『死ぬときにはじめて気づく人生で大切なこと33』の気づき
『死ぬときにはじめて気づく人生で大切なこと33』という本を読みました。
別にたいしたことは書いてありません。今まで漫然と生きてきた人が急に死期が迫ったからといって何か特殊な悟りの境地に達するわけがありません。そんなことがあるわけがないのです。だってこれまでに何億人の人間が死んできたと思います? 死ぬ前の人みんなが何かを悟るなら、この世は悟りに満ち溢れているはずでしょう。死ぬ前に気づくこと、というのは、たぶん「ありきたりのこと」なのです。
33人のもうこの世にいない人たちが今わの際に気づいたことがこの本には書いてあります。
みんな、会社人間だったことを悔やみ、家庭を犠牲にして仕事ばかりだったことを悔やみ、他人と競ったり嫉妬したりの人間関係を悔やみ、周囲に気を使いすぎて自分らしくいられなかったことを悔やんだりしています。そしてそれから自由になろうとします。何か生きた証、痕跡を残そうと苦闘したことのむなしさを悔やみ、守銭奴や健康オタクだったことを悔やみ、本当はまだ死にたくない気持ちとなんとか折り合いをつけて死んでいきます。
その中で一つだけ感動した人の話しがありました。夫を看取って死ぬと決めていたほど仲良し夫婦の妻側が余命いくばくもないガンにおかされてしまいます。長き闘病の末、妻はもう死にたいというのですが、夫は自分の半身が逝くことを許しません。
主人公ツバサは劇団の役者です。
「演技のメソッドとして、自分の過去の類似感情を呼び覚まして芝居に再現させるという方法がある。たとえば飼い犬が死んだときのことを思い出しながら、祖母が死んだときの芝居をしたりするのだ。自分が実生活で泣いたり怒ったりしたことを思いだして演技をする、そうすると迫真の演技となり観客の共感を得ることができる。ところが呼び覚ましたリアルな感情が濃密であればあるほど、心が当時の錯乱した思いに掻き乱されてしまう。その当時の感覚に今の現実がかき乱されてしまうことがあるのだ」
「ハッピーな人はもっと更にどんどんハッピーになっていってるというのに、どうして決断をしないんだろう。そんなにボンヤリできるほど人生は長くはないはずなのに。たくさん愛しあって、たくさん楽しんで、たくさんわかちあって、たくさん感動して、たくさん自分を謳歌して、たくさん自分を向上させなきゃならないのに。ハッピーな人達はそういうことを、同じ時間の中でどんどん積み重ねていっているのに、なんでわざわざ大切な時間を暗いもので覆うかな」
「どんな喜びも苦難も、どんなに緻密に予測、計算しても思いもかけない事態へと流れていく。喜びも未知、苦しみも未知、でも冒険に向かう同行者がワクワクしてくれたら、おれも楽しく足どりも軽くなるけれど、未知なる苦難、苦境のことばかり思案して不安がり警戒されてしまったら、なんだかおれまでその冒険に向かうよろこびや楽しさを見失ってしまいそうになる……冒険でなければ博打といってもいい。愛は博打だ。人生も」
「私にとって愛とは、一緒に歩んでいってほしいという欲があるかないか」
「不倫って感情を使いまわしができるから。こっちで足りないものをあっちで、あっちで満たされないものをこっちで補うというカラクリだから、判断が狂うんだよね。それが不倫マジックのタネあかし」
「愛する人とともに歩んでいくことでひろがっていく自分の中の可能性って、決してひとりでは辿りつけない境地だと思うの。守る人がいるうれしさ、守られている安心感、自信。妥協することの意味、共同生活のぶつかり合い、でも逆にそれを楽しもうという姿勢、つかず離れずに……それを一つ屋根の下で行う楽しさ。全く違う人間同士が一緒に人生を作っていく面白味。束縛し合わないで時間を共有したい……けれどこうしたことも相手が同じように思っていないと実現できない」
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妻も夫と別れるのが狂おしいほど苦しい。でもそれは夫に依存しすぎているからだ、と気づきます。そして夫から自由になろうと、夫の手をそっと放そうと決意するのです。そして夫も妻の自分から自由になってくれれば、と願います。避けられない旅立ちの別れの前に必要なのは、自由になることでした。
さすがの私も臨終体験はないので、このような壮絶な自由は体験したことがありません。
「私は狂おしいほど女を愛した。しかし常に女よりも自由を愛した」といったジャコモ・カサノヴァを思い出しました。自由っていうのは複雑な意味をもった重たい言葉なんですねえ。
ジャコモ・カサノバ『回想録』世界一モテる男に学ぶ男の生き方、人生の楽しみ方
退職。「自分が死ぬ」前提でないと仕事はやめられない。
人間というのは「仮の永遠」を信じて生きています。いつか何もかも消えてなくなるという考え方は心地よいものではないために、昨日があったように明日もあるとして「仮の永遠」を生きています。このままずっと生きていく前提で日々暮らしているわけです。
実は私も昔はそうでした。この自分が死ぬなんてことは考えられなかった。もしかしたらこのままずっと自分だけは特別で生きていられるんじゃないかと思っていました(笑)。
それが「そうじゃない」ことに気づいたのは、シリアスに練習していたマラソンで自己ベスト記録を更新できなくなったときでした。シリアスランナーが自己ベストが更新できないということは自らの衰え、老いに直面することと同じです。
※雑誌『ランナーズ』のライターにして、市民ランナーの三冠王グランドスラムの達成者の筆者が走魂を込めた書籍『市民ランナーという走り方』(サブスリー・グランドスラム養成講座)。Amazon電子書籍版、ペーパーバック版(紙書籍)発売中。
言葉の力で速く走れるようになる、というのが本書の特徴です。走っている時の入力ワードを変えるだけで速く走れるようになります。言葉のイメージ喚起力で、フォームが効率化・最適化されて、同じトレーニング量でも速く効率的に走ることができるようになります。踵着地とフォアフット着地、ピッチ走法とストライド走法、どちらが正解か? 本書では明確に答えています。あなたはどうして走るのですか? あなたよりも速く走る人はいくらでもいるというのに。市民ランナーがなぜ走るのか、本書では一つの答えを提示しています。
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早期退職、FIREという考え方があります。ふつうの退職も同じですが、退職というのも「自分が死ぬ」前提でないと考えられません。だって永遠にずっと自分が生きているとしたら、明らかに退職後の財政収支はいつかマイナスになってしまうはずですから。
働いているうちはまだ「永遠の命」幻想を抱いていけます。すくなくとも働き続けている以上、ずっと生きたとしても財政収支は赤字にはならないからです。でも退職すれば、いつかは収支がマイナスになる。いわゆる「長生きリスク」「高齢者貧困」問題です。いつか死ぬ前提でなければ仕事をやめることはできません。
つまり退職するということは「仮の永遠」幻想をきっぱりと諦めて自分が死ぬことを認めるということです。これが六十歳(定年)ならば体のあちこちにガタが来ているので自然に否応なしに「仮の永遠」を諦められるかもしれません。しかし四十歳でFIREした場合はどうでしょうか? まだ肉体は若々しく活力横溢です。その状態で「仮の永遠」をきっぱり諦められるでしょうか?
多くの人が早期退職を実行できないのはこの「仮の永遠」幻想に生きられなくなる恐怖感が原因なのだと思います。あるいはFIREを達成してもまた仕事に戻るのは「仮の永遠」幻想の中で生きていく方が心理的に心地いいからではないかと思います。
病院がなくなって病気もなくなった北海道夕張市。信じれば長生きできる。
人間の寿命には心理的な影響というものがあります。財政破綻した北海道の夕張市では病院がなくなってしまったのですが、病気もガクンと減ったそうです。「病院に通えない」と思うと人は病気にならないのです。病気で病院で死ぬのではなく、老衰で寿命で自宅で死ぬ人が増えたそうです。
「仮の永遠」を信じて生きることで人はずっと生きつづけようとします。それに対して早期退職者は自分の寿命を見限っています。すると……もしかしたら早期退職すると働き続けている人よりも寿命が早く来るかもしれません。
人の心理は寿命や健康に影響をあたえるのです。
人はスポーツでかつての自己記録が出せなくなったり、仕事をやめたりする瞬間に「仮の永遠」が幻想にすぎなかったことを悟ります。そして『死ぬときにはじめて気づく人生で大切なこと33』の登場人物たちと同じような「気づき」に気づきます。誰もが遅かれ早かれそれに直面します。
見ないままで済むならばできるだけ見ないほうがいいという考え方をする人もいるでしょうが、どうせ見なければならないものならば早いうちに見て後悔のすくない人生を送った方がいいと思う人もいます。私は後者です。あなたはどっちでしょうか?
病気の彼らは病気によって人よりもはやくそれに気づかされました。でも私たちは本を読むことによって、その気づきを手に入れることができます。
その気づきは早い方がいのです。早く気づいて、後悔のすくない人生を送りたいものですね。