『ロボット』『白い病』戯曲作家カレル・チャペックの園芸エッセイ
カレル・チャペックをご存知でしょうか? このチェコスロバキアの作家はロボットという言葉をつくり出したことで有名です。
カレル・チャペック『ロボット』(R.U.R)の書評、評価、あらすじ、感想
チャペックの初代ロボットは鉄のマシーンではなく、遺伝子操作による人造人間のようなものでしたが、意志を持たず人の労働力となるものをロボットと呼ぶようになったのはこの作品がきっかけです。人間に反乱したロボットが人類を滅ぼしてしまうというストーリーです。しかしロボットたちは滅び去った人間よりも美しいものを持っていたのでした。だから神はロボットたちを選んだのかもしれません。
また『白い病』も名作でした。こちらは元祖ブラック・ジャックのような作品です。自分が白い伝染病にかかっていないときには「病人を有刺鉄線内に閉じ込めろ」と、いかにももっともなご立派な理屈を並べ立てるものの、自分が病にかかると急に助かりたい一心で意見や節操を曲げる人たちが登場します。粗野で無意識な群衆の力が世界に広がり、指導者自身を破滅させ、守ってくれるはずの人物も破滅に追い込む。また白い病は当時の軍国主義の象徴ともとることができて、恐怖を感じました。
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どちらも戯曲です。そして私にとってはシェイクスピアや、チェホフよりも面白い戯曲でした。こんな偉大な才能があったとは知りませんでした。チャペックが英語圏やフランス語圏、ロシア語圏に生まれていたら、もっと有名になっていたのではないかと思います。
そのように才能を認めた作家だからこそ読んでみたのがカレル・チャペックの『園芸家12カ月』。読んで驚きました。まず戯曲ではありませんでした。エッセイです。それもタイトル通り趣味の園芸家のエッセイでした。皮肉(ギャグ?)たっぷりの。
『園芸家12カ月』カレル・チャペックの内容、感想、書評、評価
園芸家になるとものの考え方がすっかり変わってしまう。日が差しても、ただ差しているのではない、庭に差しているのだ、と思う。
大切なことは除草、灌水、それから土の中の石をせっせと拾い出すことだ。
雨が降ると高山植物が心配になる。渇きすぎるとシャクナゲが気になって胸もつぶれる思いがする。
→ まるで犬を飼っている人のようです。犬を飼っている人の中には、人間ではなく犬を中心に世界が回ってしまっている人がいますが、園芸家もそんな風になってしまうのでしょうか。
植物は種から下に根のように生えるものだと思っていた。ところが実際にはほとんどすべての植物が自分の種を帽子のように頭に乗せながら上に向かってはえるのだ。かりに赤ん坊が生まれるとすると母親を頭の上に乗っけて生まれるのだ。自然界の不思議とよりほかに呼びようがない。
ほんとうの園芸家は花をつくっているのではなくって、土をつくっているのだ。彼は土の中に埋もれて暮らしている。エデンの園では知恵の木の果実よりもエデンの土がほしくなるにちがいない。
→ しかもチャペックは園芸とは草花を愛でることではなく、土を愛でることだというのです。えっ、そうなの? 知らなかった。おれ、園芸家じゃないから……。
でもたしかに土が良くないと草花は枯れてしまいますよね。
「窓辺に見ゆるチリ硝石。木炭、切り藁こきまぜて」。
バラの花なんてものは、いわば、アマチュアのために存在しているのだ。園芸家のよろこびは大地の胎内に根差しているのだ。次の世に生まれ変わったら園芸家は花の香りに酔う蝶になんかはならない。土の中をはいまわるミミズになるだろう。
新聞の豪雨の記事には畑の被害が載っているけれど、オリエンタル・ポピーだとかのこうむった重大被害についてはひとことも書いていない。われわれ園芸家はいつも無視されているのだ。
「ミントテロ」「ミント爆弾」とは何か。植物にも感染症がある。
土の中の石っころは隠れた地底からたえまなくよじ登ってくる。ひょっとするとこれらの石っころは、地球がかく汗なのかもしれない。
湿り気があってフカフカでいつでも耕すことができる土。そこに植えようと思っていた花のことなんかもうぜんぜんきみは考えない。この黒々とした、空気を含んだ土のうつくしい眺めだけでたくさんではないか?
「ここにすこし禿げができていて寂しい。何かでおぎなってやらなきゃなるまい」
庭は完成することがないのだ。
耕耘、天地返し、施肥、石炭散布、ピートと灰と煤のすきこみ、剪定、播種、移植、根分け、球根の植え付け、堀り上げ、スプレー、灌水、芝刈り、除草……急に園芸家は思い出す。たった一つ、忘れたことがあったのを。——それは庭をながめることだ。
→ 『園芸家12カ月』は全編こんな感じです。花を眺めてうっとりするシーンが皆無です。ひたすら腰を折り曲げて土をいじっています。
われわれ園芸家は未来に生きているのだ。バラが咲くと、来年はもっときれいに咲くだろうと考える。いちばん肝心のものは私たちの未来にある。ありがたいことに、わたしたちはまた一年としをとる。