キリスト教西洋哲学は、精神を重んじて、肉体を軽視しすぎた
世界でもっとも大きな宗教であるキリスト教の約束した神の王国は、死後の世界にありました。キリスト教は、ゆるしとかやさしさとか精神的なところに重きを置いたので、その反面、現世の肉体に重きを置かなかったのです。
そのキリスト教を基盤とした西洋哲学は、ともすれば「考える知性だけが人間特有のものであり、もっとも価値のあるもの」と結論するものが主流でした。ここでは肉体は動物でも持っているあまり価値のないものと見なされています。
ところが東洋哲学の中で生まれ育ってきたわたしたち日本人にとっての「生きているリアルな実感」はどうでしょうか。肉体抜きには何も感じられないのではないでしょうか。むしろ生きがいは肉体活動にこそあるとわたしは感じています。
わたしはこのコラムの最終章『走るために生まれた』で、この人生において「暑い日に走ったあとの冷たいシャワーや、寒い日に走った後のあついお風呂にまさる快楽はそう簡単に見つからない」と『肉体宣言』をしています。この人生に肉体以上の価値あるものを見つけられなかった、とはっきりとシャッポを脱いだのです。そしてそのことを自分の生きる指針にしています。
このコラム集『ドラクエ的な人生』をすべて読んでもらえればわかりますが、わたしはそれほど脳筋(脳ミソ筋肉)ではありません。どちらかといえば「頭のよさでフィジカルエリートに走り勝ってやろう」という頭脳派だと自分のことを認識しています。
たくさんの本も読みました。たくさんの映画も見ました。たくさんの冒険もしました。それでも「この人生に肉体以上の価値あるものを見つけられなかった」のです。
探す旅、はもうじゅうぶんにしたのではないかと思います。これをわたしの結論にしましょう。
ひとりでも多くの方に共感してもらえると嬉しいです。
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雑誌『ランナーズ』のライターが語るマラソンの新メソッド。ランニングフォームをつくるための脳内イメージ・言葉によって速く走れるようになるという新メソッドを本書では提唱しています。
(本文より)
【入力ワード】写真からランニングフォームを学ぼうとする人が多いので注意喚起したいと思います。写真からフォームを学ぶのはお勧めできません。写真というのは瞬間を切り取ったものなので、間違った解釈をする可能性があるからです。「振り上げた脚」(往路)なのか「戻ってきた脚」(復路)なのか、写真ではわかりません。大地を蹴ったように見えている脚が本当に大地を蹴っているのか、大地を蹴ったように見えているだけなのか、写真からはよくわからないからです。写真で振り上げた膝の高さを見て「ふむふむ、膝はここまで上げるのか」と思い込んでマネするのもよくありません。慣性の法則で結果として脚がそこまで上がっているだけで、実際のランナーの意識としてはそこまで上げようとしていないかもしれません。「結果としてのフォーム」と「ランナー本人の走るときのフォーム意識(入力ワード)」は、必ずしも同じではないのです。
【腹圧をかける走法】そもそも息をするのは、酸素を吸うためです。吐くことよりも、吸うことに意識をおくほうが自然な発想です。肺の中に残っている空気(残気量)は、どうせゼロにはできないのです。吐き切るという努力は、動かない壁を押すような無駄な努力です。そこに力を割くべきではありません。持ち上がらないバーベルを無理やり持ち上げようと喘ぐと、余計に息が苦しくなってしまいます。楽に息するのとは真逆のことです。それよりも思いっきり吸うことです。そのための走法が腹圧をかける走法です。肺を絞って痩せた人のように走るのではなく、腹はたるんたるんと力を抜いてだらしなく腹が太った人のように走ります。そもそも重力は下向きなのだから、横隔膜を下げることは理にかなったことです。それに対して、吐き切ることを意識すると、重力に逆らって横隔膜を持ち上げながら肺を絞らなければなりません。どちらが楽にできると思いますか?
【ストライド走法】ピッチ走法には大問題があります。実は、苦しくなった時、ピッチを維持する最も効果的な方法はストライドを狭めることです。高速ピッチを刻むというのは、時としてストライドを犠牲にして成立しているのです。
【踵落としを効果的に決める走法】私はカラテ素人ですが、サブスリーランナーとして、すくなくとも「踵落とし」を無力化する方法をすぐに思いつくことができます。答えはカンタン。攻撃側が踵を振り上げて止まったポイント(これを上死点といいます)に、自ら打撃ポイント(脳天など)を近づけていくことです。上死点では運動エネルギーがゼロになっているために、破壊力もゼロです。上死点から距離をとらないことで「踵落とし」というキックを無力化できます。
ストライドを稼ぎたいあまりに、未熟ランナーほど振り出した前足が最も伸びきったところで着地してしまうのです。つまり「膝が伸びきったまま」「踵から着地」してしまうのです。これは「踵落とし」の運動エネルギーがゼロになっている上死点で着地してしまっているのと同じことです。これでは速く走ることはできません。
言葉のもつイメージ喚起力で、フォームが効率化・最適化して速く走れるようになる新理論の書。言葉による走法革命。とくに走法が未熟な市民ランナーであればあるほど効果的です。本書はあなたのランニングを進化させ、市民ランナーの三冠・グランドスラム(マラソン・サブスリー。100km・サブテン。富士登山競争のサミッター)を達成するのをサポートします。
●「動的バランス走法」「ヘルメスの靴」「アトムのジェット走法」「かかと落としを効果的に決める走法」「ハサミは両方に開かれる走法」「腹圧をかける走法」
●マラソンの極意「複数のフォームを使い回せ」
●究極の走り方「あなたの走り方は、あなたの肉体に聞け」
●【肉体宣言】生きていることのよろこびは身体をつかうことにこそある。
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尾崎豊病。生きがいを求めてシャウトしてしまう病気
イロハ「はあ~(ため息)。私って何のために生きているんだろう」
ハルト「な、なんだ。唐突に。いきなり何を言い出すんだ?」
イロハ「いやね。私の生きがいって何だろうと思って。何にもないなあって…」
ハルト「尾崎豊病か!?」
イロハ「こういうの尾崎豊病っていうの?」
ハルト「いやおれのテキトーな造語だけど。ゴールデンウィーク車中泊の旅で尾崎豊の歌をずっと聞いてたからそんなことを言い出すんじゃないの?」
イロハ「そうかしら」
ハルト「『深淵を覗き込むとき、深淵もまたお前を覗き込む』っていうフリードリヒ・ニーチェの言葉があるんだけど、尾崎豊にはそういうところがあるよね。歌詞が『みんなこの橋を死に物狂いで走った』とか『おれは走り続ける、叫び続ける、求め続けるさ、おれの生きる意味を』とか、ちょっとのんべんだらりとは聞いていられないような歌詞じゃない? シャキッとしないと。聞いていると切実さ真剣さに影響を受けてしまうんだ。そういうところがカリスマって呼ばれたんだけどね」
イロハ「聞いているうちに無意識に影響されちゃったのかな。はあ~。ハルトは生きがいって何かある?」
ハルト「ため息つくな。幸せが逃げるわ! たとえばこのブログは生きがいのひとつだよ。このコラムの中で、他の人には書けないこと、おれにしか書けないことが書けたときには、凄く手ごたえと充実感を感じている。もともとおれは作家になるのが夢だったんだ。編集者の検閲なしに、こんなに自由に世間に向かってモノが書ける時代が来るなんて夢のようだよ」
イロハ「ふうん。ハルトは生きがいがあるんだね」
ハルト「いい歳して『生きがいがない』なんて言うな。尾崎豊は10代だったんだぞ。おれたち大人が何かを語れなくてどうする?」
生き甲斐は肉体をつかってこそ

ハルト「人間っていうのは肉体をつかってこそ大きな喜びがあるんだよ。おれはそう確信しているんだ。空腹時に食べる美味しい食事とか、暑いときに浴びる冷たいシャワーとか、そういうものに勝る快楽は、この世界にそう簡単には見つからないとおれは感じているんだ。人生はハレとケ、緊張と弛緩があってこその喜びであり、生きがいなんだ、と。充実だけしかない一日とか人生なんてありえないと思う。
精神的なものは肉体的なものよりも価値が高いっていうのは、神の王国を霊の世界に求めたキリスト教の方便だと思う。朝、起きたら、難解な哲学的なことを考えるよりも、まずは運動して身体を目覚めさせることからはじめたら? そうすれば頭がすっきりするし、走れば気持ちよくなって、その脳内モルヒネの力を借りて、難解なことを考えることもできるんじゃない?」
イロハ「そういえばハルトにとって走ることは生きがいじゃないの?」
ハルト「それはもう最大の生きがいだよ。今じゃ作家になる夢よりね」
イロハ「夢よりも、走ることが大事?」
ハルト「サブスリーという関門突破ゲームに熱中していた頃、おれは作家になる夢のことなんて完全に忘れていたよ。そういう体験があってこそ『最終章・走るために生まれた』というこのブログの最後のページを既に書き上げることができたんだ。

生きがいというと、クリエイティブな活動をするとか、仕事をするとか、本を読むとか、文化的なことじゃなきゃいけないと思い込んでいる人が多いけれど、そうじゃない。生きがいというのは大空を鳥が舞うようなものだ。遙かなる海をクジラが泳ぐようなものだ。この世界を、神からさずかった肉体で駆けめぐることこそが生きがいだ。
生きがいというのは、脳の新しい領域である大脳新皮質を使った高度な文化的作業よりも、脳の太古の領域である大脳辺縁系に由来した肉体的な行為の方がだんぜん生きている実感が大きいとおれは思っている。要するに人間も動物だってことだよ」
イロハ「人と人とのふれあいは?」
ハルト「仕事が生きがいという人は、本当は業務の内容そのものが生きがいなのではなくて、必然的に仕事で関わってくる人との協力や交渉、そういった関係性にこそ生きがいを感じているんだろう。狼の群れが体を触れ合わせて眠るように。ふれあったり群れたりすることは動物の原始的な欲求だよ。異性と肌と肌が接触している最中に、私には生きがいがないとか、何のために生きているのかわからないとか感じる人はあまりいないだろう?」
イロハ「そんなやつがいたらヘンタイよ」
ハルト「ふれあうことも肉体を使うことだよね」
イロハ「また清濁併せ吞むアジャリ道ってやつ(苦笑)?。。でも宗教活動とか、音楽とか文化的な活動を生きがいにしている人もいるでしょう? その人たちはどうなの?」
『世の中から悪が消えれば、誰が神を敬うというのだ?』 原始的な欲求の方が強い

ハルト「歌うことは、小鳥が異性を求めてさえずることと同じだよ。たとえば楽器を奏でることよりも、空腹時に美味しいものを食べることの方が、つまり原始的な欲求の方が圧倒的に強いとおれは実感しているんだよ。長く走り続けてきた中で、それを知ったんだ。
音楽家の坂本龍一さんが、中咽頭がんにかかって、死を意識した病床で、音楽のことではなく、食べ物のことばかり考えていたと告白しているよ。とても正直な告白だと思う。『The・音楽』みたいな坂本さんでさえそうなんだから。おれが言っていることが正しいことがわかるだろう。原始的な欲求の方が強いんだ」
イロハ「私は美味しいものも食べているし、ぐっすり眠れているし、毎日、お風呂に入ってホンワカしているのに、どうして生きていてもつまらないなんて考えちゃったのかな?」
ハルト「今を生きていないからじゃない? そして経験してきた放浪の旅が楽しすぎるからじゃない? ハイになっている状態が高ければ高いほど、ローになった時との落差がありすぎて、ギャップにやられちゃうんだよ。ドラッグの禁断症状みたいなものじゃない? 感情の振幅が大きいことも生きがいだと思って、体力で乗り切らなきゃあ。人生やっぱりハレとケのバランスなんだよ。『世の中から悪が消えれば、誰が神を敬うというのだ?』って言葉がある。不自由があるからこそ、自由がある。苦しみがあるからこそ、喜びがあると思わなきゃ」
イロハ「わかった気がする。すべてはバランスで存在しているのね」

