推しのコンサートにのれない男。歌手のリサイタルに冷めてしまう、夢中になれない理由
いい齢(五十代)して、推しのコンサートを見に行くことに熱狂している人を知っている。

「推し」がいるだけ心が若いよね

いや。アホなんじゃない? 十代、二十代ならまだしも五十代でしょ?

そういえば、私たち、歌手のコンサートとかまったく行かないわね

だってアホみたいにノれないんだもの。どっちかというと冷めちゃうの、おれ。
なぜ私は歌手のコンサートで熱狂することができないのか?

なぜハルトは歌手のコンサートで熱狂することができないの? 没頭感を味わうことができれば楽しいのに。

なんというか……もういい齢なんだからさ、他人に熱狂するのはやめて、自分に熱中すればいいじゃないか。

みんな自分に熱中したうえで、元気や勇気を推しにもらいに行くんじゃない?

五十代にもなって、年下の歌手に勇気や元気を与えてもらわなきゃならないのか。そんな人生でいいのかな。

単純に音楽が好きなだけかもしれないよ。
ハルトも音楽大好きじゃない?

たしかにノーミュージック、ノーランニングのおれだから、毎日ランニングをしながら音楽を聴いているよ。
曲に合わせてステップを刻むわけだから、これは一種のダンスみたいなものなのかもね。この快楽にくらべると、ただコンサートで乗るだけというのは面白くないんだ。費用対効果があわないよ。無料で好きな音楽聞きながら走った方がいい。
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雑誌『ランナーズ』のライターが語るマラソンの新メソッド。ランニングフォームをつくるための脳内イメージ・言葉によって速く走れるようになるという新メソッドを本書では提唱しています。
(本文より)
【入力ワード】写真からランニングフォームを学ぼうとする人が多いので注意喚起したいと思います。写真からフォームを学ぶのはお勧めできません。写真というのは瞬間を切り取ったものなので、間違った解釈をする可能性があるからです。「振り上げた脚」(往路)なのか「戻ってきた脚」(復路)なのか、写真ではわかりません。大地を蹴ったように見えている脚が本当に大地を蹴っているのか、大地を蹴ったように見えているだけなのか、写真からはよくわからないからです。写真で振り上げた膝の高さを見て「ふむふむ、膝はここまで上げるのか」と思い込んでマネするのもよくありません。慣性の法則で結果として脚がそこまで上がっているだけで、実際のランナーの意識としてはそこまで上げようとしていないかもしれません。「結果としてのフォーム」と「ランナー本人の走るときのフォーム意識(入力ワード)」は、必ずしも同じではないのです。
【腹圧をかける走法】そもそも息をするのは、酸素を吸うためです。吐くことよりも、吸うことに意識をおくほうが自然な発想です。肺の中に残っている空気(残気量)は、どうせゼロにはできないのです。吐き切るという努力は、動かない壁を押すような無駄な努力です。そこに力を割くべきではありません。持ち上がらないバーベルを無理やり持ち上げようと喘ぐと、余計に息が苦しくなってしまいます。楽に息するのとは真逆のことです。それよりも思いっきり吸うことです。そのための走法が腹圧をかける走法です。肺を絞って痩せた人のように走るのではなく、腹はたるんたるんと力を抜いてだらしなく腹が太った人のように走ります。そもそも重力は下向きなのだから、横隔膜を下げることは理にかなったことです。それに対して、吐き切ることを意識すると、重力に逆らって横隔膜を持ち上げながら肺を絞らなければなりません。どちらが楽にできると思いますか?
【ストライド走法】ピッチ走法には大問題があります。実は、苦しくなった時、ピッチを維持する最も効果的な方法はストライドを狭めることです。高速ピッチを刻むというのは、時としてストライドを犠牲にして成立しているのです。
【踵落としを効果的に決める走法】私はカラテ素人ですが、サブスリーランナーとして、すくなくとも「踵落とし」を無力化する方法をすぐに思いつくことができます。答えはカンタン。攻撃側が踵を振り上げて止まったポイント(これを上死点といいます)に、自ら打撃ポイント(脳天など)を近づけていくことです。上死点では運動エネルギーがゼロになっているために、破壊力もゼロです。上死点から距離をとらないことで「踵落とし」というキックを無力化できます。
ストライドを稼ぎたいあまりに、未熟ランナーほど振り出した前足が最も伸びきったところで着地してしまうのです。つまり「膝が伸びきったまま」「踵から着地」してしまうのです。これは「踵落とし」の運動エネルギーがゼロになっている上死点で着地してしまっているのと同じことです。これでは速く走ることはできません。
言葉のもつイメージ喚起力で、フォームが効率化・最適化して速く走れるようになる新理論の書。言葉による走法革命。とくに走法が未熟な市民ランナーであればあるほど効果的です。本書はあなたのランニングを進化させ、市民ランナーの三冠・グランドスラム(マラソン・サブスリー。100km・サブテン。富士登山競争のサミッター)を達成するのをサポートします。
●「動的バランス走法」「ヘルメスの靴」「アトムのジェット走法」「かかと落としを効果的に決める走法」「ハサミは両方に開かれる走法」「腹圧をかける走法」
●マラソンの極意「複数のフォームを使い回せ」
●究極の走り方「あなたの走り方は、あなたの肉体に聞け」
●【肉体宣言】生きていることのよろこびは身体をつかうことにこそある。
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オタ芸サイリウム(ペンライト)ダンス

身体を動かした方が快楽だというのはわかる気がするわ。
サイリウム(ペンライト)を振り回して、音楽にあわせてダンスを踊ったら(笑)?

ヲタ芸ダンスな。あそこまで振り切れたら楽しいかもしれん。
作り手になると、創作物を昔ほど純粋に楽しめない
自分がどうして好きな歌手のコンサートに行こうとも思わないのか検証してみました。
「自分の人生が充実しているから推しから元気や勇気をあたえてもらう必要が全くない」とか「すでに音楽はランニングしながら楽しんでいるからわざわざコンサートに行く必要がない」とか、まあいろいろな理由が考えられます。
しかし最大の理由は、もはや自分が受け手ではなく送り手の側にいるからではないかと思います。
作り手になると、創作物を昔ほど純粋に楽しめないのです。アーティストの表現の意図、テクニックが見えてしまうのです。歌詞のテクニックが見えるし、コンサートの演出の意図などがわかってしまうのです。
すると、没入して熱狂するというよりは、勉強しに行っているようです。

私はすでに表現者であって、受け取り手ではないため、大人のつくったコンサートに我を忘れて熱狂することができないのです。
だってそれは演出されたショーだから。
この境地になると、推しのコンサートだけでなく、映画や芝居でも同じことになります。
熱狂できるものがひとつふたつと減ってしまうのですが、それが学んだ、成長したということなのでしょう。仕方ないかな、と思っています。
すこし残念な気もしますけどね。いつまでも初恋の気持ちをあじわえたらいいのにね。
でも私はそれを乗り越えようと決めたのです。プロの漁師が魚が釣れたぐらいで大騒ぎしないようなものです。マラソンを完走したぐらいでいちいち「成し遂げた」なんて思わなくなるようなものです。
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(本文より)
カプチーノを淹れよう。きみが待っているから。
カプチーノを淹れよう。明るい陽差しの中、きみが微笑むから。
ぼくの人生のスケッチは、まだ未完成だけど。
裏の畑の麦の穂は、まだまだ蒼いままだけど。
大地に立っているこの存在を、実感していたいんだ。
カプチーノを淹れよう。きみとぼくのために。
カプチーノを淹れよう。きみの巻き毛の黒髪が四月の風に揺れるから。
「条件は変えられるけど、人は変えられない。また再び誰かを好きになるかも知れないけれど、同じ人ではないわけだよね。
前の人の短所を次の人の長所で埋めたって、前の人の長所を次の人はきっと持ちあわせてはいない。結局は違う場所に歪みがでてきて食い違う。だから人はかけがえがないんだ」
金色の波をすべるあなたは、まるで海に浮かぶ星のよう。
夕日を背に浴び、きれいな軌跡をえがいて還ってくるの。
夢みるように何度も何度も、波を泳いでわたしのもとへ。
あの北の寒い漁港で、彼はいつも思っていた。この不幸な家族に立脚して人生を切り開いてゆくのではなくて、自分という素材としてのベストな幸福を掴もう、と――だけど、そういうものから切り離された自分なんてものはありえないのだ。そのことが痛いほどよくわかった。
あの人がいたからおれがいたのだ。それを否定することはできない。
人はそんなに違っているわけじゃない。誰もが似たりよったりだ。それなのに人はかけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。
むしろ、こういうべきだった。
その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と。
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