フランシスコ・ザビエルはミイラになっている
イロハ「マレーシアの世界遺産の街マラッカには、日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルの像があったね。うわっ。右手が欠けちゃってる」
ダイ「偶然かもしれないけれど、象徴的な像だね。実はザビエルの遺体はミイラになっていて今も見ることができるんだ」
ハルト「ウソ。ぜひ見てみたい。どこにあるの?」
ダイ「カトリックの聖人だから、お釈迦様の遺骨(仏舎利)が世界中のパゴダに安置されているように世界中に散らばっているんだけど、主にボディはインドのゴアに、右腕はイタリアのジェズ教会に安置されているよ」
イロハ「右手だけ体とは別に? だから右手がない像を象徴的って言ったのね」
ダイ「こんな感じで展示されてるんだよ」
ハルト「うわっ。THE DISCOVERY OF THE BODY(人体の不思議展)だ。マラッカでもやっていたね」
イロハ「ラスベガスでも見たから二度目だね」
ハルト「おれは横浜でも見たから三度目だよ。死や、人間とは何かを考えさせられる特別な展示なんだが、もう日本では見られないんだよな」
BODY WORLD『THE DISCOVERY OF THE BODY(人体の不思議展)』
BODY WORLD『THE DISCOVERY OF THE BODY(人体の不思議展)』というものを、皆さんは見たことがありますか。動物(人間)の遺体に含まれる水分と脂肪分をプラスチックなどの合成樹脂に置きかえることで腐敗しない状態で標本化・展示しているものです。(プラスティネーション)
かつては日本でも見られましたが、今ではもう見ることはできません。というのはこの展示そのものが亡くなった人たちを冒とくしているとして倫理が問題にされたからです。
聖フランシスコ・ザビエルの右手が神の手のように安置されているのとは、わけがちがいます。
このような形で展示されているのです(会場入り口の広告写真です)。
イロハ「ハルトは夢中になって見ていたよね」
本当は写真もたくさん持っているのですが、アップするのは控えておきます。
マラソンは肉体の物理学、栄養学
ハルト「マラソンっていうのは、肉体をどうすれば効率的にフィニッシュラインまで移動させることができるかっていう物理学なんだ。その物理学を達成する動力は筋肉繊維であり、エネルギーに関する知識は栄養学なんだよ。オレは肉体のことに関してはドシロウトではないんだ」
イロハ「ときどき医療関係者と間違われることあるよね。あまりにも詳しく専門的な話をするから。豚肉のヒレを腸腰筋っていうのはやめてほしいわ」
ハルト「東南アジアで必ずやる(主にタイ式)マッサージも、筋肉のスジを意識しながら施術してもらっているんだ。アキレス腱から下腿三頭筋に沿ったリンパの流れを、、、」
イロハ「筋肉フェチすぎて意味がわかんない。」
ハルト「いつも絵で学んでいた脚の筋肉繊維を直接見られて興奮しちゃった」
イロハ「あっ。この人、ラスベガスでも会った人だ」
ハルト「会った人って。。。死体ですけど?」
テーマは「関係性の死」も含めた『死』
イロハが言うのは、同じ展示物(遺体といえば遺体です)をラスベガスとマラッカの両方で見たという意味です。
昔、エジプトのラムセス二世のミイラがフランスに移送された時、生きている王のように儀仗兵が捧げ銃をして国王への礼をもって迎えたとか——パスポートも支給され、職業の欄には「ファラオ」と記入されてあったそうです。私はこういう話しが大好きです。
そういう意味では「人体の不思議展」の展示物も、世界中を旅をしているようなものです。しかし……
ハルト「あんな姿になって世界中を旅しているのか。微妙だな。この展示に猛反対の人の気持ちがわからんでもない」
イロハ「そういえば上海自然博物館にも同じ趣旨の展示があったね」
ハルト「これは鹿の縦割りだね。自然死した動物のプラスティネーション展示ならば、本質的には剥製と何ら変わりはないから日本でも許されるかもしれないね」
イロハ「これを人間でやっちゃうから問題になるんだよ」
ハルト「まあ展示方法はともかく、死について考えさせられたことは確かだね。人間、どれだけ目をそらしても死は避けて通れないんだよ。死については、向き合わざるを得ない。死だけは笑ってごまかすわけにはいかないんだ。こういうものに若いうちから触れておくことは、教育的効果があるんだけどなあ」
放浪は、この素晴らしい世界にお別れをするための巡礼
本ブログ『ドラクエ的な人生』の裏テーマは「関係性の死」も含めた『死』です。
なぜ放浪し、なぜ走るのか。
放浪は、地球というこの素晴らしい世界にお別れをするための巡礼。走ることはこの世界に汗をしたたらせて確かに自分が生きたことを実感するための手段でもあります。
二度と戻ってこられないこの場所に、生きた証を刻みつけるための。