ドラクエ的な人生

人類学とは? 勉強するなら何学部?

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文学部の卒業論文に、人類学のテーマで書こうとしていた体験談

わたしは文学部の出身です。文学部では卒業論文を提出しないと卒業できません。四年生になると卒論のテーマを大学に提出し、テーマ内容によって指導教授が決まるという仕組みでした。わたしは日本文学科でした。しかし今さら『源氏物語』について論文を書こうという気にはなれませんでした。

そして「国家の成り立ち。クニの進化。道具の発展」というようなテーマで卒論を書こうと思って大学に内容を提出したら、呼び出しを食らいました。

「こんな漠然としたテーマでは論文を書けないでしょう。一冊の本に絞って、それについて書きなさい」

と、しごくもっともな指導を受けました。しかし当方はそれほどまっとうな生徒ではありませんでした。

一冊の本を三島由紀夫の『サド侯爵夫人』に絞り、フランス革命サディズムキリスト教のことばかりの、およそ日本文学科とは思えないような論文を書いて、大学をちゃんと卒業した次第です。

『サド侯爵夫人』三島由紀夫の最高傑作

キリスト教信者でない者が聖書を精読してみた

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人類学部ってある? 人類学の内容で文学部を卒業するのは無理なのか

ところで、当初わたしが卒論でやろうとしていた「国家の成り立ち。クニの進化。道具の発展」というテーマですが、これは今にして思えば「人類学」の研究をしたかったということなのだと思います。

当時のわたしは人類学(文化人類学)という言葉も知りませんでしたし、そういう学問分野があることも知らなかったと思います。ただ、結果として、わたしは当初、人類学の分野で文学部の卒論を書こうとしていたのです。

氷河期とか縄文時代とかのアウトドア生活。狩猟採取とか遊牧民とかの放浪の生涯。そういうものに興味があったのです。

縄文遺跡は世界遺産になる。縄文ブームが必ず来る

アウトドアのメリット。人間は、自然とひとつになってはじめて永遠であり、真理である

FIREファイア。経済的に自立した早期リタイア。遊民主義

日本文学科の卒業論文にふさわしいテーマとはいえませんが、べつに文学部の指導教授も受け入れてくれてもよかったんじゃないか、という気がしないでもありません。井原西鶴や紫式部ばかりが日本文学じゃないと思うけどね。

ところで人類学っていつごろからあるんでしょう。現在は昔はなかった観光学部とか情報学部があります。いま、人類学を勉強したかったら、何学部に進学すればいいのでしょうか。大学に文学部があって人類学部がないのは何ででしょうか?

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人類学を勉強するなら何学部?

現在、文化人類学を勉強しようと思ったら、大学によって違いますが、社会学部文学部人間科学部などで学べるようです。わたしの母校、早稲田大学の場合は、社会学部、文学部、人間科学部すべて揃っていますが、学士過程で文化人類学を学ぶなら文化構想学部になるのかな?

人類学部というのはあまりないようです。結局、文系のどこかの学部が受け持っているようです。文学部で人類学を教えている大学もあるのだから、別に卒論のテーマとして「国家の成り立ち。クニの進化。道具の発展」を受け入れてもらってもよかったんじゃないかな、と思います。そもそも1990年ごろに文化人類学なんて言葉が流通していたのでしょうか。わたしが知らなかっただけなのかな?

すくなくとも「みんなが知っていてあたりまえ」のワードではなかったと思います。

やはり文学部で文化人類学的な卒業論文を受けつけてもらってもよかったんじゃないかな。

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文化人類学はほとんど「人類の歴史」のこと。

文化人類学というのはほとんど「人類の歴史」のことです。狩猟採取、遊牧民の移動する生活から、農耕による定住生活へ。

自然の掟に従う狩猟採取生活から、社会の掟に従う農耕生活へ。人間の自由とは何か。ものを考えるには、自由が必要だということ。狩猟技術の発達、道具の発達。食料保存技術の発達。住居の発達。土器と布の服の誕生。青銅器から鉄器へと武器の進化。宗教の誕生。アニミズムとシャーマン。市場と貨幣。

人間社会における人間のよろこびと苦しみの質の変化。新しい時代の豊かさと、これからの新しい生き方の模索。

どうしても日本文学に関係ないとダメだというのなら、歴史の最後に「古事記」をもってきてもよかったのです。

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いかに生きていくべきか。……文化人類学は哲学

縄文ポシェット。ごみ場に捨てられていたもの。よく残ったなあ

いかに生きていくべきか。……文化人類学は哲学といってもいいかもしれません。

ところで哲学科も普通は文学部内にあるはずです。

神様や王様にしばられない自由な生き方。人間中心の世界観。生活手段や様式が思考に及ぼす影響。

今この場所この瞬間を旅先のように生きる。集団よりも個を優先する生き方【トウガラシ実存主義】

文学部内に日本史コースというのがあったりするのだから、やっぱり指導教授は「国家の成り立ち。クニの進化。道具の発展」という卒論テーマを受け入れてよかったのではないかと思います。

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人類学は壮大なテーマ。指導教授に助けられたのかもしれない

結局、卒論のテーマに選んだ『サド侯爵夫人論』は、わたしにしか書けないものが書けたと自負しています。

しかし文化人類学の内容で卒論を書こうとしたら、わたしにしか書けない論文にはならなかったかもしれません。書物を読んでまとめるだけのつまらない卒論になってしまった可能性がじゅうぶんにあります。

人類学を扱うと、あまりに範囲が広すぎて、とりとめのないものになってしまったかもしれません。そういう意味で指導教授はわたしを救ってくれたのかな。

たいへんすぎるテーマを選ばなくてよかった。センセイ、ありがとう。そう思うべきなのかな。

ふと、人類学のことを耳にして、大学時代の卒業論文のことを思い出したのでした。

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