生きる勇気をあたえてくれる本
アメリカの弁護士スペンス氏が米法廷で議論して勝訴に導いてきたノウハウを書き綴った本です。この本はただ議論のすべに留まらず文学的にも価値が高いものだと考えています。本書は「生きる勇気をあたえてくれる本」です。この言葉は私にとって最大級の賛辞だと思ってください。
信頼性こそが必勝の議論の最も強力な要素なのである。大げさに騒ぎ立てる人が議論に勝つことはまずない。
→論破というよりは自分の望むものをわかってもらい和解することが目的です。
議論とはまわりの人々との関係の中で自分が望むものを手にすることができる強力な手段。
自分が自分の真の個性を尊重しなくて、どうして議論するなどということができるだろうか。
人間の心は庭に生えているたんぽぽに似ている。根元を叩き切られても、また芽が出てくる。大事なのは自分自身の細い根を見つけ大切にすることだ。その根こそ私であり、あなたであり、私たちなのだ。
→自分を主張することが議論だと筆者は考えています。だからこそ文学的価値が高いのだと私は述べたのです。
「議論しても負けるだけだ。うつむいてひたすら黙っていれば安全だ」と私たちはこれまで学んできたのではないだろうか。
議論とは、目的を達成し、要求を満たし、願いをかなえるための道具だ。勝つとは「望むものを手に入れること」だ。
→ぐうのねも出ないほど相手を論破しても、自分が望むものを手に入れられなければ、議論に買ったことにはなりません。
相手の力はこちらの認識から生じている。父親の支配力も、息子が父親をどう認識するかによるのだ。息子がそうしようと思えば父親に力をいっさいあたえずに、自由に楽しくやりたいことができる。
たいていの人は魅力的な人のいうことを信じるから、彼はたいてい勝つ。私は自分がつくりだした絶対に勝ち目のない巨人に立ち向かっていたのだ。私はこの巨人に私を打ち負かすのに十分な力をそっくりあたえてしまったのだ。それ以来、相手に自分の力をこれっぽっちも渡すまいと思っている。どんなに議論をうまくやってのけても、相手を変えることはできない。変えることができるのは自分自身だけだ。
新聞にも、何も知りもしないで自分を軽蔑した大勢のアメリカ人にも、自分を裁く力をいっさいあたえていない。結局、彼女を裁くのは彼女自身だけなのだ。
うかつにも陪審員まで攻撃してしまった。私があまりに冷酷だったために、陪審員がやむを得ず被告側に味方したのだった。私は自分のありったけの力を使って、自分自身をぶちのめしてしまったのだ。
相手を脅そうとすれば、相手を反撃する気にさせるだけだ。静かに、率直に、相手の心を動かすほど正直に自分を主張する。
私たちは悩みや怒り、不安、恐怖、喜び、嫉妬心など自分自身を表に出すことを恐れる。けれども信頼は骨の髄から生まれるものだ。涙も美辞麗句も、もし信頼される人間でなければ何の役にも立たない。
人々が本当に聞きたがっているのは真実である。真実を語ることは胸が躍ることである。
腹を立てたくないから黙っているんだという人もいる。感情を正直に出せ。怒りの裏にはたいてい恐怖が隠されている。戦いの常として最後には恐怖を引き起こすだろう。恐怖をまったく感じないで議論をした記憶は一度もない。
望んでいるものを率直に求められたときには、ノーとは言いたくないものだ。「お金が必要だ」と真実を言った。正直に率直に意思を伝えたから、彼を信頼することができた。信頼できたから、彼の議論を信じたのだ。
ここでもまた私は間を取って、陪審員が私の言葉をじっくり考えるのを待つ。
要求するからこそ、それを手に入れることができるのだ。
「さぞ~だったでしょうね」という言い回しは「私はわかっています」と伝える魔法の言葉だ。
誰でも自分の話しを聞いてほしがっている。すべての騒音は単に聴いてもらうことを極度に必要としていることの現れにすぎない。もしまったく聞いてもらえず、まったく理解してもらえず、まったく愛してもらえなければ、たとえ誰かと一緒でも孤独を感じるだろう。距離を置いてみると手厳しい非難ではなくすすり泣く声が、うんざりする怒声ではなく寂しさや失望感が、心の中にくすぶっている恐怖が聞こえてくるだろう。
相手が議論を受け入れたり拒否したりする力をもっていなければ、議論に勝つことはできない。相手にそういう力をあたえなければ、相手は議論に対して心を閉ざし、守りを固めたままで、私たちが負けてしまうからだ。
勝利とは私たちが望むものを手に入れることだ。望むものとは、私たちの人生の蓄えを無駄に使わず、実を結ぶ努力のために使うことだ。自分たちの人生を無駄にされたくない。ときに勝利とは退却するという戦術をとることが賢明だと認めることだ。
感情的で、視覚的な言葉をつかえ。単純な言葉を使いなさい。イメージと行動をつくり出し、感情を動かす言葉を使いなさい。
発狂した裁判官の話しは忘れないはずだ。自分の鼻に親指を押しつけて立っている被告のイメージを決して忘れないだろう。ストーリーの議論は人間本来の言語形態で語っているから力強い。感受性にふれるからだ。
青年は小さく、無力で、どうでもいい存在だった。だが正義だ。正義はどうなる?
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このブログの筆者の著作『軍事ブロガーとロシア・ウクライナ戦争』
戦史に詳しいブロガーが書き綴ったロシア・ウクライナ戦争についての感想と提言。
『軍事ブロガーとロシア・ウクライナ戦争』
●プーチンの政策に影響をあたえるという軍事ブロガーとは何者なのか?
●文化的には親ロシアの日本人がなぜウクライナ目線で戦争を語るのか?
●日本の特攻モーターボート震洋と、ウクライナの水上ドローン。
●戦争の和平案。買戻し特約をつけた「領土売買」で解決できるんじゃないか?
●結末の見えない現在進行形の戦争が考えさせる「可能性の記事」。
ひとりひとりが自分の暮らしを命がけで大切にすることが、人類共通のひとつの価値観をつくりあげます。それに反する行動は人類全体に否決される。いつかそんな日が来るのです。本書はその一里塚です。
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議論に力をあたえるのは、事実を積み上げたストーリーだ。準備。のぼってきた朝日がコンピューターの画面に反射する光景を何度も見てきた。
陪審員に生殺与奪の力を自覚させる。命を奪ってはならないということを理解させる。
私たちは誰でも好かれたいと思う。だが一部の人たちは私の友人ではないことを十二分に理解している。因習を打破するために戦う時、心に秘めた固い信念を攻撃するとき、私は大勢の敵をつくる。拒絶されることは、自分の人格のために払わなければならない代償だ。主張する人が払わなければならない代償なのだ。
自分の感情、情熱を感じなければならない。感情を相手に移す。
私たちがいなければ、静寂は存在しえない。私たちの魂の爆発がなければ、静寂というものは存在しえないのだ。
一筆余計に描き加えれば、絵はだいなしになる。議論のあとに余計な一言をつけ加えれば議論はだいなしになる。沈黙のスペースを残しなさい。あなたの絵を描きなさい。あなたの感情を歌いなさい。そこに魔法の力がある。
他人の陳腐な議論の真似であってはならない。心の中には魔法がいっぱい入った大釜を魔女がかき混ぜている。議論はその大釜から生まれたものでなければならない。
ゴッホ自身も自分のその感情に戸惑った。やがてその感情はあまりにも激しく、恐ろしいまでに解き放たれたため、彼は感情を否定し始め、したがって自分自身を否定し始めた。ゴッホは自らの命を切り落とした。この損失の原因は、ゴッホには感情を受け入れ、感情をいつくしみ、感情そのものになることができなかったからだと思う。
感じるとは、喜びだけでなく苦しみも感じることだ。感じるとは、最も強烈な生きている証しだ。死体は何も感じない。
教育の目標は、子どもたちを感情から引き離し、押さえつけ、死人のようになるよう訓練することだ。純粋な小さな生き物に死人のような生き方を教え、墓場にいるように完全に押し黙り、墓石のなかにいるように完全に沈黙することだ。
アステアのダンスは彼の魂から、感情の奥底から生まれていたのに対し、他のダンサーはまったく別のもっと機械的な場所、頭を働かせて踊っていたことだ。
愛の力、理解する力、相手の感情を感じることができる力は、攻撃するよりも、はるかに大きな力を私たちにあたえてくれる。愛は力だ。理解することは力だ。感じることは力だ。だがまず自分自身の感情を完全に意識することができなくては。すべては自分自身の感情からはじまるのだ。感じること。相手にも感情があることがわかる。感じることができないときだけ、私たちは孤独で、空疎で、死んでいる。すべては感情からはじまる。自分の感情からはじまるのだ。
→ほらね。生きる勇気が湧いてくるでしょう。
感じるためには、苦しみという危険を冒さなければならない。批判や、もしかしたら拒絶という危険も冒さなければならない。だが、その報いは生きるということだ。
→このような主張を直接述べるのではなく、物語の中で主張すれば「文学」になるのです。
トルストイ『戦争と平和』知りたかった文学の正体がわかった!!
チャンスがあれば、できるだけ人前で踊るようにしているんです。私には踊ることが必要なんです。自分のためになるんです。
すべては私たち二人が自分を解き放つという危険を冒して、ジャンプした結果だった。ジャンプすること! 解き放つこと! 自由になること!
魔術的な議論の魔法が湧き出てくる場所は、相手が議論に対して賛成あるいは反対の決断を下すのと同じところになる。相手が心の底で決断を下しているときに、なぜ頭の言葉を使って相手に話しかけようとするのだろうか。
なぜ私は負けるのだろうか。誰が相手に私を負かす許可をあたえているのだろうか。私は子供のころ、毎日近所のいじめっ子にぶたれ、とうとうある日、ぶたれて生きていくという生き方を納得できなくなった。いったんいじめっ子にあたえていた自分をたたきのめす自分の許可を撤回したら、私はもう負けることはなかった。力は「許可」というたった一語のなかにあったのだ。
相手に自分を負かす許可を二度とあたえるまい。負ける許可を撤回したら、不思議なことが起こった。人々の私を見る目が変わった。
ぜったいに勝てるはずだ。なぜだかわかりますか。彼らはあなたをやっつける前に私を叩きのめさなければならないが、彼らは私を叩きのめせないからです。私を叩きのめせないのは、私が彼らに叩きのめしていいという許可を絶対にあたえないからです。
何を真実と信じるかもすべて自分の選択だ。物事を判断する基準となる真実は、私たちの経験から生まれる。つまり私たちが真実を選んでいるのだ。私にとっての真実は自分が自分の宇宙の中心を占めているということだ。自分にとって何が真実かを決める力を両親や権威者、聖書に譲ったりはしない。私は真実だ。そしてあなたも真実だ。だからこそ、あなたはあなたの宇宙の中心にいるのだ。
自分の歌を歌え。集団よりも個を優先する生き方【トウガラシ実存主義】
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旅人が気に入った場所を「第二の故郷のような気がする」と言ったりしますが、私にとってそれは韓国ソウルです。帰国子女として人格形成期をソウルで過ごした私は、自分を運命づけた数々の出来事と韓国ソウルを切り離して考えることができません。無関係になれないのならば、いっそ真正面から取り組んでやれ、と思ったのが本書を出版する動機です。私の第二の故郷、韓国ソウルに対する感情は単純に好きというだけではありません。だからといって嫌いというわけでもなく……たとえて言えば「無視したいけど、無視できない気になる女」みたいな感情を韓国にはもっています。
【本書の内容】
●ソウル日本人学校の学力レベルと卒業生の進路。韓国語習得
●関東大震災直後の朝鮮人虐殺事件
●僕は在日韓国人です。ナヌン・キョッポニダ。生涯忘れられない言葉
●日本人にとって韓国語はどれほど習得しやすい言語か
●『ムクゲノ花ガ咲キマシタ』南北統一・新韓国は核ミサイルを手放すだろうか?
●韓国人が日本を邪魔だと思うのは地政学上、ある程度やむをえないと理解してあげる
●日本海も東海もダメ。あたりさわりのない海の名前を提案すればいいじゃないか
●天皇制にこそ、ウリジナルを主張すればいいのに
●もしも韓国に妹がいるならオッパと呼んでほしい
●「失われた時を求めて」プルースト効果を感じる地上唯一の場所
●「トウガラシ実存主義」国籍にとらわれず、人間の歌を歌え
韓国がえりの帰国子女だからこそ書けた「ほかの人には書けないこと」が本書にはたくさん書いてあります。私の韓国に対する思いは、たとえていえば「面倒見のよすぎる親を煙たく思う子供の心境」に近いものがあります。感謝はしているんだけどあまり近づきたくない。愛情はあるけど好きじゃないというような、複雑な思いを描くのです。
「近くて遠い国」ではなく「近くて近い国」韓国ソウルを、ソウル日本人学校出身の帰国子女が語り尽くします。
帰国子女は、第二の故郷に対してどのような心の決着をつけたのでしょうか。最後にどんな人生観にたどり着いたのでしょうか。
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迷ったときには、攻撃を開始しなさい。容赦なく攻撃すれば、絶対に負けることはない。
正しそうに見える敵が猫をかぶっていることが暴露されるまで、私たちは待たなければならない。意思決定者に、私たちの敵は実は悪者だということを示しておくことが必要だ。意思決定者は正しい人と手を結ぶ。意思決定者を絶対に攻撃してはならない。
話しはストーリーを聞くように展開する。真実を語れば信頼をうむ。相手に自分の望んでいることを話す。
善玉を演じたいところだが、すでにその役は意思決定者とその忠実な子分が当てはまっている。誰を悪玉にするべきだろうか。「状況」が悪玉だ。善玉の役はすでに取られていてヒーローの役になることはできないから、相手も自分も「状況」の犠牲者にする。
相手側の支持や賛同を引き出せるような情勢から議論をはじめなければならない。正義が私たちサイドになければならない。あるいは救いを求めて戦う社会の犠牲者でなければあならない。賞賛を、尊敬を、せめて理解を、せめて同情を呼び起こさなければならない。
会社の階段の頂上にはたどり着けないかもしれない。だが、あなたには自分の唯一の確実な資産、つまり自分自身を大事に手元に置いておける可能性がある。
負けないことによって勝つ。取り入れられないことを要求しないことによって勝つ。自分自身を差し出さないことによって勝つ。自分自身に納得させることによっても勝つ。私たちは常に自分自身の基準に従って生きている。結局のところ、それが常に勝つ方法なのだ。
人生とは不安定なものだ。もっとも安定しているのは、死だ。安定のために自分の人生を犠牲にし、自分の自由を手放すのはやめよう。不安定な崖っぷちに座り、崖の底を覗き、おなかのなかの不安を感じよう。受け入れることによって、生きる勇気を確認しよう。この世における究極の安定は勇気から生まれる。すべての安定の源は自分自身だ。
私たち一人一人はどこをどうさがしてもたった一人しかいない。だからこそ私たちには自分のいい部分を他人と分かち合う義務がある。宝物を自分の中にこっそりとしまっておいてはいけない。その損失は取り返しがつかないからだ。
議論はこの地球上で占めている空間に対して、私たちが払うべき代償の一部だ。不正を目にしたら、人間が不当に使われたり、無礼な扱いをされたり、食いものにされたり、傷つけられたりするのを見たら、私たちは議論しなければならない。
おまけ。マーティー・キーナート『スタンフォード流 議論に絶対負けない法』
ちなみに別の書物になりますが、同名の書物があったのでそちらも読んでみました。
マーティー・キーナート著『スタンフォード流 議論に絶対負けない法』というものです。
実際に話す内容の100倍の準備が必要。
議論や交渉の準備で一番肝心なのは、どこまで自分の主張を通そうとするか、その上限をあらかじめ決めておくことである。「ここまでは譲れるが、この先は絶対に譲れない」という境界線をはっきり決めておく。
ほんとうに通したい要求ポイントを通すために、要求項目の中におそらく「ノー」といわれるであろう項目を含ませる。全面降伏は担当者としては許されない。仕事をしなかったということにもなる。議論における「捨て札」を用意しておく。「捨て札」によって主張を際立たせる。
→アジアの市場での値切り交渉術に通じるものがありますね。
スマイルは、議論の雰囲気をやわらげ、互いの距離感を詰め、相手の気持ちをこちらがわにグッと引き寄せることができる。
相手にできるだけ喋らせる、こちら側から口火を切らない、最後まで何も要求せずに結果を得る。
人生はマッチポンプ。ハレとケのバランス
→これらの議論の方法は、海外放浪における旅のノウハウにも通じるものが多々あります。
ボッタクリタクシーに対してボッタクリを認めるのはその力を相手にこちらが認めたためです。そんな力を相手にあたえなければ戦うことができます。
外国で地元の人間相手に喧嘩をするのは恐怖を感じることでしょう。でもそれは生きるための代償です。恐怖を感じてこそ生きていることが実感できるのです。その恐怖を感じて、それでも主張したい自分の感情を感じて、勇気で恐怖を乗り越えて自分を主張してください。
私はマラソンの経験を通して人生はマッチポンプ(ハレとケのバランス)だと学びました。それはスペンス氏が議論を通じて学んだものと同じものでした。
たとえ相手を変えることができなくても、生きている実感を感じることはできるでしょう。たたかったことは決して無駄になりません。
ジャンプしなさい!
走りとは何か? ジャンプしない走りなんて、走りじゃない。足はしかたなく着いているだけ
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(本文より)知りたかった文学の正体がわかった!
かつてわたしは文学というものに過度な期待をしていました。世界一の小説、史上最高の文学には、人生観を変えるような力があるものと思いこんでいました。ふつうの人が知り得ないような深淵の知恵が描かれていると信じていました。文学の正体、それが私は知りたかったのです。読書という心の旅をしながら、私は書物のどこかに「隠されている人生の真理」があるのではないかと探してきました。たとえば聖書やお経の中に。玄奘が大乗のお経の中に人を救うための真実が隠されていると信じていたように。
しかし聖書にもお経にも世界的文学の中にも、そんなものはありませんでした。
世界的傑作とされるトルストイ『戦争と平和』を読み終わった後に、「ああ、これだったのか! 知りたかった文学の正体がわかった!」と私は感じたことがありました。最後にそのエピソードをお話ししましょう。
すべての物語を終えた後、最後に作品のテーマについて、トルストイ本人の自作解題がついていました。長大な物語は何だったのか。どうしてトルストイは『戦争と平和』を書いたのか、何が描きたかったのか、すべてがそこで明らかにされています。それは、ナポレオンの戦争という歴史的な事件に巻き込まれていく人々を描いているように見えて、実は人々がナポレオンの戦争を引き起こしたのだ、という逆説でした。
『戦争と平和』のメインテーマは、はっきりいってたいした知恵ではありません。通いなれた道から追い出されると万事休すと考えがちですが、実はその時はじめて新しい善いものがはじまるのです。命ある限り、幸福はあります——これが『戦争と平和』のメインテーマであり、戦争はナポレオンの意志が起こしたものではなく、時代のひとりひとりの決断の結果起こったのだ、というのが、戦争に関する考察でした。最高峰の文学といっても、たかがその程度なのです。それをえんえんと人間の物語を語り継いだ上で語っているだけなのでした。
その時ようやく文学の正体がわかりました。この世の深淵の知恵を見せてくれる魔術のような書なんて、そんなものはないのです。ストーリーをえんえんと物語った上で、さらりと述べるあたりまえの結論、それが文学というものの正体なのでした。
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