ミヒャエル・エンデ『はてしない物語』ネバーエンディングストーリー

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ここではミヒャエル・エンデ『はてしない物語』について書いています。

映画『ネバーエンディングストーリー』として有名ですね。主題歌も有名ですね。

わたしも映画を先に観ています。

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映画で描かれているのは原作の前半部分のみ

物語は前半と後半に分かれています。前半はほぼ映画と同じストーリーで進行します。

映画(前半)のオチは、幸いの竜ラッキードラゴンが現実世界に現れて、いじめっこを撃退するというものでした。

現実世界でいじめられっ子だった読書少年バスチアンが、本の中の世界で大冒険を経験して、現実世界でも強くなったということを象徴的に表現したシーンかもしれません。

映画として2時間以下に物語を収めるためには、うまい終わらせ方だったと思います。

ところが映画で描かれているのは、原作の前半部分のみに過ぎません。

原作小説『はてしない物語』では、バスチアンが実際に本の中に入ってしまうのです。本の中の登場人物になってしまうのです。

ちょうど本の中の人物が外の世界に出てくる『ソフィーの世界』と逆パターンですね。

はてしない物語が1979年刊行。ソフィーの世界が1991年刊なので後発です。影響されているのかもしれませんね。

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作者は空想の中で帝王のように振舞うことができる

作家が小説世界に対して神のように全能であるように、もともと本の外で人間だったバスチアンは自分のファンタジーの中で全能の帝王として物語世界に君臨します。

思ったことは、おさな心の君にもらったアウリンの力で、なんでもかなえることができます。

しかしファンタジー世界で力をひとつ振るうたびに、現実世界のことをひとつ忘れていきます。バスチアンはどんどん現実の人間から、ただの登場人物に近づいていくのです。

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読書少年=今でいう「オタク」

これまでもそのような人は存在しました。今でいう「オタク」です。本の世界に没頭して、現実の世界に出てこなくなってしまう人です。

自分のファンタジーの中で帝王のように振る舞い、それが心地よくて、はじめは帰りたくなかっただけでしたが、ついには現実世界に帰れなくなってしまいました。

現在、ゲームなどでも同じことが起こっています。空想の世界に没頭して現実世界で生きられなくなるオタクは、今でも存在しています。

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ファンタジーに没頭して現実に生きることを忘れた人たち

ファンタジーに没頭して現実に生きることを忘れた人たちは、ひとつひとつ現実世界の記憶を失っていきました。やがては自分の名前さえも。

現実世界の記憶を完全になくすと、人間ではなくなってしまいます。するともはや全能の帝王ではなくなって、ただの物語の人物になってしまうのです。

そういう元人間だった人たちが、物語世界から抜け出せなくなったのを見て、バスチアンは元の世界に戻ろうと考えます。

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欠点を含めてあるがままで愛されたい

英雄や帝王になろうとするのではなく、ただのバスチアンとして、なんとか「おさな心の君」に会おうとします。

そして無敵の剣を封印するのです。ほかのみなと同じ人間ではなく、個性ある一個の個人でありたいと彼は願いました。

バスチアンがバスチアンだからこそ愛してくれる、そんな認められ方がしたかったのです。偉大とか強いとか賢いとかではなく、欠点を含めてあるがままで愛されたいと思いました。

しかし、そのあるがままの自分を、物語世界で力をつかいすぎて、バスティーユは失くしてしまいました。もはや自分の名前さえ忘れてしまったのです。

そういう空想世界から抜け出せなくなる手前だった絶望的な状況からバスチアンを救ってくれたのは、友情が決裂したかにみえたアトレーユでした。映画では美少年が演じていたあのアトレーユです。

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本の読み方を教えてくれる本

『はてしない物語』は、本の読み方を教えてくれる本だと読むこともできます。

人間がファンタージェンに来なくなってしまった、というのは本を読む人が減ってしまったことの暗示だと読むことができます。

読書オタクのバスチアンだけがファンタジーの世界に行くことができて、おさな心の君に名前をつけることができて、物語世界でイマジネーションを発揮できる能力をもっていました。

おさな心の君がファンタージェンの女王だというのも象徴的です。おさな心がなければイマジネーションの冒険を楽しむことはできません。

読書家、空想家が、自分の真の意志に気づくまでは、物語の中で何でもできました。

いじめられっ子だったバスチアンは自分とは違う別のものになりたいと思っていましたが、自分を変えようとは思っていませんでした。

しかし元帝王の空想家の末路を見て、アトレーユに助けられて、バスチアンはもうほかのものになりたいとは思わなくなりました。

あるがままの自分で愛されたい。愛することができるというよろこびがあれば、ファンタジー世界の神である必要はもうありません。

生命の水の湧き出る泉を見つければ、現実世界に帰ることができます。

アトレーユと幸いの竜フッフールの力を借りて、バスチアンはそれを見つけます。

「愛することができるというよろこび」をたずさえて、バスチアンは現実世界に戻ってきます。

夜型読書。ベッド読書法。ヘッドライト読書。同時並行読書術

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本というものは、読む人次第

現実世界に戻ったバスチアンは、それ以前とは何かが変わっていました。

おとなになっていたのです。なにせファンタージェンでは英雄だったのです。ファンタージェンでの冒険にくらべたら現実世界の困難などたいしたことではありません。

本屋から盗んだと思っていた本『はてしない物語』。しかしそんなものはありませんでした。バスチアンの心の中の本だったのです。この瞬間も誰かがその本を読んでいます。

本屋の主人もファンタージェンに行ったことがあり、おさな心の君に名前をさしあげた一人でした。本屋の壁の本を目で追いながら、ファンタージェンの入り口はいくらもある、とバスチアンに教えます。

本というものは、読む人次第です。

絶対にファンタージェンにいけない人間もいます。ファンタージェンに行ったきりになってしまう人間もいます。でもファンタージェンに行ってまた戻ってくる者もいます。バスチアンは戻ってきました。

バスチアンは、ファンタージェンへの道をこれから何人もの人に教えるでしょう。そうすればその人たちが現実世界に命の水を持ってきてくれます。

さあ、これからは何もかも変わるぞ。

けれどもそれは別の物語です。いつかまた、別のときにはなすことにしましょう。

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「読書が先、現実世界が後」ではなく「リアルワールドが先、読書が後」

小説『はてしない物語』は、読書との付き合い方、どうやって読書から得たものを現実世界で生かしていったらいいのか、それを教えてくれているような気がします。

文学オタクへの教訓というふうにも読めます。

読書オタクの少年バスチアンは、本の世界で様々な経験を積んだことで、現実世界でも勇敢に行動できる大人に成長しました。

読書はこのように利用しないさい、と作者ミヒャエル・エンデが言っているようにも聞こえます。

私もむかしはそう思っていました。読書っていうのはそういうものなんだろうな、と。

でも世界を冒険すること。自分の女を手に入れること。いくら本を読んでも手に入れることはできませんでした。

私の場合は『はてしない物語』とは逆でした。先に「世界、現実という本」を読むことにしたのです。

リアルワールドで経験を積み、それなりに経験値を積み、自分というものが確立しました。今は現実で培った経験値で、本を読んでいます。

バスチアンとは逆の生き方をしたのですが、こっちの生き方で正解だったと思っています。

強いから女にモテるわけではありません。賢いから世界を冒険できるわけではありません。

女性を誘うからモテるのです。勇気を出して世界に飛び込むから冒険できるのです。

求めるから、それができるのです。

「読書が先、現実世界が後」ではなく「リアルワールドが先、読書が後」という生き方を、わたしだったらおすすめします。

本に書いてあることが正しいのか判断できるのは「自分」が確立しているからです。

本を「間違っている」と批判することができるのも、リアルワールドが先で、自分の中に「正しい指針」「センス」ができたからこそなのです。

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