どうもハルトです。みなさん今日も楽しい旅を続けていますか?
今日は年度末です。春はお別れの季節です。
職場の同僚に、若くして会社を去った人がいます。
その人の後姿を見送って感じたことを、忘れないようにここに書いておこうと思います。
放浪のバックパッカー旅を長く続けていると、いろんな解消しきれない疑問に引き裂かれることになります。
それは簡単に言えばこういうことになります。
「このまま日本のサラリーマン生活を続けて、本当におれは幸せなのか?」
東南アジアのバックパッカーが見てしまうものというのは、こういうものです。
『海辺のきもちいい町角を、スーツ姿のサラリーマンが通り過ぎていく。サラリーマンは綺麗な身なりだが、仕事に追われているようだ。時間に追われ、急いでいて、あまり幸せそうには見えない。何かやらなければいけないことがあるのだ。
その横で、路面店の店番をしているきたない身なりの男がいる。お客が来る気配は一切なく、店の前のベンチで完全に寝てしまっている。時間に追われる様子はまったくなく、さわやかな風が寝汗を乾かして気持ちがよさそうだ。いったいどっちがリッチなんだろう』
もちろん預金通帳に数字が貯まっているのはスーツの方でしょうが、人生が豊かなのが必ずしもスーツの方とは限りません。その時、あきらかに私は店番の方が豊かに思えたのです。
東南アジアでは、仕事のない人が豊かに見え、仕事をしている人が貧しく見えるのです。
「(貧しくて)働くしかないんだろうな、可哀そうに」
そう見えてしまうのです。働いている人が貧しく見えてしまうこの感覚は、日本のサラリーマン生活しか知らない人には、なかなかわかりがたいかと思います。
この感覚を知ると、日本でのサラリーマン生活が灰色に見えます。すくなくともリゾート色ではありません。
A「仕事をして、将来は楽をしたい」
B「今から楽をすれば?」
Bの感覚と言ったら、わかりやすいでしょうか。
人は時々自分の時間が有限だということを忘れそうになります。
ロックミュージシャンみたいな一部の人たちを除いて、たいていの人たちにとって仕事というのは労働です。「住宅を販売するために」「保険に加入してもらうために」「税金を徴収するために」生まれてきた人なんていません。
働くということは、自分の時間をお金に換えているようなものです。
若いうちはそれでもいいのです。無限に時間があるように思えますし、貯金通帳の額は小さい。時間をお金に換えて、通帳の額を増やすといいと思います。
しかしバッテンを描くグラフのように、いつかそれが逆転する時が来ます。「通帳の額はそこそこあるのに、残りの時間があまりないなあ」という時が。
「お金が貯まっていくなあ」と感じている間は働き続けたらいいと思います。しかし時間という唯一の財産が食い潰されていると感じたら、早期退職を考えてもいいのではないでしょうか。
働いていれば、お金はたくさんもらえます。しかし、残りの人生、そんなにお金が必要でしょうか。
太陽や海や風や星空や月、すばらしいものはすべて無料です。美味しいものは安いですよ。ツバメの巣よりも、お米の方がおいしいから普及したのです。
とくに東南アジアでは、日本のフルーツ屋に売っているような果物が自生していますし、ダウンの防寒着なんか必要ないし、お米なんて二毛作を通り越して三毛作です。
日本とは豊かさの感覚がまるで違うのです。
若くして退職した人は、自分の死を見つめて、決断したのでしょう。
「自分が死ぬ」ということを認めるということは辛いことです。他の人が見なかったことにして誤魔化しているものを、直視しなければ早期退職はありえません。
それはさぞ辛かっただろうと思います。
仕事をしていると、忙しくて使えきれないほどの給料が振り込まれます。お金がどんどんたまって、無限な感じがしますよね?
自分がいつか死ぬということを忘れていられます。
会社が死なない限り、自分も死なないような気になります。無限とつながっているような気がします。
だがそれは錯覚です。忘れているだけです。見なかったことにしているだけです。自分が有限だということを。『死』というものを。
現状が幸せならば、この幸せが永遠に続いてくれればいいな、と人は思います。
しかしそれは残されたライフタイムが減っていっているということを忘れているだけです。
コトダマ思想ですね。直視しなければ「なかったこと」にしてしまえます。
しかしいつか死の時が来ます。あるいは突然に。
その時に「見なかったこと」にしてきた人たちは、準備ができているのでしょうか?
後悔はないのでしょうか。
後悔するんでしょうな。一度きりの人生ですから。
あれもしかたった。これもしたかった。
そう思って死んでいくんでしょうな。
結局死がすべてを帳消しにしてしまうといえばそれまでですが、できれば後悔のすくない生き方をしたいものです。
早期退職を選んだ同僚は、そうしたのだと思います。
死を見つめるのは辛いことです。
しかし退職するということは、それを直視するということです。自分はいつか死ぬ。この幸せもいつか終わる。それを認めなければ、退職などできるものではありません。
さぞや辛いことだったと思います。
それでも退職に踏み切ったのは『自分の納得する人生を歩みたいから』。死を認めた上で、すこしでも自分の納得する人生を歩みたいという気持ちで、退職を決断したのだと思います。
勇気があったのだなあ。
職場を去り行く後ろ姿を見ながら、また散り行く桜の下をジョギングしながら、そんなことを考えていたのでした。