本当に自分が創りたかった商品(=夢)をつくったらどうでしょう。結果なんかわからないのだから、自分の好きなことをやった方がいいのではありませんか。すくなくとも選択するとき自分の心に従えば、失敗を誰かのせいにすることはありません。たとえ認められなくても、少なくともやりたいことは思いっきりやったんだから、他人に迎合して骨折り損になるよりも爽快です。
挑戦に失敗はつきものです。夢に拒絶されたとしても、それでも夢を追いかけるのかどうか?
夢がかなう可能性は低いです。だから親たちは反対するのです。子どもが必要以上に苦しまないように。執着して失意のどん底に突き落とされて人生を失わないように。
夢を見ることは片思いに似ています。受け入れてもらえなくても、好きになった気持ちが止められないからです。
両想いになれなくても、その恋には十分意味があったと思えますか?
後悔しても後悔しなくても人生は転がるのです。
ないなら、ないなりに暮らせばいい
ハウスプアという言葉があります。「持ち家貧乏」ですね。
借金してまで、生活レベルをなぜ上げる? と筆者ハ・ワンは問いかけますが、私(アリクラハルト)の周囲の持ち家貧乏は逆ですね。持ち家のために生活レベルを下げています。
持ち家のローンを繰り上げ返済するのに必死で「貧乏か?」というほど生活を切り詰めています。家をもたなければ旅行も行けるだろうに、貧乏してまで持ち家が欲しかったのでしょうか。彼の人生ゲームは「持ち家」がゴールなのでしょうか。だとしたらもうゴールしてしまいました。次の楽しみは何でしょう。
自由を得るためには「もっとたくさんのお金が必要だ」と考えて、さらに自分の自由を売り払う人がいます。こうして「お金の奴隷」ができあがるのです。根本的に抱えている矛盾に気づかないまま突っ走ってしまっているのでしょうか。
矛盾に気づいた人の一部だけが、自由を得るためには仕事を辞めればいいのだ、とコペルニクス的に発想を転換させます。お金が足りなくなったら「よくわからない未来の貯蓄のため」ではなく「現在の自由」のために稼ぐのです。
お金のために自由を後回しにし続ければ、僕らは一生自由になれません。
マイペース。他人のスピードにあわせようとするから、つらくなる。
他人のスピードにあわせようとするから、つらくなる。
著者ハ・ワンはいいます。
私(アリクラハルト)はマラソンをやっているからわかるのですが、長距離完走のコツは「息が上がらない程度」のマイペースで走ることです。実力を上げるとは「息が上がらない程度」の域を上げることに他なりません。
やみくもに走るのではなくまったり行きませんか? 自分だけのコースとペースとゴールを探すことの方がもっと大切です。
思い通りにいかないほうが正常です。人生は自分の願いや選択がかなう方が少ないのです。
でも夢見た通りじゃない今の人生ははたして失敗なのでしょうか?
夢を叶えられたら素敵なことですが、かなわなかったとしても、ただそれだけのことです。「ああ、惜しかったなあ」くらいでさらっと払いのけた方がいいのです。
結局、人生はどうとらえるか、です。理想通りにならなくても人生は失敗じゃありません。人生に失敗なんてものはないのです。
「幸せ探し」でなく「不幸探し」をしてしまっている人たち
手っ取り早く自分を不幸にする方法は「近い他人と比較すること」です。私たちは有名人には嫉妬しません。ビル・ゲイツやザッカーバーグに嫉妬してどうしますか。嫉妬なんてドングリの背比べにすぎないのです。
もしかすると人間は、人生の大事な時間を自分の幸せな理由を探すより不幸な理由を探すことに費やしているのかもしれません。
「自分を過大評価することを止め、幻想を捨て、ありのままの今の姿を認め、愛しなさい」
韓国の僧侶の言葉にハ・ワンは感銘を受けます。私は仏僧の言葉は韓国も日本も変わらないなあとほほ笑みました。
「挫折マーケティング」「比較マーケティング」「嫉妬マーケティング」戦略
ある日、ハ・ワンは気づきます。雑誌の広告の目的は読者に挫折感をあたえることだ、と。
富の真の目的は「誇示」だから、買っても買っても際限がないのです。
世界はぼくらが不幸だとだましています。比較しなければ不幸じゃないのに、なにかと比較をするように仕向けてきます。」不幸になりたくないなら「もっと所有しなさい」「アレを買いなさい」「コレを買いなさい」と囁きながら。
本来はもっていない欲求を生み出してこそ資本主義経済は回転していくからです。顧客がいなければ顧客をつくりだすのがマーケティングです。
「挫折マーケティング」「比較マーケティング」「嫉妬マーケティング」によって私たちは不足を嘆き、不幸を噛みしめているかもしれません。
「嫉妬マーケティング」は、際限なく買わさせようとする高度に計算されたマーケティング戦略であるから、距離を置くことが必要かもしれません。
若い頃には戻れなくていい。大切なのは「結果」ではなく「物語」
40歳で仕事を辞めた『あやうく一生懸命生きるところだった』著者のハ・ワンは、ときどき毎月のお給料のことを恋しく思い出します。けれど若い頃には戻れなくていいと考えます。
何かを失うと何かを得られるものだということをこれまでの人生経験で知ったからでした。
何かを得ようと猪突猛進しているときにも、何かの別の可能性を失っているのです。
人生の意味というのはフィクションです。個人個人がおのれの納得のいくフィクションをみつけて、その夢の中で生を全うしようとします。
大切なのは「結果」ではなく「物語」です。「知識」ではありません。小説の主人公がどんな葛藤と向き合い、何を思い、どうやって乗り越えたのか。「物語」が好きなのは、物語が人生だからです。物語中毒は人生中毒だともいえるでしょう。
ゴシップ記事の見出しのように物語を語ったら薄っぺらです。人生はとても長い物語なのです。結果ではなく物語で人生を見ましょう。
成就しなかった恋は本当に時間の無駄だったのでしょうか。
誰にでも目に見えるもの以上の多くの物語があります。たくさんの物語を知ることは、より多くの理解を得ることに繋がります。
だから人間は物語を発明したのかもしれません。なんてすてきな発明なのでしょうか。
わたしたちは、物語の過程だって十分に楽しめるはずなのです。
お金持ちの時間貧乏よりも、時間リッチの方がいい
『あやうく一生懸命生きるところだった』は仕事に疲れた人だけでなく、若い人にも読んでほしい本です。「君たちはどういきるか」と問いかけている本だからです。
季節労働者・ニートな人にも読んでほしい本です。もしも正規職員に劣等感をいだいているのなら、そんな必要はないのだと教えてくれます。
逆に定年退職したような老人は読むべきではありません。なぜってもう遅いから。
時間は飛び去り、もう戻ってくることはありません。
「時間貧乏」という言葉があります。『あやうく一生懸命生きるところだった』は「お金持ちの時間貧乏よりも、お金持ちじゃなくても時間リッチの方がいい人生だ」と考える人たちを応援してくれる本です。
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旅人が気に入った場所を「第二の故郷のような気がする」と言ったりしますが、私にとってそれは韓国ソウルです。帰国子女として人格形成期をソウルで過ごした私は、自分を運命づけた数々の出来事と韓国ソウルを切り離して考えることができません。無関係になれないのならば、いっそ真正面から取り組んでやれ、と思ったのが本書を出版する動機です。私の第二の故郷、韓国ソウルに対する感情は単純に好きというだけではありません。だからといって嫌いというわけでもなく……たとえて言えば「無視したいけど、無視できない気になる女」みたいな感情を韓国にはもっています。
【本書の内容】
●ソウル日本人学校の学力レベルと卒業生の進路。韓国語習得
●関東大震災直後の朝鮮人虐殺事件
●僕は在日韓国人です。ナヌン・キョッポニダ。生涯忘れられない言葉
●日本人にとって韓国語はどれほど習得しやすい言語か
●『ムクゲノ花ガ咲キマシタ』南北統一・新韓国は核ミサイルを手放すだろうか?
●韓国人が日本を邪魔だと思うのは地政学上、ある程度やむをえないと理解してあげる
●日本海も東海もダメ。あたりさわりのない海の名前を提案すればいいじゃないか
●天皇制にこそ、ウリジナルを主張すればいいのに
●もしも韓国に妹がいるならオッパと呼んでほしい
●「失われた時を求めて」プルースト効果を感じる地上唯一の場所
●「トウガラシ実存主義」国籍にとらわれず、人間の歌を歌え
韓国がえりの帰国子女だからこそ書けた「ほかの人には書けないこと」が本書にはたくさん書いてあります。私の韓国に対する思いは、たとえていえば「面倒見のよすぎる親を煙たく思う子供の心境」に近いものがあります。感謝はしているんだけどあまり近づきたくない。愛情はあるけど好きじゃないというような、複雑な思いを描くのです。
「近くて遠い国」ではなく「近くて近い国」韓国ソウルを、ソウル日本人学校出身の帰国子女が語り尽くします。
帰国子女は、第二の故郷に対してどのような心の決着をつけたのでしょうか。最後にどんな人生観にたどり着いたのでしょうか。
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