サロン・社交界って何だ? 前時代の風俗の解説
マルセル・プルーストの『失われた時を求めて』を読んでいます。ギネス級の大長編小説なので、内容・書評、感想をまとめるのはまだ先になりますが、ひとことでいうと『フランス上流階級の社交界の小説』ですね。この社交界というのはサロンと呼ばれることもあります。上流階級もしくはお金持ちが自宅でパーティーをひらくのですが、これをサロンと呼んでいました。
これまでに読んだ最長の本は何ですか? 読書はマラソンに似ている。
サロンって何だ? 社交界って何だ?
貴族やお金持ちが客間を解放して、そこが談話室となりました。それがサロンです。ホストの友だちが呼ばれたのがはじまりですが、定期的に行われたため、会員制メンバーシップのような状態となりました。文学サロン、絵画サロン、時事サロン、科学サロンなど傾向のはっきりとした嗜好性サロンもありました。大邸宅の客間の持ち主がホスト、招待客がゲストです。家のオーナーである旦那様は本業の仕事で忙しかったため、どちらかといえば有閑夫人がホストにまわることが多かったのでした。
社交界、サロンに出入りしたかった理由
だからみんな必死になってサロンのメンバーになろうとしました。世に出られるかどうかはサロンのメンバーになれるかどうかにかかっていたといっても過言ではありません。だからサロンのことを社交界と呼ぶのです。サロンに入るには主催者の招待状が必要です。そのために誰かの紹介が必要なので誰かに取り入ろうと媚を売ったり必死です。むかし『mixi』ミクシィというSNSが誰かの紹介がないと入会できませんでした。いちげんさんお断りシステムです。もしかしたらサロンの制度から、それを思いついたのかもしれません。現在はインスタグラムなど他のSNSにシェアを奪われて「いちげんさんお断り」なんて言ってられなくなって誰でも入れるようですが。
ところでなんでこうまでして当時の人たちは社交界に入りたかったのでしょうか。
まだ若い人はわからないと思いますが、世の中は実力とか才能とかよりも、人間関係ででき上がっています。ある地位につくことができるのは、実力とか才能がある人ではなくて、その地位の関係者と人間関係のある人物なのです。サロンメンバーは有力者ばかりなので、人間関係を構築するために、どうしてもサロンに入る必要があったのでしょう。
マルセル・プルーストの時代。一人で楽しめることは極端に少なかった。
地位につくにも、仕事をもらうにも、まずは人間関係でした。だからサロン・社交界の顔役であることは重要なことだったのです。
でもそれは男性の場合。それでは女性の社交熱の説明がつきません。社会的地位につくつもりのない女性だって、社交界でデビューできたかどうかは人生の一大事だったようです。これはなぜでしょうか?
私は思うのですが、おそらく1900年ごろのマルセル・プルーストの時代には、社交ぐらいしか楽しみがなかったのではないかと思います。実際、社交がないと、読書ぐらいしか楽しめるものはなかったのではないでしょうか。やっと自転車が登場したころの話しです。映画もなく、テレビもなく、自宅で音楽を聞くこともできず、インターネットもなく、SNSで自分をアピールすることもできず、世界の人とメールしあうこともできず、動画サブスクもなかった時代です。一人で楽しめることは極端に少なかったのです。
だから人生を楽しむためには、どうしても社交界にデビューする必要があったのです。
社交界、サロンの楽しみは、噂話、人物評、悪口
当時のサロンではホストに招待された限られたメンバーの(上流社会的な)生き方の追求、人間関係のこと、性格批判、心理分析、お芝居の内容などがおもな話題でした。ケンカになるので宗教や政治のことは話題から避けられていたようです。
地位がなければこの楽しい場所に出入りできませんでした。生まれついての貴族は資格じゅうぶんですが、成金庶民も必死にこのパーティー文化をマネしたのです。人生を楽しみたいですからね。しかし背伸びしてそのように貴族ぶることをスノッブといいます。
人生を充実させて、今を最大限楽しみたい。これは古今東西誰しもの願いです。今の私たちも20世紀初頭のフランス人も同じですが、その充実させ方は別でした。
たとえばうだるような暑い夏、今の私たちはエアコンのスイッチひとつで悩みを解消できますが、当時の人たちは避暑地に行く必要がありました。エアコンなんてなかったからです。電灯がやっと普及し始めたぐらいですから。
そういう時代の価値感は今とは別ものでした。今は映画もゲームもなんでもあります。昔の貴族よりも、ただの庶民がいい暮らしをして、いいものを食べています。他人の噂話や人物批判よりも面白いことがたくさんあります。パソコン、ネット上で世界中の誰ともつながれます。
おもしろいことがたいていひとりでできるようになりました。エアコンのきいた自宅で世界のお酒を飲みながらサブスクで映画見放題するのも、インターネットで対戦ゲームをするのも、地位なんかいりませんし、誰かの紹介状もいりません。大金持ちである必要もありません。いるのはやる気、情熱だけでしょう。
1900年当時は音楽も生演奏のみでした。それが今では音楽サブスクやYouTubeで世界中の音楽を好きなだけくりかえし聞くことができます。こう考えると、もう誰も媚を売ってまでサロンに入ろうとは思いません。そんなことをしなくてもじゅうぶんに人生を楽しむことができるからです。他人の噂話よりも面白いことを私たち現代の庶民は手に入れました。だからサロン文化は廃れたのです。
しいて現代でサロンと似たようなものを探すとすれば「テレビタレントになりたい人たち」がそれに似ているかもしれません。テレビ界という社交界の会員制メンバーシップになりたい人は現代にもいるでしょう。その人たちにはどうしてもサロンに入りたい人の気持ちがわかるかもしれません。
プルーストの時代の後に、第二次世界大戦があります。国家総力戦と帝国主義の崩壊は貴族と庶民の違いをなくしました。その後、世界各国の植民地は独立して、人々は昔よりもずっと平等になりました。
『失われた時を求めて』でマルセル・プルーストが描いているのは階級社会の社交サロンです。その時代にくらべて、人々は平等になったんだなあ、と思いながら100年前の小説を読んでいます。