過去に体験したことが無意識化に蓄積されていて、それが人の行動を決めている説
人間の行動の多くは無意識が決めている、という説があります。直接意識していなくても、過去に体験したことが無意識下に蓄積されていて、それが人の行動を決めているというのです。
今回、私は読書体験を通じて、「ああ、おれの行動を決めていたのは、これだったのか」と自分の無意識下の決定を痛感することがあったので、そのエピソードをご紹介します。
出世しないほうがいい、隠れて生きようという人生スタンスになったのは、古代中国のせいだ!
今どきの若い人は出世しなくてもいいという主義、スタンスの人が多いと聞きますが、どうしてでしょうか?
私はもっと古い世代の人間ですが、でも「出世しない方がいい、隠れて生きよう」という気持ちをずっと持ち続けてきました。世代が違うのに、そこは一致していました。どうして私はそういう生き方、スタンスだったのでしょうか?
私は『読書家が選ぶ死ぬまでに読むべきおすすめ名作文学』という著書もある読書家です。
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(本文より)知りたかった文学の正体がわかった!
かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。
しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。
世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。
すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。
『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。
その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。
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そして、つい先日、司馬遼太郎さんの『項羽と劉邦』を読んでいました。読むのは二回目でした。大学の頃に一度読んでいます。『三国志』や『項羽と劉邦』などは若い頃に一度読んだことがあります。そして読み返して思い当たったのです。
ああ、おれが「出世しない方がいい、隠れて生きよう」という人生傾向を持つようになったのは、中国古典文学が原因だったのか、と。
これが、どういうことかわかりますか?
権力者のそばにいると悲惨な死にざまをむかえる、というのが中国古典の教訓
『項羽と劉邦』などは、天下人を争う戦国時代のドラマですが、読むと権力闘争に負けた人は、石川五右衛門のように釜茹でにされて刑死するなど、とてつもなく悲惨な死に方をしています。
皇帝の意に逆らったものや、ちょっとでも気に食わない姿勢を見せたもの、生意気な口をきくものなども、だいたい同じような運命をたどっています。人間、やがては死ななければならないとしても、こんな死に方だけはごめんだ、というような死に方をするのがお約束のようになっているのです。自分で掘った立て杭に生き埋めにされるとか。とにかく悲惨な死に方をしています。自分だけでなく一族郎党皆殺しのめにもあっています。
そういうのを見て、だれが権力者のそばに近づこうと思うでしょうか。私が「出世しない方がいい。隠れて生きよう」と考えたのはこれが原因だったのだとわかりました。中国の歴史、中国古典文学の人々の残虐な拷問死が、私が隠れて生きようというスタンスになった真の原因だったのです。
大人になってから読み返しても同じように感じました。
「ああ。馬鹿だな。百姓のままでいればよかったのに。なまじ項羽なんかに近づいたばっかりに、そんなふうに死ななきゃならない運命を自分の手で引き寄せてしまったんだな。ああ、いやだ。世に隠れて生きたほうがいい。権力者のそばにいるとろくなことがない。
と、心の底から思います。同じように若い頃に感じたことが、私の隠遁主義、出世否定の根本原因だったようです。
隠遁主義、出世否定は同じ中国文学の老子の思想のようですが、老子の影響ではなく、三国志や項羽と劉邦の影響でした。アニメ『キングダム』の世界も似たようなものでしょう。始皇帝の法治主義をけん引した功臣の李斯なんかも拷問して殺されます。軍事の天才で最高の功労者である韓信でさえハメられて殺されてしまいます。
なんか……出世するとろくなことはない。若い魂がそう思ったとしても、なんら不思議はありません。
三国志の最高の頭脳である諸葛亮孔明なんかは、はじめは草の庵に隠れて、世に出るつもりはありませんでした。劉備玄徳に仕えるときも、三顧の礼のエピソードでわかるように、つかえる相手の人柄を何度も確かめたうえで仕えています。これはやっぱり孔明が「世に出るとろくな結果にはならない。隠れて生きよう」と思っていたあかしでしょう。
私も若い頃、職場で、組織の最高権力者のそばに配属になったことがありました。その時、私は「ヤバい。なるべく目立たず、いっこくも早くここから離れよう」と本能的に思ったのでした。なんでそう思ったのか? そのときはわかりませんでしたが、その理由が『項羽と劉邦』を読み直してよくわかりました。おそらく中国古典文学の影響だったのでしょう。
『項羽と劉邦』の登場人物は、私とは逆に、できるだけ最高権力者の項羽や劉邦に近づこうとします。そして地位を得ようとします。しかし結局は権力者の気まぐれに翻弄されて、釜茹でにされてたり拷問されて死ぬのが、ほとんどお約束のようになっています。
生き延びられるのはほんのわずか。斬首なんかはまだいいほうです。熱湯や油で煮られる描写がふつうに登場します。ああ、権力者のそばにいたばかりに、悲惨な死に方しちゃって。そんなふうに死ぬぐらいなら無名の百姓やってたほうがよかっただろうに。
私は心からそう思ったのでした。私が権力者のそばを嫌がり、出世を嫌がり、隠遁を望んだのは、老荘思想の道(DAO)がそうだからではなく、武将ものの古典文学であまりにも多くの人々が悲惨な拷問死をしているからなんだなア、と思ったのでした。
たとえば現在の北朝鮮で、キムジョンウンのそばに仕えたいと思いますか? いくら地位をあたえられたって、私だったら絶対に嫌ですね。だって最高権力者の気まぐれで、いつ刑死するかわからないじゃないですか?
どうせこの人生意味なんてないのに、なんでわざわざ苦労して拷問死するような場所に行きたいんだか。お客様という権力を行使して、楽しく生きられるのに、わざわざそんな危険な場所に行きたいわけがありません。
あ。でも、初老になって日本社会を振り返ると、現代日本では拷問なんかされませんね。せいぜい左遷ぐらいで。あるいは権力者のそばにいたら、女子アナウンサーがセックス接待ぐらいしてくれたのかもしれませんね(笑)。
司馬遼太郎『項羽と劉邦』の魅力、書評
流民のめざすところは理想でも思想でもなく食であった。英雄は流民に食を保証することによって成立し、食を保証できないものは流民に殺されるか、逃亡せざるを得ない。百人程度しか食わせられない親分は、千人を食わせる親分を見つけ、千人規模の親分は万人の頭のもとに合流する。流民の食を保証しうるものが大英雄として扱われ、王として推戴されたりする。
なぜ百姓はおれのところにものを教わりに来ないのか? 多数の人間を惹きつけるという要素にまったく欠けていた。わしにまかせておけ、というたぐいの粗雑なほらが召平には吹けなかった。
体面のためにときに人を殺し、敵に奔り、場合によっては自刎もするというこの大陸の習慣のなかにあって、項羽は無神経すぎるといえるかもしれない。
王を奉ずるということは尊厳の演出であり、礼は簡素であってはならない。百官をつくらねば朝廷の儀式ができない。儀式がなければ朝廷ではない。儀式の基本は序列である。王の前で並ぶのに尊卑の順がある。
項羽は184センチという躯幹をもっていた。
かれは大族を食わせてゆかなければならなかった。それを食わせることから物事を考えざるをえなかった。流浪の頃の宗義はよく物事が見えた。しかし私情でくらみ始めている。
王がえらいのではない。王を偉く見せている儀礼に、おれまでがつい身をかがめてしまわざるをえないというだけのことだ。
項羽の行動は短剣のように直截であった。その頭上に重い刀が降り落ちた。
誰が宦官を尊敬するであろう。趙高は人々から心服されることを望むほど人間を愛してもおらず、信じてもいなかった。面従でよかった。面従させ続ければ心服を得るのとすこしも変わらない。
大虐殺。項羽はその人格のおもしろさのわりには、大兵力を維持するということでの吸引力において欠けはじめる。
章邯。往年の気迫がなくなり、体ばかり太って、顔も水死人のように丸く膨れた。
こいつがおとなしくこの里の中で百姓をして生涯を送るやつかどうか。せめてこの紀信が何者であるかを世間のやつらに現わしてみたい。
ひとびとに信じられなくなれば、劉邦のように能も門地もない男はもとの塵芥にもどらざるをえない。信が、めしを食わせてくれる。なんとか人が集まり、人がたすけてくれた。
韓信は兵法を知らない。と、口々に笑い、大笑した。韓信が買いたかったのはこの嘲笑であった。
彭越の肉は塩漬けにされ、ハムのように切り刻まれて、諸侯に漏れなく贈られた。
※この人も権力に近づいて不幸な死をむかえました。韓非子です。