ドラクエ的な人生

ヘルマン・ヘッセ『郷愁』個人には自分を完成する責任がある。地域や先祖のせいにはできない。

ここではヘルマン・ヘッセ『郷愁』について書評しています。

一晩で読み終えました。何も事件のない退屈な一日だったはずだったが、読み終えたとき、波乱万丈な一日だったことに気づきました。本を読むっていうのは心の冒険なんですね。

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原題はありがちな『主役の人名=作品名』です。『ペーター・カーメンチント』というのがそれです。主人公の名前です。それが日本語では『郷愁』とタイトルになっています。『ちいさな王子さま』が『星の王子さま』と邦訳されるのと同じで、伝統的な作品名になっています。

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黄色のマーカーが『郷愁』から。赤字がわたしの感想になっています。

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このブログの著者が執筆した「なぜ生きるのか? 何のために生きるのか?」を追求した純文学小説です。

「きみが望むならあげるよ。海の底の珊瑚の白い花束を。ぼくのからだの一部だけど、きみが欲しいならあげる。」

「金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。」

※本作は小説『ツバサ』の前編部分に相当するものです。

アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。

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ヘルマン・ヘッセ『郷愁』あらすじ

自然あふれた田舎に生まれたペーター・カーメンチントの青春物語、成長譚です。

物語のあらすじを述べることについての私の考えはこちらをご覧ください。

物語のあらすじを紹介することについて
あらすじを読んで面白そうと思ったら、実際に照会している作品を手に取って読んでみてください。ガイドブックを読むだけでなく、実際の、本当の旅をしてください。そのためのイントロダクション・ガイダンスが、私の書評にできたらいいな、と思っています。

私は反あらすじ派です。作品のあらすじ、主題はあんがい単純なものです。要約すればたった数行で作者の言いたかった趣旨は尽きてしまいます。世の中にはたくさんの物語がありますが、主役のキャラクター、ストーリーは違っても、要約した趣旨は同じようなものだったりします。

たいていの物語は、主人公が何かを追いかけるか、何かから逃げる話しですよね? 生まれ、よろこび、苦しみ、死んでいく話のはずです。あらすじは短くすればするほど、どの物語も同じものになってしまいます。だったら何のためにたくさんの物語があるのでしょうか。

あらすじや要約した主題からは何も生まれません。観念的な言葉で語らず、血の通った物語にしたことで、作品は生命を得て、主題以上のものになるのです。

作品のあらすじを知って、それで読んだ気にならないでください。作品の命はそこにはないのです。

人間描写のおもしろさ、つまり小説力があれば、どんなあらすじだって面白く書けるし、それがなければ、どんなあらすじだってつまらない作品にしかなりません。

しかしあらすじ(全体地図)を知った上で、自分がどのあたりにいるのか(現在位置)を確認しつつ読書することを私はオススメしています。

作品のあらすじや主題の紹介は、そのように活用してください。

偉そうに? どうして無名の一般市民が世界史に残る文豪・偉人を上から目線で批評・批判できるのか?
認識とか、発想とかで、人生はそう変わりません。だから相手が世界的文豪でも、しょせんは年下の小僧の書いた認識に対して、おまえはわかってないなあ、と言えてしまうのです。それが年上だということです。涅槃(死。悟りの境地)に近いということなのです。

愛情というものは私たちをしあわせにするものではありません。それは私たちが苦しみ、耐えるときにどれだけ強くなれるのかを、自分に見せるためのものだとわたしは思います。

そのとおりにペーターの青春は挫折の連続でした。恋も、友情も、文学も、そして人の死に対しても何もできず、ただ強くなることしかできませんでした。

エルミニアに告白する直前で、つまり振られる直前で、扉は閉じられてしまった。三日間ひたすら歩き回る。おまえは百姓のままでいるべきだったのだ。

ヘッセの『郷愁』を放浪の小説として読もうとするならば、こういうところでしょう。『ノルウェイの森』の主人公が恋人を失った時のように、ペーターはひたすら野宿で歩き回ります。

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アジシの聖フランシスとは? どんな人物?

アジシの聖フランシス。さすらい歩き、その放浪の中で神を讃えつつ、すべての人々につつましい愛情を捧げる。植物や星や動物を、風や水を、神への愛の中に含めることによって、中世紀をのりこえ、ダンテをすら追い越して、永遠の人間性をしめす言葉を見つけ出した。やきごてで額を焼かれる。

→アッシジのサン・フランシスコとも呼ばれます。アメリカのサンフランシスコはこの人の名前から取られています。何をした人かというと……1世紀の人物ではなく、12、13世紀の人物です。エコで清貧のミニマリストで、大地に感謝し、自然と心を通わせ、小鳥に説教し、キリストのような聖痕を受けて死んだ人物です。

わたしが人生や友人から得たものは自分があたえた分よりもはるかに多い。かねてから手掛けている作品を完成し、世に問うことがもしもあるとしたならば、その中に出てくる心映えのすぐれた部分はたいていボピーから学んだもの、ということになるであろう。

爽快な楽しい時代。この時期の思い出を私は一生涯あじわい、楽しむことになるだろう。

われわれはせっかくの美しく短い人生をありとあらゆるつまらない罪悪でだいなしにしてしまう。怒りとか焦りとか不信とか虚偽とか。せむしの病気がこういう雑多な罪悪を火の中にくべて焼きつくしてしまった。おおきな苦悩と欠陥を通じて、弱さを意識し、神の手にゆだねることをまなびとっていた。

このボビーというのが、病弱で、大学で学んだことも、生まれ故郷を出て旅したこともないような人物です。学者でもなく、旅人でもなく、ただの病人から学んだということが、大きな意味をもってくるのです。

その舟は今はもう存在しない。まるで死んだ愛人を語るような調子で、あの舟をなつかしんだ。

舟を寓話につかっていますが、こういう感覚はわたしたちもよく経験するものです。頭の中にあるものはすこしも去らないのに、現実には年老いたり、消え去ったりしているということが。

少年の夢を追いかけることができるのだという気がした。実際には、私の生涯のかなりの部分は使い果たしてしまって、もう永久に取り戻すことはできないのだということは、毎日からだを洗うたびに思い知らされることだった。

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実存主義。個人には自分を完成する責任がある。地域や先祖のせいにはできない。

世間の幸せをつかみそこなってしまったために、この古巣に舞い戻ってくることになったことを今ではよろこんでいる。この地こそ私の属するところであり、この地になっては私の罪悪はごくあたりまえの先祖伝来のものと容認されるのである。よその土地では自分を風変りな珍種だと思いかねなかった。この土地では私のことを奇人だなどと思う人はひとりもいない。老いた父やおじさんを観察していると、じつにまっとうな息子であり甥であるという気がする。精神という教養の世界にわたしが右往左往してとびまわったのは、結局のところおじさんの有名なヨットの冒険と似たりよったりのものである。

これは……本当でしょうか。あなたはそれほど父親に似ていますか? わたしは父親とはぜんぜん似ていません。つまり田舎に帰っても私の性質は「先祖伝来のもの」だと認識されることはまずないだろうと思います。

ヘルマン・ヘッセ『郷愁』はスイスの田舎のものがたりであり、まだ個人主義の発達する前の物語であり、当然SNSなどない時代の物語です。そういう鋳型教育のまえでは、人は父や母に似てしまうものなのでしょうか??

現代の私たちはこれほど牧歌的な時代に生きてはいません。実存主義の世界に生きていて、個人には自分を完成する責任があります。先祖や地域の由来にすればいいという時代はある意味で今ほど生きにくい時代ではなかったといえるかもしれません。

今この場所この瞬間を旅先のように生きる。集団よりも個を優先する生き方【トウガラシ実存主義】

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さすらいと浪費の末に、人生に何の変化もなかったら、バカなんじゃないかと自分自身に失望してしまいそうだ

これほどたくさんのさすらいと浪費の末に得られたものはなんであっただろうか。わたしがラテン語をやり、大学まで行きながら、とどのつまりはエミコン村の居酒屋の主人にしかなれなかったということになれば、父はおおいに凱歌をあげるだろう。

これは……わたしもよく感じることです。わたしは世界30カ国以上を放浪していますが、それが自分にもたらしたものは何だっただろうか、と。

好きでやったことなのだから、楽しい思い出以外に何ら得るところがなくても文句をいうつもりはありません。しかし、あれだけのものを見てきて人生に何の変化もなかったら、バカなんじゃないかと自分自身に失望してしまいそうです。

すくなくとも見てきたものは何も影響を与えることなどなかったほど小さなものではなかったと思っているのならば、人生を変えなければならないはずではないか、と思うのです。

自然の事物たちの深淵。日常の仕事を放棄して、静寂の世界を求め、創造主の歌に耳を傾け、雲の行くさまを観察する。世捨て人、懺悔者、聖者。

ヘッセ『郷愁』を、自然から多くを学んだ詩的な主人公の物語、と書評しているのを見かけますが、間違っています。たしかに主人公が「人より自然から学んだ」的な独白をしているのですが、小説の中ではあきらかに「人から」学んでいます。主人公のいってることと実際が一致していないのです。そこを間違えないでください。

彼の倦みつかれた魂がふるさとへ帰る日がちかくなったためにつばさをもとめているのであろう。さあ帆をあげましょう、おじさん。

作品を書きが得ることができたら、わたしにとっては村議会やダム以上の値打ちをもつ。しかし私の人生の過ぎ去ったけれども消え去ることのない思い出の全体ほど大切なものではない。

それは友だちであり、女性のことでした。自然ではありません。大自然は今も変わらず目の前にあります。

『月と六ペンス』サマセット・モーム

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このブログの著者が執筆した純文学小説です。

「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」

「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」

本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。

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『シッダルタ』ヘルマン・ヘッセ。白人が見た仏陀。解脱する方法

荒野のおおかみ。ステッペン・ウルフ

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