- 古市憲寿『平成くん、さようなら』は安楽死を扱った小説
- 主人公が罹った筋萎縮性側索硬化症(ALS)とは?
- ALS安楽死嘱託殺人事件とは? どんな内容だったの?
- 【書評】『平成くん、さようなら』ってどんな小説?
- 作品世界では、安楽死が認められている世界という設定になっている
- 死ぬことは避けられないが、苦しむことは避けられるかもしれない
- 平成くんは死んだ後もSNSで呟き、彼女とAIで語り続けた
- 人間には命を賭けてもいい権利(死ぬ権利)の補償が絶対に必要である
- 死は生を輝かせるものとして、同時に存在しているもの
- 安楽死ヘルパーの資格を医者にあたえればいいのではないか
- 「死の自己決定権」はやがて世界に受け入れられるだろう。
古市憲寿『平成くん、さようなら』は安楽死を扱った小説
車中泊の旅の途中、諏訪大社の参道でテレビを見ながらおやきを食べていたら、医師が安楽死を助けたとして逮捕されていた。
ALS嘱託殺人と呼ばれている事件である。
たまたま私が読んでいる本、古市憲寿『平成くん、さようなら』が、安楽死を取り上げた作品だった。
『平成くん、さようなら』と、実際の事件とを比較して、安楽死問題について考えてみたい。
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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。
「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」
「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」
※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。
アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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主人公が罹った筋萎縮性側索硬化症(ALS)とは?
YMYL(ユアマネーユアライフ)問題もあるし、私は専門家ではないので、詳しいことはこちらをお読みください。
上記サイトを私が要約するとこういうことだ。
ALSとは、神経の障害により筋肉に動けという信号が伝えられなくなり、動けなくなってしまう病気である。つかわない筋肉は、痩せて力がなくなっていく。最後には呼吸筋が動かなくなることで、放っておくと大多数の人は呼吸不全で死ぬそうだ。
現在の医療では、病気は完治はおろか、進行を止めることもできないらしい。
もしあなたがこの病気になったら、どうです?
苦痛のない死だったら、選びたくなる気持ちもわかると思いませんか? もちろんこの病気になっても生きる希望を失わない人だっている。
私がここで言いたいことは「死にたい」と言った人が嘘をついたり、周囲に言わされたりということではないな、ということを肌で感じるということである。
ALS安楽死嘱託殺人事件とは? どんな内容だったの?
ALS嘱託殺人と呼ばれる事件は、かいつまむとこういうことらしい。
2019年11月30日、京都在住の51歳女性が安楽死を望み、SNSを通じて依頼した医師2人の手によって自ら望んだ死を遂げられた。死因は薬物中毒である。
女性は「惨めだ。こんな姿で生きたくない」「なぜ、こんなにしんどい思いをしてまで生きていないといけないのか」「指一本動かせない自分がみじめでたまらない」とネット上で語っていた。
お金を払ってでも(苦しむことなく)死にたい、と患者本人が何度も主張していたという。それは事実であると確認されている。
医師の口座には患者側から130万円の振り込みがあったが、金額は患者みずからが提示していたそうだ。
これは重要なことだ。
必死で救命医療する医者にくらべると、毒物注射一本で殺すことができるDr.キリコ医療が、ぼろ儲けしたらいくらなんでもまともに治療する人がバカを見る。
しかし金額の提示は女性の側からだったというなら、死の商人と決めつけることはできない。それだけ女性の気持ちが切実だったということだろう。
アメリカ留学の経験もあり、旅行が好きで活動的だったという51歳女性が、意識はしっかりしているのに体だけが動かなくなるという拷問のような状態に生涯さらされなければならない時、死を選びたいと思ったとしても不思議ではないとおれは思う。
実際に51歳女性がどうだったかは知らない。しかしここで問いたいのは、ガチで死を選ぶ可能性があるということである。
そしてこのページで問うているのは可能性のことである。個別具体的なことではない。可能性があればじゅうぶんなのだ。両手両足に力が入らず、首を吊りたくても吊れない、睡眠薬を入手できない、死にたくても死ねない状態にある病人が実際にいるってことだ。
そういう人が死にたいと思った時に、どうすればいいのだろうか? 死ぬ権利すら、ALS患者にはないのだろうか?
自殺という手段で苦しみから逃れることは許されないことだろうか?
神をもちだすのはやめてほしい。
ひとりひとり、ひとつしかない命のことだ。
もし人には死ぬ権利があるとするならば、介護のヘルパーに相当するような人を準備することが必要不可欠なのではないだろうか。
つまり安楽死の介護者である。
だって手足が動かないのに、どうやって死ぬことができる?
拷問苦にさらしたままというのが人道的か?
【書評】『平成くん、さようなら』ってどんな小説?
タイトルだけを聴いたら、終焉した平成という時代へのオマージュいっぱいの作品だと想像しますよね?
平成時代の風俗をふんだんに取り入れた「なつかしい」平成っぽい作品だと思うじゃないですか。私もその感覚で読み始めました。でも全然違った。
『平成くん、さようなら』は安楽死を扱った作品です。
平成時代が始まった日に生まれた「平成くん」は、いかにも平成的なマスコミでの成功をおさめています。
しかし平成くんは恋人女性に安楽死を考えていると告げる。
その彼女が物語の語り部です。
作者の古市さんは男性ですが、物語の語り部は女性です。
平成くんが死を望むのは平成時代の終わりということが大きく関係しています。
ミスター平成のような立場の平成くんでしたから、これで自分の時代が終わると考えてしまっています。
これ以上長生きしても、平成時代に成し遂げたこと以上の仕事は残せないことを感じています。
「もう十分にやりつくした。終わった人間にはなりたくない」
語り手女性は死を思いとどまらせようとします。
死を選ぶことは人間としての帰還不能点を越えることだ、と。
作品世界では、安楽死が認められている世界という設定になっている
作中世界では、安楽死が認められている社会ということになっています。
重病の配偶者から「死にたい」と懇願されて、愛ゆえに手にかけてしまうという嘱託殺人事件が数えきれないほど起こった後に、安楽死は認められました。
私は『平成くん、さようなら』を、平成時代の風俗を取り込んだ作品だと思い込んでいたので、知らないうちに日本では安楽死が認められることになったのかと驚きました。
ビックリして調べたところ、フィクションでした。現実のリアルな日本国では、制度として安楽死を認められていない社会です。フィクションを現実と勘違いすると、ALS嘱託殺人のようなことになってしまいます。気をつけてください。
たしかに『平成くん、さようなら』には、私が想像した通り、いかにも平成っぽいワードが頻出する。
サーフェスやウーバーはわかりますが、ウーマナイザーって何だ?
ググったら、女性用のよくわからない「何か」でした。これ、どやって使うの??
死ぬことは避けられないが、苦しむことは避けられるかもしれない
安楽死の現場をマスコミ関係の有名人というポジションを利用して見て回るが、肝心の死のうと考えた原因は語り手女性にはわからないまま物語は進行していきます。
ある日、寿命をむかえた飼い猫が苦しんでいるのを見て平成くんは安楽死をさせます。
語り手女性は「猫は喋れないんだから、本当はもっと生きたかったかもしれない」と言うが、動物病院では大往生だと言われます。
平成くんにも「殺した」意識はなく「死はしかたがない」という感覚しかありませんでした。
飼い猫の死を語り手女性が実母に告げると「苦しまなかったか?」と開口一番に聞かれました。
死ぬことは避けられませんが、苦しむことは避けられるかもしれません。
やがて語り手女性も、飼い猫の死を最善の最後だったと思い始めます。
平成くんは死んだ後もSNSで呟き、彼女とAIで語り続けた
安楽死を数多く視察する中で、人間は誰かの死に打ちのめされることを平成くんは知りました。
そして自分が死んだら打ちのめされるかもしれない語り手彼女に「目が見えなくなる病気」にかかっていることを告白するのだった。
平成くんは語り部彼女の前からしばらく姿を消したかと思うと、自分の思考パターンをAI化したスマートスピーカーを開発していました。
もともとグーグルホーム(スマートスピーカー)との会話を彷彿とさせるような会話しかしていなかったため、会話の返事は、平成くん本人なのか、平成くんのAIなのか、見分けがつきません。
そして将来発表する原稿も書き上げたので、平成くんが死んだとしても世間には生きているかのように見える仕掛けをしていました。
SNS投稿も投稿日時を決めてあらかじめ投稿してあります。
そしてグーグルアカウントのパスワードを渡して、平成くんは長い旅にでます。
Googleのパスワードを渡すことで、語り部女性は、きっと平成くんが決心を固めたものと察する。
新しい恋人ができた語り手彼女は、スマートスピーカーの平成くんと喋ります。おそらく……おそらく相手は生身の平成くんではないはず。
そして語り手彼女は、平成くんにさよならを告げると、コンセントを抜いたのでした。
人間には命を賭けてもいい権利(死ぬ権利)の補償が絶対に必要である
私はここで、ALS嘱託殺人事件そのものについてどうのこうの言うことは避けたいと思います。
この場合はどうこうと、個別案件の例外的な条件にとらわれたくないからです。
問いたいのはあくまでも一般論です
人間には「死ぬ自由」はないのか? それを問いたいのです。
人間には死ぬ権利があるとおれは思う。それは保障されなければならない、とさえ思っている。
死ぬ権利というのは、何かに命を賭ける権利と同じことだ。その自由がなければ、人間の他の自由は死んでしまう。
もっとも本質的な自由こそ、人間の命を賭けてもいい権利(死ぬ権利)ではなかろうか。
星野富弘さんみたいに首から下が動かなくたって芸術家として成功できるし、死んじゃダメ、と誰に対してもあっさりと言えるのか?
たとえば平成くんのように人生の盛りに失明した人に。
十把一絡げにしれってそういえる人は、あまりにも無慈悲ではないだろうか。
そう言っている人は、自分がその病気になったらどうなのだ?
病気への想像力が足りないのではないかと思う。
たしかに「一度でも死にたいと思った時に死んでいたら」私は今はもうとっくに鬼籍に入っている。今の幸せを感じることなく死んでいたわけだから、あの時の激情で死ななくて本当に良かった、と思う。
そういう意味で「死にたい」と言ったからといって、安易に死なせるのはいかがなものか、という主張はよくわかる。その時は本心でも、次の瞬間には「生きたい」と気持ちが変わるのが人間だからだ。
しかしそれでもなお人間には死ぬ権利があるとおれは思う。死ぬ権利というのは、何かに命を賭ける権利と同じことだ。その自由がなければ、人間の他の自由は死んでしまう。
何か行動を起こすとき、ときには命を顧みないでする必要はあるだろう。
たとえばサラリーマンを辞めて会社を企業する場合、わが身の安全だけを考えるならば、誰も独立に舵を切ったりしないだろう。冒険の旅に出る人など、ひとりもいなくなってしまう。
死ぬ覚悟をして行動する人がいる。そう。人には死ぬ権利があるのだ。
いわばもっとも本質的な、究極の自由が、人間の死ぬ権利ではなかろうか。
死は生を輝かせるものとして、同時に存在しているもの
『死ぬ権利』に注目が集まり、『生きる権利』がないがしろにされるのではないかとの声もある。
そんなことはない。論点が違う。
生きる権利をないがしろになんかしていない。
51歳女性が「死にたい」と言わなかったら、医師も注射を打たなかったに決まっている。
死ぬ権利を主張することは、生きる権利をないがしろにすることではない。
両者は対立する権利ではない。むしろ死は生を輝かせるものとして同時に存在しているものなのだ。
安楽死ヘルパーの資格を医者にあたえればいいのではないか
ALS嘱託殺人事件に関しては、現状の議論は、医者の倫理観を問うものが多い。
患者を生かすのが医者の務めなのだから、安楽死なんて医者の義務違反じゃないか。という議論だ。
医師免許は殺しのライセンスではない、という主張である。
私の議論は論点が違います。
人間には命をかける権利(死ぬ権利)があり、手足が動かない人には権利のヘルパーが必要である。
ということなのだ。
絞首刑のようなブラブラな光景で自殺するのは無理なのだから、眠るように死ぬ薬物中毒だけが安楽死だとすれば、それができるのは薬のプロだけである。
医者か薬剤師に安楽死のヘルパーの資格をあたえればいいではないか?
安価に苦しむことなく死ぬことができれば、人生の難易度はだいぶ下がる。
お金もなく、あちこち痛いという不健康状態で、100歳まで生きるのは、不幸だ。
長生きすれば幸福というわけではない。
「死の自己決定権」はやがて世界に受け入れられるだろう。
それなのに現実日本は、なにをやっているんだ?
それを問うているのだ。
『平成くん、さようなら』という小説世界にさえ遅れをとって。
「死の自己決定権」はやがて世界に受け入れられるだろう。
人間には死ぬ権利があるとおれは思う。
死ぬ権利というのは、何かに命を賭ける権利と同じことだ。
その自由がなければ、人間の他の自由は死んでしまう。
そんな考えを持つようになったのも『あしたのジョー』や『神々の山嶺』を読んだからだ。
『あしたのジョー』で主人公ジョーは、命が燃え尽きるまで好きなボクシングに賭ける。
『神々の山嶺』でも、死の山に命を賭けて登る。
自分の命を自分が選んだように使えなければ、人間に自由なんてない。
『平成くん、さようなら』でも、主人公は「サヨナラ」する。
人間はいつかサヨナラするものだ。
そのタイミングを自分で選べたら最高ではないか。
「死の自己決定権」はやがて世界に受け入れられるだろう。
オレはそう思う。
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このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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物語のあらすじを述べることについての私の考えはこちらをご覧ください。
私は反あらすじ派です。作品のあらすじ、主題はあんがい単純なものです。要約すればたった数行で作者の言いたかった趣旨は尽きてしまいます。世の中にはたくさんの物語がありますが、主役のキャラクター、ストーリーは違っても、要約した趣旨は同じようなものだったりします。
たいていの物語は、主人公が何かを追いかけるか、何かから逃げる話しですよね? 生まれ、よろこび、苦しみ、死んでいく話のはずです。あらすじは短くすればするほど、どの物語も同じものになってしまいます。だったら何のためにたくさんの物語があるのでしょうか。
あらすじや要約した主題からは何も生まれません。観念的な言葉で語らず、血の通った物語にしたことで、作品は生命を得て、主題以上のものになるのです。
作品のあらすじを知って、それで読んだ気にならないでください。作品の命はそこにはないのです。
人間描写のおもしろさ、つまり小説力があれば、どんなあらすじだって面白く書けるし、それがなければ、どんなあらすじだってつまらない作品にしかなりません。
しかしあらすじ(全体地図)を知った上で、自分がどのあたりにいるのか(現在位置)を確認しつつ読書することを私はオススメしています。
作品のあらすじや主題の紹介は、そのように活用してください。