『エグザイルス・ギャング』の書評・魅力・あらすじ・解説・考察
前作『エグザイルス』で自伝を語り終えたロバート・ハリスが、放浪の旅の途中で出会ったおもしろい仲間たちについて書いているのが本作『エグザイルス・ギャング』です。
いくら仲間のことを描いているといっても当然ロバート・ハリス本人が等分に登場します。そもそも本人だけのエピソードなんておもしろいはずもなく、常に誰かと一緒に物語は展開されるわけで、その誰かを描くことは、とりもなおさず本人を描くことと同じです。
黄色は本書から。赤字はわたしの感想です。
エグザイルとは?
エグザイルとは、我が道を行くもの。一人ひとりが反骨精神に支えられた独自のスタイルを持っている。楽しく生きることが彼らの存在のスタンスだ。貧乏かもしれないが、自分の王国の領主のように生きている。彼らこそ僕に一番の快楽と喜びをあたえてくれる。地球が暗い宇宙の中の孤独な球体なら、そんな仲間たちがいる場所が光り輝いて見える。
社会の枠のぎりぎりのところで自分のスタイルをもって生きている連中。自分のスタイルや遊び心だけは失わないでいよう。いつもオープンで好奇心旺盛でいよう。
日本でエグザイルといえば男性ダンス歌手集団が有名ですが、ロバート・ハリスの方がはるか昔からこの言葉を使っています。ワンダラーとかボイジャーとかエクスプローラーとか似たような言葉がたくさんある中で、エグザイルを選んだのはロバート・ハリスの嗅覚、言葉に対するセンスに他ならないと思います。
セクシャル・アウトロー
欲情するどころか、焦りしか感じていない。全然立たないのだ。
セックスに変態も正常もないわよ。あるのはセクシャリティーだけ。
奴隷になっていたなんて言えるはずがなかった。
ロバート・ハリスは本書で自分がドМであることを公表しています。オープンなハートでいようという信念からのことだと思います。ふつうは隠しておきたいことですが、これまで多くの心の葛藤を向き合うことさらけ出すことで乗り越えてきたので、ここでも同じスタンスをとったのでしょう。
ロバート・ハリス『ワイルド・アット・ハート』の魅力・あらすじ・解説・考察
バックストリートのならず者たち
スーツ姿のその男(自分)も、疲れた顔をしていた。そろそろ潮時だな、と思った。
世界を放浪して、自由気ままに、好きなことをやって生きる、そんな夢を持ったドロップアウトにとって、この生活はミドルクラス過ぎた。
遊び人、パンク、チンピラ、ジャンキー、アル中、娼婦、ドラッグディーラー。ライフスタイル、人間関係、セックス、ドラッグ、ファッションの実験室のようなところだった。
「あんた、この音楽わかるの?」「いやあ、さっぱり」
ヒサオは悟りを開く寸前にやってくる闇に迷う坊さんのような男だった。
おもしろい仲間をたくさん作って存分に遊ぶ。
オープン・リレーションシップ。ヘンリー・ミラーの話しは五分で切り上げ彼女と寝てしまった。
満ち足りた時間をひとりひとりと過ごした。ぼくにできなかったことはただひとつ、一対一の関係を持つということだった。彼女は二人きりの生活を望んだが、僕はどうしてもその気になれなかった。独りでいる時間、友だちと過ごす時間を堅持した。彼女は僕が彼女といない時間を嫉妬した。最後には病的に近い状態になった。重たい空気の中で、息ができない状態になった。
半年ほど働いて飽きると旅に出る。その繰り返しの人生。人生はわからないところで始まりわからないところで終わる。その中でどれだけ暴れまわれるか、それが勝負なんだ。
人間なんてみんなどこかいかれてるんだもの。毎日が楽しくて充実していれば、それでいいのよ。
あまりにも住んでいる世界が違いすぎるのだ。話しに興味がもてない。まるで南極のペンギンの話しを聞いているような感覚なのだ。これじゃアリとキリギリスが現状報告しあっているようなものだ。話しが盛り上がるはずがない。
昔のクラスメートと話しをするシーンです。同窓生との再会は昔の級友や先生の話しで盛り上がり懐かしくなるのが通例ですが、ロバートは「南極のペンギンの話しを聞いているようだ」と隔世の感をいだきます。おもしろいと思いませんか?
型にはめられて、飼い殺しになんかなるものか。制度に向かって舌を出す遊び心が昔はあった。昔の友だちを期待していたのに、彼はそこにはいなかった。いたのは日本のサラリーマンの親父だった。
人生は頑張りじゃないの。遊びなの。風のような人だった。
ジャパニーズ・アウトサイダー
せっかく生まれたんだから思いきり暴れて楽しんじゃえ。という生きることに対する姿勢。
レールから脱線する絶好のチャンスだと思った。ファーストネームで呼び合う対等な友人だった。年功序列も上下関係もドロップアウトには無用だ。
新しいものの見かたや選択肢に目覚めた。俺たちを結び付けているのは遊び心以外の何ものでもない。
失恋のかなしさと旅人の精悍さを秘めた大人の顔に変わっていた。
金がなくてもリッチな生活を楽しむことができるんだ。
孤独との闘い。世界が灰色に見えて、何もやる気がしないんだ。
遊びこそ、僕たちにとって一番重要な課題なのだ。
どうしてレールから脱線したかったのか。それは「働かされたくなかったから」だろうと思います。けっして「働きたくなかったから」ではなく。
こういう人たちは自分の好きなことなら働けるのです。なぜならそれはもう労働ではなく夢をかなえるためであり人生の要素のようなものになるからです。
そして「遊び」。「働きたくないだけ」では逃避でしかありません。人間には自ら向かっていくものが必要です。それは「遊び」でした。「労働」とは正反対のものです。
だからドロップアウトしたかったのです。
ダイスをころがせ!
伝説的な遊び人。金をかけてやる博打。技術だけじゃなく運の要素がからんでくる。だから、たまに勝てる。いつかは勝てる、という気持ちになってしまうのだ。
仕事をとるか、目の前の快楽をとるか。仕事をするぐらいなら餓死したほうがいいというやつはいくらでもいた。
浮き輪レンタルのサイドビジネスは可愛い子に会うため、金はバックギャモンで稼いでいる。マリワナのディーラーをやっていた。
ヨガを毎日欠かさずやったり、野菜しか食べなかったりと、変なところで健康管理に神経質だった。
勝負の真髄。感情で勝負するな。
ギャンブルが始まると、海岸でベロンとしていたトドが水の中に飛び込んで急にエレガントに泳ぎ出したみたいに顔つきが変わった。
ネコに捕まったネズミのように弄ばれた。
はじめてダンスパーティーへ行った時のようにワクワクした。
ドラッグをやるのと同じくらいのエネルギーでスポーツに入れ込んでいた。
この頭の良い子どもがそのまま大人になってしまったような男を、なぜか女性たちは愛した。女性に対して甘えん坊の子供のような態度をとっていた。はじめからオープンになれば女性は意外な早さでそれに応えてくれる。
そこにいたのは自分の複雑な性格を持て余している一人の孤独な男だった。
この章ではロバート・ハリスの人生に欠かせないギャンブルの要素についての師匠や仲間たちとの交流が描かれています。
今のようにコンピューターゲームなどない時代ですから、ゲームといえばボードゲームでした。そしてゲームの勝負を盛り上げる最大のコツは金を賭けることだったのです。
野性の嵐
強烈なエロティシズム。野性的で、荒々しく、秩序を乱すような存在。
雨の中を子どものような奇声をあげて走り出した。野生児のようなナチュラルさ。はちきれるようなエネルギー。
食べることも惜しんでいろいろなものにトライする。
言葉に飢えた人間のように話し、笑うことを忘れていた人間のように笑い、初恋のティーンエイジャーのようにキスをした。
↑わたしはロバート・ハリスのこういう表現のひとつひとつが大好きです。
砂浜の上に大の字になって大声で歌を歌ったり、服を着たままレストランのプールに飛び込んだり、星空の美しさに涙を流したり。
二人はぶつかり合いが多すぎたのだ。それに疲れてお互いの世界の中に引っ込んでしまった。だからこんなに孤独を感じるのだ。我々の笑い声は独自の世界の中で勝手に響いているだけだった。
雨の中の公園を叫び声を上げて走り回り、ずぶ濡れになって地面に倒れ、飢えたように舌を吸いあう、そんな我を忘れるようなセックスができなかったのだ。
相手はいじけた子供のような女だ。こうして真剣に怒っていること自体がバカらしい。そんな女と結婚した自分が悪いのだ。やばいと思ったときに身を引いておくべきだった。
運命の逆襲に遭ったのだ。この孤独は一人で乗り越えるしかない。一人になったときが勝負なのだ。別れると、孤独は何ごともなかったかのように目の前に立っている。黒い帽子に手をやり、ニヤッと微笑んでいる。死ぬまでこいつと一緒なのだろうか。この気持ちがどこへ通じているのか、見極めたいと思った。
神は何年やっても打ち負かすこともプレイスタイルを読むこともできない厄介なポーカープレイヤーのような存在だと思う。
理性とか責任とか自制心という言葉は嫌いだが、感情以外に道標になってくれる何かが自分の中にあるはずだ。問題はそれがいまだに見つかっていないということだ。
この世で一番弱い動物は人間のオスだ。
フルチンでニーチェを論じるのははじめてだった。
これでいいのだろうか。僕にはわからないことがまだまだたくさんある。そう思い、あまり深く考えないことにした。
僕の眼鏡は吹っ飛んだ。これでしばらくはバリ島の美しい夕陽を拝めない。拝めたとしてもピンぼけだろう。
モテモテのロバート・ハリス。ちょっとしたカサノヴァのようです。しかしこの人の文章を読めば読むほどどうしてモテるのか、その理由がわかる気がします。おれが女なら惚れてまうかもしれません。いや、間違いないでしょう。
このまま快楽の中で狂い死にしてもいいと思った。
彼女がワイルドで特別なんだっていつも言ってるじゃない。わたしにはぜんぜんそうは見えなかったわ。
コークとホットドッグを頬張りながらバイオレントな怪獣映画を心おきなく見たい。ゴロゴロしていられる日常が恋しくて仕方がなかった。
わたしたち、別れたほうがいいね。
わたし自身もこのような悲しい別れを経験しています。その経験をモデルにした小説を書き上げています。「結婚」というタイトルですが、最後まで結婚しません。なぜ結婚というタイトルにしたのかというと、女性が求めているのは結婚だったのに、男の側はそうではなかった、というすれちがいを描いているためです。
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このブログの著者が執筆した純文学小説です。
「かけがえがないなんてことが、どうして言えるだろう。むしろ、こういうべきだった。その人がどんな生き方をしたかで、まわりの人間の人生が変わる、だから人は替えがきかない、と」
「私は、助言されたんだよ。その男性をあなたが絶対に逃したくなかったら、とにかくその男の言う通りにしなさいって。一切反論は許さない。とにかくあなたが「わかる」まで、その男の言う通りに動きなさいって。その男がいい男であればあるほどそうしなさいって。私は反論したんだ。『そんなことできない。そんなの女は男の奴隷じゃないか』って」
本作は小説『ツバサ』の後半部分にあたるものです。アマゾン、楽天で無料公開しています。ぜひお読みください。
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そしてゲームは続く
外国人が次々と放火にあっている。
ヒッピーたちの冒険談や旅の話しがシロッコのように吹き荒れ、イマジネーションをかき立てた。
オーバーランド・トリップ。地続きの道でヨーロッパから、トルコ、イランを通って、カブール、デリー、カルカッタへ。
放浪をライフスタイルとするものには、どうやって食っていくのかという問題が常に頭にある。一番手っ取り早いのは旅の行商人になることだ。
中禅寺湖のコンビニ。立木観音。男体山登山。温泉。那須どうぶつ王国。アジアンオールドバザール
→本書ではこう書かれていますが、旅の行商人は今の時代にはもう無理だと思います。それを変えたのはどうやら「コンテナ」のようです。コンテナの大量輸送が輸入価格を下げ、個人レベルの行商のハードルをいちじるしく上げました。
荒々しいアラビアンナイトの世界。
インドのゴア。海岸では毎晩のようにパーティーが開かれた。
住んでいるのはすべて長期滞在者たち。人々はほとんど裸で毎日過ごし、満月の夜には庭で大パーティーが開かれ、木の上に取り付けられた数個のスピーカーからはいつも音楽が流れていた。
フルムーン・パーティー。夜は一向に涼しくならない。
師匠からカモのステータスに下がりつつあった旦那。
トロツキー風に丸い眼鏡をかけた、南の島へ遊びに行って遊び人になってしまった、少し気のふれた元大学教授。
イイモンがワルモンに負けるときもあるのだ。
あいつは根っからのアスホールなんだ。
蚊帳のかかったベッドの中には若くて美しい女性が横になって本を読んでいた。
僕は自分のことを放浪者としてとらえているが、実績からいってもライフスタイルからいっても放浪者としてはセミプロぐらいのレベルにしか到達していないこともわかっている。
ゼウス相手に女の取り合いをしたり、トリックスター相手に騙し合いをしているようなものだ。
誰かと過酷な旅をともにしたり、エベレスト級の山を登ったり、戦火をくぐりぬけたり、独房をシェアしたり、とにかく人間としての真価を問われるような経験をしたうえではじめて結ばれる特別な絆である。
あまりウダウダ話しをしたくなくても、一緒に楽しく時間を共有できることがいい付き合いの条件なのかもしれない。
エッツォは自分の王国の中で小間使いのような存在だった。
「いやだね、オレは」「だろ? オレもいやだ」
おまえがそれを一足先にやってのけたことがオレには嬉しいんだ。
ヨハン。次に出す本に、おまえのことを書きたいんだけど、いいかな?
過去のことを書いていると、その時の自分まで生き返っている。過去の夢に浸された現実。毎日がまるで時間軸の歪んだ不思議なスークの中を旅しているような感じだった。
友情や愛情から意味や教訓を学び取る必要などない。瞬間こそが最大の遺産。
もし人生に目的というものがあるとしたら、それはそういった特別な瞬間をつかみ取ることそのものだ。
本が出たら絶対に送ってちょうだい。早く見たいわ。